定家、慈円、そして式子内親王 その1
定家が、文治2年(1186)九条家に出仕したことをきっかけに、慈円、九条(京極)良経など九条家の人々と定家の和歌の交流が始まりました。
千載集が後白河院に奏覧された文治4年(1188)以降には、式子内親王の和歌の師という役目も俊成から定家へと引き継がれたと考えてよいかと思います。文治5年(1189)には、おそらく兼実や慈円の推挙を得て、定家は左近衛権少将に任じられ、翌年には位階も従四位下に上がりました。
慈円は、この時期、複数の寺院の要職を担(にな)いながら、後白河院の護持僧として朝廷のための修法も行うなど、社会的な活動を精力的に果たしていました。しかし、彼は、自分が世間的な出世と栄達の道を歩んでいることをよくわかっていました。そのような現世利益(げんせりやく)を享受している自分を厭(いと)う気持ちが強く、心の奥深くでは遁世(とんせい、世を捨てること)と籠居(ろうきょ)を願っていたのです。
彼は、自分と同様に不婚の宿命を負った恋人、式子内親王と来世において浄土で再会したいという願いを持っていました。たとえ、その願いがどの経典にも書かれていなくとも、奇跡といっていいくらいの実現不可能なものだったとしても、出家という運命を受け入れざるを得なかった彼にとって、式子内親王と浄土で再会するという夢だけが、自分に残されたただ一つの救いだったのではないかと思います。
慈円が文治3年(1187)4月に式子内親王に双葉葵を献上しているというのが、私の推測ですが(ブログ第6章6)、この時、式子内親王からは交際を拒む返歌が返されています。しかし、二人の関係はそこでは終わらなかったようです。なぜなら、慈円と式子内親王の間には、それ以後、和歌による交流が見られるばかりでなく、彼らの恋は形を変えて深まっていき、正治2年(1200)12月に一つのピークを迎えることになるからです。
それに期せずして貢献したのが、定家の動きです。定家が、和歌の師として式子内親王に仕えていたとすれば、内親王に同時代の歌人達の作品を示すことは、大いに考えられます。逆に、内親王の作品を九条家歌壇の歌人達、あるいは、俊成やその弟子達に披露することもあったかもしれません。
和歌の家を確立することで、時代を生き延びようとしていた定家にとって、埋もれている才能ある歌人の発掘や、歌人同士の開かれた交流をはかることは、彼の重要な仕事の一つだったと思います。
一方で、定家は九条家にも仕えていましたから、定家にとって慈円は親しい歌人であるばかりでなく、主家筋の有力な庇護者でもありました。定家が慈円から受けた様々な恩恵は、定家の人生の困難を多少なりともやわらげるものでした。
ここでは、文治2年(1186)から正治2年(1200)までの、定家と慈円の交流、そこから派生していった慈円と式子内親王の交流を詳しく見ていきたいと思います。
定家と慈円
和歌による交流
定家と慈円の和歌による交流の、最も初期の頃と推察される歌が、拾玉集に残されています。
(和歌番号は、吉川弘文館、多賀宗隼編著「校本 拾玉集」による。)
文治4年(1188)12月13日
慈円、早率露胆(そうそつろたん)百首を詠(よ)む。
文治5年(1189)春
定家が、慈円の要請に応えて早率露胆百首に和する百首を奉(たてまつ)る。また、重ねて百首を奉る。
文治5年(1189)秋~冬
定家と慈円の贈答5首
最初の交流は、慈円が、「これは山寺の稚児(ちご)が詠んだものである」という架空の物語を後書きに付けた早率露胆百首という百首歌を発表し、和歌の世界ではすでに一歩先んじて活動していた定家に対して、この百首歌に応ずるように求めたことに始まります。定家は、同じ題で百首歌を詠み、更に重ねて百首詠むことによって、慈円に応(こた)えました。
これは、彼らが和歌という場において相互に関心をもち、評価していたことの現(あらわ)れですが、その年の秋に交わされた贈答5首は、更に彼らの関係を深めるものとなりました。
侍従定家(の)許(もと)より、定長入道(寂蓮)が物語を聞ゝて
5987 たつそまや月の雲ゐにやどしむる 心をみがくみねの秋風
