式子内親王-忍ぶる恋の歌-3
死を意識した歌のうち残りの5首
式子内親王の忍ぶる恋の歌のうち、死を意識した和歌4首について、作中人物が恋人と「後(のち)の世の契り」を交わして詠んだ歌、という設定があるのではないかと考えてきました。死を意識した和歌は、あと5首あります。 177は、式子内親王の「百首」に入っているので、だいたい文治4年(1188)から建久5年(1194)までの作と考えられます。これ以外の歌は、勅撰集に入っていますが制作年代が不明である歌です。時系列で並べることはできませんが、内容から分類すると次のようになります。
仏教的な来世観に対して、怖(おそ)れと不安を述べた歌
361 君ゆゑや はじめもはても限りなき 浮世をめぐる身ともなりなん
あなたを恋したばかりに、私は永遠に続くという輪廻転生(りんねてんしょう*)から逃(のが)れられないかもしれない。あなたへの執着という迷いから抜け出ることができないから。
*輪廻転生(りんねてんしょう)とは、インドの思想で、あらゆる生物が何度も生まれ変わり、生と死を無限に繰り返すという考え方です。生まれ変わる時には、生前の行い(カルマ)によって次に転生する先が決まります。輪廻転生は苦と見なされ、二度と転生を繰り返すことのない輪廻からの解放、解脱(げだつ)が理想とされています。
仏教においても、この輪廻転生が教義の前提となっており、苦の輪廻から脱することを目的として種々の修行が行われます。日本に伝わった大乗仏教では、生命あるものの転生先は六つで、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六道(ろくどう)輪廻が説かれています。
この六道のうち、輪廻からの永遠の解放を意味する解脱(げだつ)が可能なのは、人間道だけです。人間として生まれること自体が、大変難(むずか)しく希有(けう)なことであり、それは、この世界の土全部に対して爪(つめ)の上に乗るくらいの極めてわずかな土の量くらいの割合で、人とは、それほど「受けがたき身」(なかなか受け取ることができない種類の生命)であると言われました。そのうえ、この世で仏法に出会って修行する機会を得たのなら、何にも増して喜ばしく感謝すべき出来事であるとされます。なぜなら仏法に帰依し、悟りを得て、死後、浄土に往生することこそが解脱であり救いであるからです。
ところでこの歌は、第11章2ですでに紹介しています。藤原定家が、式子内親王と同時代の歌人たちとの間接的交流をはかったことの成果として、相互に影響関係をもつ和歌が作られました。それらの例の一つで、交流の相手方は九条家の歌人である慈円です。慈円の和歌は、文治4年(1188)秋の御裳濯(みもすそ)百首に入っています。
慈円の和歌
思ひいる心のすゑをたづぬとて しばしうき世にめぐるばかりぞ
慈円
(あなたへの思いを断ち切れず)思いつめた我が心が将来どうなっていくのか、その行く末を知るために、死ぬまでのしばしの間、この世にとどまっているのです。(あなたへの思いは、この世への執着から、浄土に往生する機縁へと変貌して、解脱を助けるものになることでしょう。)
この和歌は、「私は仏法にこの身を捧げて、苦しむ人々を救うために、命のある限り尽力したい」という内容の和歌ではありません。慈円には、厳しい修行に打ち込みながらも、煩悩の火を消せずに葛藤(かっとう)を抱えて苦しんだ自身の体験がありました。そこで人間存在の本質を見た慈円が、身をもって獲得した、菩提心(ぼだいしん、悟りを得ること)とは何か、解脱とは何か、という達観のエッセンスを和歌の言葉に変えて表現した、いわば釈教歌です。
ここで言う「思ひいる心」とは、煩悩そのもののことです。これは人間として生まれた者なら誰でも持っています。思いつめた心が原因となって、死後、輪廻転生の無限ループに陥(おちい)るという結果がもたらされます。因果応報です。この場合、耐えがたい苦痛に満ちた種々の「うき世」を永久にめぐり続けなければなりません。
式子内親王の和歌は、この仏教が教える六道輪廻の恐ろしさに対する不安を述べています。
