承安4年の春 ー顕清ー
式子内親王と慈円の間に生まれた子供の養父になった顕清とは、いったい何者なのか、なぜ顕清が選ばれたのかを、もっと詳しく見ていこうと思います。顕清の系図をご覧ください。
藤原顕清の系図(日野家)
*緑字で表記してある頼資と家光は、時代はずっと先になりますが、安貞元年(1227)3月1日の顕性(顕清か)死去の際に、軽服(きょうぶく、遠縁の者が亡くなった時の軽い服喪、またその服装)をしたとされている頼賢(頼資か)と家光です。またこの2人は、6日後の3月7日に行なわれた法要にも参列しています。(「明月記」より)
顕清は、経房の義弟だった
顕清は、藤原(日野)政業の息子ですが養子です。本当の父は儒(じゅ)*であったそうですが、名前まではわかっていません。兄に政業の嫡子(ちゃくし、家督を継ぐ者、長男)能業がいます。能業は、慈円の兄の九条兼実の家司(けいし)でした。この能業の室(妻)が、平範家の娘です。平範家にはもう一人娘がいて、この娘は藤原経房の室になっています。
*儒とは、大学寮で学ぶ学生(がくしょう)で秀才、進士、明法、明経などの試験に及第した者です。(官職要解より)
つまり、能業と経房は妻同士が姉妹ですから、義兄弟になります。能業の弟である顕清も、経房の義弟ということになります。顕清は経房の身内でした。
妻帯していて里住みしている僧侶の家、しかも日野家という実務派の中堅貴族の傍流で、経房の縁者でもあること、幼い息子(顕延)がいることも、養い親としては条件がそろっています。後白河院に、式子内親王と慈円の子供の養父として顕清を推薦したのは、経房であると考えられます。
これまで、顕清は歴史の闇に埋もれたまま、特に追究されることはなかったのですが、藤原経房を介すると、意外にもすぐ手が届く身近な人物だったわけです。
顕清のその後
顕清は、「系図纂要(けいずさんよう)」によると、最終的な役職は最勝寺上座となっているので、その後も順調に栄進していったようです。息子の顕延も、「僧伝史料三」(佐藤亮雄編)によると十一面堂執行(しぎょう)(法勝寺か)とされているので、僧として足跡を残しています。
顕清の死去は、これまでも何度か述べているように、藤原定家の明月記に記されています。安貞元年(1227)3月1日、「顕性僧都という山の僧死去す。頼賢、家光は軽服(きょうぶく)と云々(うんぬん)。」
顕性を顕清、頼賢を頼資(資の読み替えに関しては、訓注の稲村榮一氏の意見による)と読み替えると、日野家の一族の話です。山の僧というと比叡山の僧となりますが、僧綱補任残闕(当ブログ、「式子内親王と慈円の恋5」を参照してください。)には東(東寺か)と書かれているので、この点も疑問が残りますが、承安4年(1174)から50年以上も歳月が流れているので、定家の得た情報にも何か錯乱があったのかもしれません。僧綱補任残闕の寿永3年(1184)時点の顕清の年齢を40歳と読むと、安貞元年(1227)には顕清の年齢は83歳となり、当時としては相当な長寿で亡くなったことになります。
明月記には続いて「前殿(さきのとの、ここでは九条道家のこと)仰せていう、忠弘法師(定家の家令)宅を壇所となし、召し進むべく、召し仰せおわんぬ。」とあります。
つまり、九条道家が、九条家に仕える定家に顕清の法要を行なうことを命じているのです。3月7日に忠弘宅で行なわれた法要に参列したのは次に挙げる人々です。
●九条良平(内大臣、兼実3男・慈円甥・道家叔父、44歳)九条家
●藤原定高(中納言、経房甥、38歳)勧修寺(かじゅうじ)流
●日野家光(蔵人頭、日野家15代当主で顕清の遠縁、29歳)日野家
●日野頼資(権中納言、家光の大叔父で顕清の遠縁、46歳)日野家
●藤原知家(正三位・中宮亮、46歳)
●藤原為家(参議、定家の嫡男、30歳)御子左(みこひだり)家・西園寺家
安貞元年(1227)といえば、承久の乱(1221)を経て時代が大きく移り変わり、世代も次の代に交代していた頃です。経房が亡くなって27年、式子内親王は26年前、顕清女(尾張局)は23年前、慈円もこの年の2年前に71歳で亡くなっています。後鳥羽院は承久の乱後、隠岐の島に配流の身となり、尾張局所生の皇子である道覚法親王は、西山善峯寺に籠居して6年目24歳です。
こうした時代背景のもとに、顕清の法要が表向きは忠弘主催によってひっそりと行なわれました。
九条家の供養
参列者を見てください。知家は、后妃の事を扱う中宮職(しき)の中宮亮(すけ)ですから、朝廷の役人としての参列です。顕清女(尾張局)が後鳥羽院の妃であり道覚法親王の母であれば当然のことです。日野家の一族が参列するのもまた当然といえます。では、九条家はなぜ実質的な主催者となっているのか、なぜ定高が参列し、定家が法要を命じられ為家が参列しているのか、そのことを考えてみようと思います。