定家
慈円の話を義兄寂蓮から聞き知ったとして、侍従定家から贈られた歌
あなたがかつて、「おほけなく うき世の民におほふかな 我が立つ杣(そま、山、ここでは比叡山のこと)にすみぞめの袖」と詠んで出家者としての決意を新たにした、その比叡山は、我々が居る下界から見れば、月の住む雲の上のような場所です。そこに宿を定め、澄みきった月と共に起居(ききょ、起き臥し)して、山頂の涼しい秋風に吹かれれば、心もさぞかしうき世の迷いから離れて澄み渡っていくことでしょう。
返しに
5988 ひらの山月の雲ゐにやどはあれど こころは谷のいはかげ(岩陰)にのみ
慈円
雲が湧(わ)き、月が住む、この比良の山(ひらのやま、比叡山のこと)を住処(すみか)としてはいますが、なかなか澄んだ月のような悟りの境地には達せず、心は涙にくれて、谷間を流れる水のように岩陰にばかりあって、憂き世の悩みから離れることができないのが実情なのです。
山にて詠じたりし歌を副遣(そえつかわす)*
*慈円が「山にて詠じたりし歌を添え遣わした」という歌は、この一連の贈答歌には記されていませんが、拾玉集に文治5年9月詠として収録されている次の歌であると考えられます。
文治五年九月のすゑに大乗坊にて眺望すとて
5104 みやま木ののこりはてたる梢(こずえ)より 猶(なお)しぐるるは嵐なりけり
慈円
奥山の樹々も落葉して梢にわずかに残る木の葉に、依然として時雨(しぐれ)が降りかかり、嵐が吹き荒れている。まだ足りないというのか、もっと紅葉の色が深まれ、というのか。(自分の心も同じように、嘆きと苦しみが止むことなく続いている。涙も紅葉のように血の色に染まって赤くなっているというのに。)
返し
5989 み山木(やまぎ)はあらしの声を時雨(しぐれ)にて
のこれる月や色まさるらむ
定家
奥山の樹々が吹きすさぶ嵐の中にあって、雨に打たれてますます紅葉していくように、嵐のあとに姿を見せた月の色も一段と冴えわたって、あなたの心を照らすことでしょう。
5990 みねの月 谷のいは(岩)ともまたわかず
ただ世をいとふ(厭う)みちをのみこそ
定家
山頂を照らす月も、谷間の水が流れる岩陰も、どちらもあなたの心です。そこには、この世を憂きものとして、ひたすら心を澄まし浄土を願う仏の道だけがあるのでしょう。
この一連の贈答歌は、文治5年(1189)の秋から冬にかけて、当時、比叡山に居る慈円の生活を義兄寂蓮から聴いた定家が、慈円に対する敬意と共感から、歌を贈ったのがきっかけでした。
文治5年とわかるのは、一つには詞書き(ことばがき)にある定家の「侍従」という官位からです。定家は、文治5年11月13日に左近衛少将に昇進しているので、侍従(第一次侍従任官期、定家は2度侍従に任じられている)であったのは文治5年11月12日以前です。
そして、慈円が文治5年9月に詠んだ和歌を添えていることから、この贈答は文治5年9月末以降、11月12日以前になされたと考えられます。
定家が慈円に対して賛辞を送り、慈円はそれに応(こた)えて、自分はそのような賛辞には値(あたい)しない、苦悩と葛藤の中でもがく毎日であると率直に告白しています。何をめぐっての賛辞であり、告白であるかというと、前章で述べた「煩悩と菩提(悟りに至る境地)は表裏一体のものであるという達観を得て、常に浄土を目指す」という西行にも通ずる生き方、修行についてであると思います。
慈円が抱えていた苦悩とは、僧侶という身分のために結婚が禁じられる、禁欲を強いられるという、人間としてのごく自然な在り方を否定された者が持つ苦しみです。当時、妻帯している僧はもちろんいましたが、慈円のような将来比叡山座主になることを求められたエリート僧には妻帯という選択肢はなかったと思われます。
遁世僧(とんせいそう、官僧の身分を離れた僧)になることも許されなかった慈円の恋は、この世では決して成就することはないと運命づけられていました。彼が選択したのは、この世での恋を昇華して浄土で再びかつての恋人と出会うことでした。