一方、仏法に出会い、煩悩を浄化するために日々修行を積むならば、煩悩そのものである「思ひいる心」は、次第に「この世を厭う心」へと変容する可能性を秘めていると説くのが慈円です。さらに、「この世を厭う心」は「浄土に憧れる心」へと変容します。そして浄土に往生するための修行が原因となって、死後、極楽浄土に往生するという結果がもたらされます。この因果応報によって、輪廻転生の無数の恐ろしいうき世は消滅します。解脱(げだつ)、救いが実現するのです。うき世は、この世で自分が死ぬまでの間、「思ひいる心」と向き合って浄化するための修行の期間と捉(とら)えられます。
慈円はこのように、「煩悩に苦しむことからしか悟りは得られない、煩悩と菩提心とは対立するものではなく、表裏一体のものである」という考えを、釈教歌という形で説いています。そして、これは式子内親王の「煩悩は、菩提を妨(さまた)げるものである」という認識に対して、もう一段高い次元での一つの答えを示すものとなっています。
慈円と式子内親王の歌が、実際に輪廻転生についての問答(もんどう)歌、贈答歌であったかどうかは、わかりません。ただ、贈答歌には、
①贈歌の中の主要な語句を、答歌の中に必ず取り入れる
②贈歌に込められている心情や意図を、答歌では機知でもって反対の方向に切り返す
という常套(じょうとう)手段があって、これが贈答歌のルールとなっています。この場合も、「うき世をめぐる」という語句を受けて、「うき世にめぐる」とほぼ同じ語句を取り入れていること、「限りなきうき世を」に対して、「しばしうき世に」と反対の言葉で切り返していることで、これが贈答歌の約束事に沿った詠み方であることです。
「輪廻転生」という思想の影響を受けた和歌は、それまでにもありました。しかし、正面から自分の業(ごう、生きている間に積み重ねた行為、カルマ)を見つめ、その報(むく)いを怖(おそ)れる内容を持った和歌は、平安末期から鎌倉時代初期にかけての式子内親王によって初めて詠まれました。同じ時代に、我が身の業(ごう)を、浄化することによって解脱(げだつ)に至ろうとする道筋を、繰り返し和歌によって示そうとしていたのが、西行の後継者たらんとしていた慈円です。
参考までに、平安時代以降に詠まれた輪廻転生にまつわる歌を挙げると次のようなものがあります。どれも優れた和歌ですが、上記のような輪廻転生からの解脱(げだつ)という観点とはまた違った、むしろ輪廻転生を前提として再会することに救いを見出すといった受け取り方がされています。
あらざらむ この世のほかの思い出に いまひとたびのあふこともがな
和泉式部 (978頃~?)
私が死んでしまって、もうこの世にいなくなった時、自分がどんな世にいるのかはわかりません。その時に、この世の懐(なつ)かしい思い出としてあなたのことを思い出せるよう、せめてもう一度お逢いしたいのです。。
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われてもすゑにあはむとぞ思ふ
崇徳上皇 (1119~1164)
滝のように落ちて流れてくる水が、浅瀬のために急流となり、岩にぶつかってしぶきをあげながら、右に左に分かれて飛び散って流れていく、たとえ今はそうでも、川は次第に深くゆるやかな流れとなって、分かれ分かれになった水も最後には同じ一つの水としてたゆたうことだろう。私たちもこの世では離ればなれになってしまうかもしれないが、いつかまた来世で巡り合って、同じ一つの世をあなたと一緒に生きていきたい。
逢ふことは身をかへてとも待つべきを 世々を隔(へだ)てむほどぞかなしき
藤原俊成(1114~1204)
あなたと逢う日はこの世ではやって来ない、来世で巡り合うのを待つしかないのだ。それまでにいったいどれほどの生と死を繰り返さなければならないというのか。こんなに愛しいのに離ればなれのままで。
恋ひしなむ後の世までの思ひ出は しのぶ心のかよふばかりか
平 忠度(1144~1184)