慈円は、若かった頃は顕清にも反発し経房にも好印象は持っていなかった*ようですが、死を目前にした晩年は、尾張局の養育に当たり、その宮仕えにも貢献した二人に対して、感謝していたはずです。加えて、経房は式子内親王の後見人として亡くなる直前まで尽力しました。藤原定高はその経房の名代(みょうだい、代理)としての参列でしょう。定高は、九条道家からの信頼も厚く、関東申次(もうしつぎ)だった道家を支えて鎌倉幕府との交渉の役目も果たしていたといわれています。九条家の要請に応えて、顕清の法要に参列したものと推測されます。
*「愚管抄」第六巻に、経房を評して「天性口がましきなんありける人」(もともと多弁で口やかましい人)「心得ぬ人」(事情をよく飲み込めない人)とある。
為家の参列は、これもまた式子内親王との関わりが深かった俊成と定家の代理としての参列であったと思います。慈円と定家の関係については、まだ詳しく触れていませんが、定家が式子内親王の晩年に大炊御門殿に日参して式子内親王の病状を、逐一日記に書き綴っているのはご承知の通りです。これに関しては、慈円の側から定家に対して式子内親王に近侍するようにという要請があった、つまり、極秘の私的な契約があったのではないかと私は考えています。この事は章を改めて述べるつもりです。
そう考えると、この法要を企図したのは2年前に亡くなった晩年の慈円である可能性があります。なぜなら承安4年(1174)の出来事を知っているのは、安貞元年(1227)に死んだ顕清以外残っていないからです。慈円が、自分の死後、顕清が亡くなった時の法要、場所、参列者を九条道家に遺言として残したと考えれば、この法要についての疑問や不審な点が説明できます。
そして定家は、顕清の法要を請け負うことによって慈円からの最後の依頼を遂行したと思ったのではないでしょうか。
ここに一人欠けている人物がいます。実快です。実快は寛喜2年(1230)2月まで存命であるようですが、78歳の高齢です。その代理として候補に挙がるのは、徳大寺家の5代当主、徳大寺実基(さねもと、34歳)ですが、実基はこの年の1月30日に父公継(きんつぐ)が亡くなり、喪に服していました。公継も実基も、慈円とゆかりの深い善峯寺(よしみねでら)の支援者*でしたから、慈円にとっては親しい間柄だったと思います。しかし、もし徳大寺家が参列者のリストに入っていたとしても、公継の死によって、実基はこの法要には、参列しなかったと思います。
*論文「今様をうたう徳大寺実定の意味:屋代本『平家物語』から」尾崎勇氏より
式子・in・Wonderland
春ぞかし思ふばかりにうちかすみ
めぐむ梢ぞながめられける
前斎院御百首
「春ぞかし」の初句切れ、「春ですね」、若い女性の会話のような心の弾みが感じられます。春の女神が織った霞のヴェールに囲まれて、樹々の芽吹きを楽しんでいるように見えます。
しかし、そうではありません。この歌は、唐の詩人、白居易(白楽天)の七言律詩をもとにしています。
春至 白居易
若為南国春還至
如何(いかん)せん南国春また至るを
争向東楼日又長
如何せん東楼(とうろう)日又長きを
白片落梅浮澗水
白片の落梅は澗水(かんすい)に浮かぶ
黄梢新柳出城墻
黄梢(こうしょう)の新柳(しんりゅう)は城墻(せいしょう)より出でたり
閑拈蕉葉題詩詠
閑(しず)かに蕉葉(しょうよう)を拈(と)り詩を題して詠じ
悶取藤枝引酒嘗
悶(むすぼ)れて藤枝(とうし)を取り酒を引きて嘗(な)む
楽事漸無身漸老
楽事(らくじ)漸(ようや)く無くして身漸(ようや)く老ゆ
従今始擬負風光
今より始めて擬(ぎ)す風光に負(そむ)かんことを*
*詳しい解釈、説明は「雁の玉梓(たまづさ)-やまとうたblogー」をご覧ください。
暖かい地方の春たけなわの美しい風景が詩情豊かに描かれ、詩を詠じ、酒を楽しむ日々を過ごしてきた、まさに人生の歓楽が語られています。しかし、七句から一転して、年老いて友も家族も若々しい情熱も戻ってこない、その喪失感と無念さに、いまさらのように茫然とする作者がいます。「如何せん」、春がどんなに美しかろうとどうしたらいいというのだ、深い嘆息が聞こえてくるようです。今からは、「風光に負(そむ)かん」、美しい自然も、生きる歓びも、もう自分には関係がない、そう思って生きていこう、という索漠とした諦観で、八句を結んでいます。
式子内親王の和歌は、この詩の四句を主題としています。「春ぞかし」には、深い嘆息が込められているようです。
慈円にも、この詩を主題とした和歌があります。
雪をくぐる谷の小川は春ぞかし
かきねの梅は散りけるものを
(三句を主題とする)
春のやどのつづくかきねを見わたせば
梢にさらす青柳(あおやぎ)の糸
(四句を主題とする)
これは、承久3年(1221)、後鳥羽院が承久の乱を起こした4ヶ月後に詠まれたものです。式子内親王の歌からは、40年くらい後の作かもしれません。しかし、同じ「春ぞかし」という言葉が使われているのは偶然とは思えないので、慈円はこの式子内親王の歌を知っていたのかもしれません。