前章で述べたように、定家は22歳から26歳まで千載集の編纂(へんさん)に助手として携(たずさ)わるなかで、慈円と式子内親王の隠された恋について、父俊成からそのいきさつを聞く機会があったのではないかと推測されます。
定家の送った和歌は、その慈円の苦悩にさりげなく触れたものだったのではないでしょうか。そして慈円の返歌も、定家の意を逸(そ)らすことなく、虚心に胸の内を明かしているように、私には感じられます。文治5年(1189)定家28歳、慈円35歳の時です。和歌という世界において互いに敬意をはらっている二人の間には、年齢の差や身分の上下を超えてこうした精神的な交流がありました。
定家が左近衛権少将(さこのえごんのしょうしょう)に任じられたのは、この贈答があったほんの数日後の文治5年11月13日のことです。11月17日に今度は比叡山の慈円から、官位昇進を祝う歌が定家に届けられています。
5457 みかさ山さかゆく君がみちにまた 花さきそふる今朝のしら雪
慈円
天皇を護(まも)る”みかさ山”と称される近衛府の、権少将に任命されて、この後も中将、大将と出世して栄えてゆくだろうあなたの前途を祝って、今朝の白雪も、まるで花を咲きそえたように輝いていますよ。
返し
5458 思ひやれ雪に花さくみかさ山 ならぶ梢をちらすあさ日は
定家
想像してください。今まで官位に恵まれなかった私が、今日は近衛権少将となって、白雪が花のように降りしきる”みかさの山”の一画に入(はい)れたことの喜びは、はかり知れないものがあることを。並んでいる梢に、朝日が射して、雪が桜の花のように散りかかり舞っています。
牛車(ぎっしゃ)の贈り物
建久2年(1191)閏(うるう)12月4日、定家が慈円から牛車を賜(たまわ)ったという記事が明月記(松江今井書店、稲村榮一著「訓注明月記」)にあります。
午時許、参無動寺法印。為悦申牛車也。
昼頃に無動寺の法印のもと(三条白河にあった慈円の宿坊)に参上した。牛車を悦(よろこ)び申さんがためなり。
訓注の稲村氏は、「牛車」ではなく「牛の事」で牛を賜ったのであろう、と頭注で述べておられますが、これはやはり牛車ではないかと私は思います。
この記述の後には、その場に居合わせた義兄寂蓮と共に退出し、牛車に同乗して式子内親王の居た押小路殿に参り、その後、主家九条家の兼実女(むすめ)である中宮任子のもとを訪れたこと、その間、寂蓮は牛車の中で待っていたこと、更に九条良経の一条殿に向かい、良経、寂蓮、定家の3人がそれぞれ百首歌を読み上げた後、座興の狂歌も終わり、夜更けに寂蓮と共に仲良く家路についたということが書かれています。この小さな牛車の旅が、楽しそうに描かれている文から、定家の嬉しさが伝わってくるように感じられるのです。
定家はそれまで牛車を所有していなかったわけではありません。しかし、貧乏な下級貴族の彼が所有していた牛車は使い古したもので、牛も痩せた老牛だったかもしれません。慈円から賜った牛車は、新しいものではなかったとしても、十分に立派な網代車*(あじろぐるま)だったでしょう。もしかしたら、肥えた若い牛も付いていたかもしれません。
*網代車は四位(しい)、五位、中将、少将が乗ることを許された牛車。定家は当時、従四位下、左近衛少将だった。
この牛車は、その後の定家の出仕生活の中で大きな役割を果たしました。
まず、建久3年(1192)5月2日に式子内親王が、亡くなった後白河院の四十九日の法要の後に六条院から退出する際に、式子内親王家の女房達が乗る出車(いだしぐるま)として献上*されています。その日の明月記には、「下官(げかん、自分のこと)は出車を献じ了(おわ)んぬ」と記(しる)されていて、定家が出車を主家に献じた最初の記述となっています。
その後も、出仕先の宜秋門院(ぎしゅうもんいん、九条任子・後鳥羽天皇中宮)、八条院暲子、宜秋門院女房の御匣殿(みくしげどの)、昇子内親王(後鳥羽天皇皇女、母任子)等々に出車、送迎車として度々、献じられました。
*出車を献上する、というのは車を一時的に提供する、お貸しする、ということで、差し上げるということではありません。