私は、あなたを恋いしたまま死んでしまうでしょう。来世でようやく逢えるその時まで、私は何をあなたとの思い出にすればよいのでしょうか。互いの恋の思いを確かめながらも、心に秘めて生きてきたその年月だけが思い出というなら、あまりにつらいことです。
他の歌人たちの輪廻転生をテーマにした歌と比(くら)べると、式子内親王の和歌も、慈円の和歌も、「怖れ」「解脱」という宗教的観点から詠まれていて、これはかなり珍しい例となります。このことも二つの和歌には、何か繋(つな)がりがあるのではないかと考えるに至った理由です。
式子内親王の出家について
慈円の和歌が、式子内親王の和歌に触発(しょくはつ)されて詠まれたのであれば、式子内親王は文治4年前後に、仏教が教える永遠に続く苦しみというものに対する怖れと不安を表明しているということになります。
また、式子内親王は、同じく文治4年前後にまとめられたと推測される前斎院御百首で、忍ぶる恋の歌の作中人物に託(たく)して、後の世の契りという宗教的な決意を表明しています。(83,85)
これらのことは、式子内親王自身が、その頃すでに仏教と深く関わっていた、出家してはいないが、仏教という思想に大きな影響を受けていたということを示しています。
式子内親王が出家したのは、第14章で述べたように文治6年(1190)から建久2年(1191)の時期です。その原因は、八条院と以仁王の姫宮に対する呪詛の嫌疑が式子内親王にかかったためと言われています。
ここでは、その2年以上前から式子内親王自身の内面で、出家する準備が出来ていたのではないかということを述べておきます。発心(ほっしん、悟りを得ようと決意すること)を促(うなが)したのは、慈円という仏法の道においての先達(せんだつ、先を行く人)がいたこと、その慈円との恋が二人にとって大きな意味をもっていたことです。
呪詛事件は直接的なきっかけとなったかもしれませんが、出家自体は式子内親王にとっては必然性があり、その実行というのは時間の問題ではなかったかと思います。
決意の反動とも言える、迷いに翻弄(ほんろう)される歌
式子内親王の忍ぶる恋の歌の中で死を意識した残り5首について、1首目を見たところです。次に3首挙げます。
177 我(わが)恋はあふにもかへすよしなくて 命ばかりの絶(たえ)やはてなん
私の恋は、会う手立てというものがないのです。思いをこの世に残したまま、命だけが絶え果ててしまうのでしょうか。
372 いかにせむ恋ぞ死ぬべき 会ふまでとおもふにかかる命ならずは
どうすればいいのか、会えないのであれば、この思いもろともに耐えきれず死んでしまうにちがいありません。お会いするまでと思って、かろうじてながらえている命でなかったならば。
318 玉のを(緒)よ絶(たえ)なばたえね ながらへば 忍ぶることのよはりもぞする
いっそのこと早く命が尽きてしまえばよい。生きていれば、この秘密の恋の苦しみに耐えることができずに、人に知られてしまいそうだから。
前章で取り上げた、死を意識した和歌4首と比べると、正反対の内容です。作中人物は、自分の火葬の煙を例に引きながらこの世を去る決意を告げる凛々(りり)しい女性ではありません。後の世の契りという約束を果たす使命感は、もう彼女を奮い立たせてはいません。彼女が求めるものは、恋人とのこの世での再会です。その再会が絶望的であるなら、自分は耐えきれずに死んでしまうだろうと言っています。
この恋は、秘密の恋、あるいはわりなき(道理に反する)恋という設定ですから、仏教的な観点から言えば、迷いであり煩悩ということになります。貪欲(どんよく)とも、邪淫(じゃいん)とも言われます。このまま、恋への執着から離れられない場合、それはカルマ(業、ごう)となって、死んでからも永遠に輪廻転生を繰り返さなければなりません。それは、罰ではなく報(むく)いと呼ばれます。 この時、死は、浄土へと続く道の途中にある通過点のようなものではなく、解脱と救いからの追放、永遠の流浪(るろう)の始まりにほかなりません。
では、この作中人物は別の人物としての設定かというと、そうではなく、同じ人物の表と裏、あるいは変化した姿としての表現でしょう。そこには、「たとえ悟りの境地に進んだ者であっても、次の瞬間には元の煩悩の世界に戻って悩み苦しむということが起こり得る、そしてその繰り返しは、生きている限り続くものだ」という、仏教的な人間理解、人間観があります。式子内親王もそうした観点に立って、作中人物が、ある時はひたむきに仏教に帰依(きえ、仏を信じてその教えに従うこと)する歌を詠み、ある時は迷いに翻弄(ほんろう)される歌を詠んでいるのです。
作中人物のジグザグの行程は、その意味で予想される振幅とも言えますが、その振り子が、「仏教への帰依」から「この世の迷い」の方向に振れた時に、作者、式子内親王が、作中人物の心情表現の中心においているのが ”あはれ”という観念であるように思います。
”あはれ”とは
第14章で、式子内親王の忍ぶる恋の和歌の中から、「死」を念頭に置いた歌と「あはれ」という語が入っている歌を紹介しました。その「あはれ」の歌をもう一度ご覧ください。
72 ほのかにも哀れはかけよ 思ひ草 下葉にまがふ露ももらさじ
誰にも気づかれぬようにそっとわたしを愛してください。うつむいて咲く思ひ草の下葉に露が入り乱れるように、涙の跡が乾くときはないけれども、決して人には悟られないようにしますから。
76 哀れとも言はざらめやと思ひつゝ 我のみ知りし世を恋ふるかな
あの人は、ああ、懐かしいねと言ってはくれないだろうと思いながらも、二人だけが知っている楽しかった時代をなんと恋しく思い出すことだろう。
84 つらしとも哀(あはれ)ともまづ忘られぬ 月日いくたびめぐり来ぬらむ
あの人のことを冷淡だと思ったり愛しいと思ったりした、その恋の思い出はとうてい忘れられない。あれからどれくらいの月日が経ったのだろうか。
174 哀(あはれ)とはさすがにみるや うち出でし思ふなみだをせめてもらすを
今まで我慢してきた涙が思わずあふれ出たのを見たならば、つれないあの人でもさすがに、愛おしいと思ってくれるでしょうか。
”あはれ”という語を、愛する、懐かしい、愛(いと)しい、愛(いと)おしい、と訳しました。
現代語では、”あわれ”は、かわいそう、気の毒というネガティブな意味合いで用いられることが一般的ですが、元来は、胸がキュッと締め付けられるような愛情や共感の感覚を表す言葉だったと言われています。
愛する大切な人を失ったときなども、やはり感情が胸に迫って”あはれ”と言ったのですが、そうした哀惜(あいせき)、憐憫(れんびん)の情を表わす言葉でもあったために、かわいそう、気の毒だ、という使われ方が、現代に残ったのでしょう。
しかし、平安時代から鎌倉時代にかけての”あはれ”の用いられ方は、もっと多様で、たとえば「あっぱれ」のように、人の潔(いさぎよ)さや技量をほめたたえる言葉に形を変えたり、美しい、かわいい、素晴らしいといった褒(ほ)め言葉だったり、健気(けなげ)である、いじらしい、のような意味合いで使われたりもします。また、自然の風景や、動物、建造物などに対しても、その美しさ、懐かしさ、はかなさ、を人のように愛おしむ表現として使われました。
しのぶべき人もなき身はあるおりに あはれあはれといひやおかまし
和泉式部
自分が死んだあとに思い出して惜しんでくれる人が誰もいないような人は、生きているうちに、ああ頑張って生きてるね、えらいね、と自分をいっぱい褒(ほ)めておくといいですよ
あはれあはれ思へばかなし つゐ(い)のはて 忍ぶべき人誰となき身を
式子内親王
ああ健気(けなげ)だこと、何ていじらしい、生きている間に自分に言ってあげましょう。死んだら誰からも懐かしく思い出してもらえないかもしれないと思うと、我が身がとっても愛おしくなりますね
式子内親王は、200年も前の時代に生きた和泉式部の歌を受けて、親しい女同士の軽いやり取りのように歌を返しています。ここでは、”あはれ” は、かわいそう、とか、みじめだ、とかの意味ではなく、”かなし” もまた、悲しい、という感情だけを意味しているのではなく、愛(かな)し、愛(いと)おしいという意味合いであることは言うまでもありません。和泉式部の諧謔(かいぎゃく、ユーモア、おかしみ)味のある、たたみ掛けるような口ぶりに対して、同様のユーモアをもって温かい共感の言葉で応えています。
”あはれ”を否定的、ネガティブな言葉として捉えれば、この歌は、私は何とかわいそうな女だろう、誰も自分の死を悼(いた)んでくれないなんて悲しすぎる、という意味合いになります。ところが、”あはれ”を肯定的、ポジティブな言葉と捉えれば、その様相は一変します。老境にさしかかった独り身の女性同士の、ほのぼのとした共感と慰(なぐさ)めの情景が浮かび上がってくるのです。
”あはれ”は、当時の最大級の褒め言葉、愛情表現だったと言っても過言ではありません。現代では、ほとんど使われない用法ですが、式子内親王の作中人物が求めたものは、まさにこの”あはれ”という人を愛(いと)おしむ感情、生きている者同士の共感だったのではないでしょうか。
忍ぶる恋の歌に繰り返し現れる、「あはれをかけよ」「あはれと見るや」「あはれとも言はざらむ」などの語はストレートな愛情表現、 愛している、愛(いと)おしい、の意味で受け取るのが妥当であると思いますが、現代語の「あわれ」の使われ方に押されてか、「私をかわいそうだと思ってください」というように理解されることが多いようです。
”あはれ” イコール ”かわいそう” と解釈することで、式子内親王の「運命に翻弄(ほんろう)された悲劇の内親王」という固定的なイメージが、さらに強くなってしまいました。それは、式子内親王の人物像を考える意味でも、式子内親王の和歌を鑑賞するうえでも、損失であり、残念なことです。
古来風体抄
ところで、次の歌をご覧ください。
2333 ふる雪の空に消(け)ぬべく恋ふれども あふよしなくて月ぞ経(へ)にける
柿本人麻呂
空から降ってくる雪が地面に降りる前に消えてゆく、そんなふうに私も命が消え入るほど、あの人が恋しくてたまらないのに、逢うための手立てがないままに、ただ月日だけが経(た)っていくよ。
560 恋ひ死なむ後(のち)はなにせむ 生ける日のためこそ妹(いも)を見まく欲(ほ)りすれ
大伴百代
恋にやつれて死んでしまってから何をしようというのか。生きているからこそあの人と逢いたい、そのために生きているのだ。
2256 秋の穂を しのに おしなべ おく露の 消(け)かもしなまし 恋ひつつあらずは
作者不詳
秋になって草の穂が垂れ下がるほどいっぱいの露が降(お)りている、それは私の涙のようだ。陽が射(さ)せば露が消えていくように、私もいっそ死んでしまいたい。恋する気持ちを止められてしまうのならば。
2377 何せむに命継ぎけむ 吾妹子(わぎもこ)に恋ひざる前(さき)に死なましものを
柿本人麻呂
何のために生き続けるというのか。愛するあの人にもう逢えないのなら、その前に死んでしまったほうがどれほどよいことか。
これらは、奈良時代末期に編纂(へんさん)された現存する最古の和歌集、万葉集に入っている和歌(番号は国歌大観による)です。恋の重さと命をめぐる万葉人の想念が、式子内親王のそれぞれの歌と類似しています。
177 我(わが)恋はあふにもかへすよしなくて 命ばかりの絶(たえ)やはてなん
372 いかにせむ恋ぞ死ぬべき 会ふまでとおもふにかかる命ならずは
318 玉のを(緒)よ絶(たえ)なばたえね ながらへば 忍ぶることのよはりもぞする
177➡2333 ( 逢いたいのにその手段がない、苦しくて死んでしまいそうだ。)
372➡560(逢えると思うから生きていける、でなければむなしく死んでしまうだろう。)
318➡2256,2377(もう生きていたくない、この恋を断念しなければならないのなら。)
式子内親王の歌は、万葉集の4首と同じ発想で作られたように見えます。そこに、仏教的な世界観、すなわち輪廻転生と解脱の思想は感じ取れません。むしろその対極にある、人間の生の営みとしての恋というものを強く肯定する意識が感じられます。実は、この万葉4首は藤原俊成の「古来風体抄」の中で、万葉集の相聞(そうもん、主に男女の恋の気持ちを詠んだ歌)の実例として挙(あ)げられたものの一部です。
古来風体抄は、式子内親王の求めに応じて俊成によって書かれた歌論書で、建久8年(1197)に式子内親王に献上されました。この時、俊成は84歳でした。彼の年齢を考慮すると、新しく書き下ろしたというよりは、手元にある覚え書きを編集したのかもしれません。俊成は、治承5年(1181)から少なくとも10年近く、式子内親王の和歌の師を勤めたと推測されますが、その間の和歌の講義の原稿をまとめたものが、この古来風体抄という歌論書になったのではないかと私は想像しています。古来風体抄に取り上げられた和歌には、建久8年の献上以前に式子内親王が本歌取りをしている和歌や、参考にしたのではないかと思うような表現が、しばしば認められるからです。そうであるなら、この万葉4首は式子内親王が親しんだ和歌の教材だったのかもしれないのです。
式子内親王は、俊成から学んだ万葉集の和歌に、仏教が深く浸透する以前の、日本の古代の人々の喜怒哀楽の心情と感慨を知ったと思います。なかでも恋の和歌には、妨(さまた)げられた恋、別れなければならない恋、遠く離ればなれになる恋、死に別れる恋などに、人を愛する心情が切々と歌い上げられています。
忍ぶる恋の和歌の作中人物が、仏教に帰依しようとする歌を詠みながらも、一方で迷いに翻弄(ほんろう)される歌を詠むとき、その心情表現の中心には、”あはれ”という観念があるのではないかと前に述べました。
”あはれ” は、率直に人を愛おしむ感覚です。式子内親王が作中人物に詠ませている和歌には、万葉集の相聞に見出される ”あはれ” の源流が、それとは見えない形で隠れているように思います。
”あはれ”という語が用いられている和歌は万葉集では5首にすぎず、なかでも人について使われているのは1首だけですが、古来風体抄には、その1首も取り上げられています。
3197 住吉(すみのえ)の岸に向かえる淡路島 あはれと君をいはぬ日はなし
住吉(すみのえ)の岸に向かい合っている淡路島、その淡路島ではないが、あなたに向かって「あわれ」(ああ、可愛い、大好きだよ)と口に出して言わない日はない。そのくらいあなたが愛しいのです。
”あはれ”という世界観
人間の営みを俯瞰(ふかん、高い所から眺めること)して、その存在を愛おしむという視点は、人間的でありながらも、人間を超えるいわば神(日本の神です)の視点でもあります。和歌は、その発生からして神々から始まったと、古事記では語られ、万葉集に記された神の子孫である代々の天皇や皇子たち、皇女たち、妃たちの年代記には、彼らの生涯を讃(たた)え哀惜(あいせき)する和歌が捧げられています。それらの和歌は、ついには死にゆく運命を持った人間の営(いとな)みの儚(はかな)さや健気(けなげ)さに対する、称賛(しょうさん)でもあり憐憫(れんびん)でもありました。また、そうした歌を声に出して詠み歌うことは、生きている者同士の共感を誘う行為でもありました。
和歌が、寺よりもはるかに多く神社に寄進されているのはこうした歴史があるからです。
絶唱の秘密
式子内親王の忍ぶる恋の歌の中には、「玉の緒よ」に代表される絶唱と言ってもよい和歌があります。これらの歌は、心のおもむくままに詠まれたものではなく、仏の教えというものにすがりきれない心の迷いとして、万葉集の相聞を下敷きに創作されたものではないか、と私は考えます。
これまで、式子内親王の忍ぶる恋の和歌に、万葉集との関係が言及されてきたことはなかったようです。その理由は、主人公の悲痛な心情の発露が、忍ぶる恋というストーリーの高まりの中で、ごく自然に展開されるため、そこにあえて外的な影響、あるいは作為を見い出す必要がなかったということかもしれません。
しかし、これらの和歌には、恋の率直な言挙(あ)げと運命への素朴な問いかけがあり、これは万葉集的なものといってよいと思います。式子内親王には、万葉集まで遡(さかのぼ)って恋の形を問わなければならない事情があったものと思われます。
なぜ万葉集か、鎌倉時代は無常感漂う時代
浄土に救いを求める仏教の思想では、恋の心情は「迷い」とされています。それに対して日本の和歌では逆に「人の心を種として、万(よろづ)の言(こと)の葉とぞなれりける。」(古今和歌集仮名序)として、恋の心情というものが共感をもって受け入れられ尊重(そんちょう)されてきました。
仏教が、この世を厭(いと)うのに対して、和歌は、世の中というものを愛(いと)おしむのです。式子内親王は、長年にわたり和歌に親しみ和歌の文化圏で生きてきた人ですから、世を人を愛おしむ ”あはれ” という観念が、和歌という芸術においてどれほど大切な役割を果たしているかよく知っていました。
忍ぶる恋の歌の構成上、仏教への帰依を誓う和歌を詠んだ作中人物は、悟りまでのジグザグの行程として、迷いの極限に振れた和歌も詠まなければなりません。式子内親王は、”あはれ” を基軸とした歌を作ればよかったのです。
しかし、それは簡単なことではありませんでした。鎌倉時代には、すでに世の中全体に仏教的な無常感が浸透していました。和歌の言葉も例外ではなく、式子内親王自身の感性までも、この無常感の影響を受けていたからです。
仏教の根本的な考え方では無常感ではなく、無常観というのが正しいそうです。無常観は「すべてのものは生滅変化し不変なものは何一つとしてない」という認識を言います。仏教の教義が更に説くのは、この無常観を受け入れないことから苦が生じる、苦から脱却するためには、無常観の主体的な実践、すなわち、この世の存在するものに対するあらゆる執着から離れなければならないということです。
”あはれ ”と、無常観とは相容れない関係にあり、仏教界では、この二つは論理的に峻別(しゅんべつ、厳しく区別すること)され、出家者は、この世を愛おしむ ”あはれ”というものを知る心を、捨てなければならないとされていました。”あはれ”を感じることは、煩悩(ぼんのう)によって清浄な心を汚(けが)すことにほかならず、これを仏教界では染汚(ぜんま)と言っています。
仏教界ではこのように、”あはれ”という日本独自の観念に対して一線を画していました。しかし、世俗にある貴族、武士、庶民などの一般社会においては、この無常観が、もともとの仏教の教義から離れ、四季の移ろいや月の満ち欠けから始まり、人間界の栄枯盛衰、時代の移り変わりに至るまで、失われたもの、変わりゆくものに対して、その儚(はかな)さ、脆(もろ)さに、繊細な美しさを見い出そうとする独特の美意識である「無常感」となって発展したと言われています。
たとえば、”はかなし”という言葉が、移ろいゆくものの繊細な美しさという意味合いでは、愛惜(あいせき)、称賛の言葉で、”あはれ”に通ずるものとして肯定されながら、一方では、頼りない、あっけない、という意味で、「生滅変化し不変なものは何一つない」という無常観に直結する否定的な言葉となります。矛盾する二つが論理的に突き詰められないまま、「無常感」として同時に肯定され共存する道をたどったわけです。
物語の世界でも和歌の世界でも、”あはれ”という伝統的な美意識に、何となく仏教的な感じのする「無常感」が添えられ、多くの言葉が両義的な意味を負わせられた結果、どういうことが起きたでしょうか。
花が散るのを見ても、月が山の端から出るのを見ても、あるいは恋の局面においてさえ、物語や和歌には避けがたく仏教的な無常感が漂うようになりました。(参考までに、当ブログ第10章の、式子 ・in・Wonderland を読んでください。)
これが、式子内親王が、仏教に帰依しようとする和歌に対して、迷いに翻弄される和歌を作ろうとしたとき、万葉集にまでさかのぼって、柿本人麻呂や大伴百代に恋の形を問わなければならなかった理由です。
これらの和歌は、虚無感と無常感におおわれた鎌倉時代にあって、大変珍しい趣向であったこと、当時の歌人たちには想像の及ばぬ素朴さと率直さによって、遠く万葉の相聞を思わせる絶唱となりえたということではないかと思います。
あふよし(逢ふ由)
370 いきてよも 明日まで人はつらからじ この夕暮れを問はば問へかし
生きている時間はあまりありません。まさか、命が尽きるその日まで、あなたは冷淡ではいないでしょう。まだ命の灯(ともしび)が残っているこの夕暮れに、出来ることならどうか私を訪ねてきてください。
( 次回に続きます。)