この建久2年(1191)の牛車の下賜(かし)は、定家の左近衛権少将(さこのえごんのしょうしょう)昇進の祝い あるいは式子内親王の和歌の師を俊成から譲られた祝い、のどちらかだった可能性があります。いずれにしても、宮仕え、九条家と八条院への出仕、和歌の家の継承と、世間的な活動範囲が広がり体裁も整えなければならなかった定家への、慈円からのはなむけだったのでしょう。
慈円のもう一つの顔
♦相次ぐ役職の辞退
慈円は、この日、法成寺と平等院の執印(しゅういん、住職)を辞しています。その理由についてはどこにも明記されていませんが、前月11月24日に兼実を訪ねて、自分の役職を辞退する堅い意志を表明しています。兼実は、「此事子細端多、不能記付、法印辞退、其志甚深、可貴云々」このことの詳しい事情やきっかけはいろいろあって、とても書き記すことはできない。法印(慈円)の辞退の意志は大変深く、尊ぶべきであるということか、と残念そうに日記に書き留めています。実は、慈円は、この年の9月にも三昧院(ざんまいいん)検校(けんぎょう)の職を、甥の良尋(りょうじん)に譲っています。
●建久2年(1191)9月 三昧院検校を甥の良尋に譲る
●建久2年(1191)11月24日 法成寺と平等院の執印の辞退を兼実に表明
●建久2年(1191)閏12月4日 法成寺と平等院の執印を辞退
九条兼実は、文治2年(1186)に源頼朝の推薦によって摂政となり、文治6年(1190)には娘の任子を後鳥羽天皇の中宮としました。摂関家藤原氏の氏の長者(うじのちょうじゃ)として、政治的に優位な勢力を保持することに成功し、更なる勢力の拡大を目論(もくろ)んでいました。
慈円に対しても、複数の有力寺院の要職に就任することを要請し、その要請は矢継ぎ早で過剰なものであったように思います。慈円に関する兼実の次の目標が、慈円を天台宗のトップである比叡山座主に据(す)えることだったのは明白です。そのような兄兼実の政治的な意図に対する、慈円の最初の抵抗、拒絶が、この日の法成寺と平等院の執印の辞退だったのではないでしょうか。
♦比叡山座主の辞退
前年の出来事として、建久元年(1190)3月に、第59代天台座主(ざす)を辞退した権僧正全玄の後任を検討する朝廷の会議で、慈円を推(お)す声が大勢(たいせい)を占めるということがありました。しかし、この時は後白河院の鶴の一声で、別の僧侶(公顕)が任じられたものの、比叡山内部の支持が得られず、再度、別の僧侶(顕真)を任じるという事態となり、結果的にこの年に慈円が比叡山座主になることはありませんでした。
慈円が初めて比叡山座主に就任したのは、後白河院崩御の後、建久3年(1192)11月のことですが、翌建久4年(1193)4月にわずか半年足らずで座主を辞退しています。しかし、この慈円の辞退は、朝廷から認められず、比叡山の大衆からも座主に留(とど)まることを求める声が大きかったため、実現しませんでした。
彼はその後も、生涯に座主を4度辞退し、4度任命されるという異例の経歴を持っています。
♦安元2年から建久5年にかけて慈円によって詠まれた和歌(22歳から38歳まで)
慈円は、僧侶として位(くらい)が上がることを自分は望まない、名誉ある役職に就くことは嫌だ、遠ざけたいという本音を、和歌の中で打ち明けています。
109 位山(くらいやま)まだ見ぬ峯(みね)も願はれず
さかゆくべくもなき身と思へば
飛騨にあるという位山、そのまだ見たこともない山の峯を見たいと願う気持ちが私にはない。その上り坂を登っていけるとも思えないので。
(僧として最高位を極めたいという願いはわたしにはない。昇進してこの世の栄誉、繁栄を手に入れたいと思っていないのだから。)
572 思ひいる心のすゑをたづぬとて
しばしうき世にめぐるばかりぞ
深く思いつめた自分の心が、この先どうなっていくのか知りたいので、命が尽きるまでのほんのしばらくの間、このうき世で生きているに過ぎない。この世は自分にとって仮の宿りに過ぎないのだよ。
588 いる月よかくれなはてそ世の中を いとふ心はあり明けの空
山の端(は)に沈もうとしている月よ、隠れてしまわないでくれ。この世をいとう気持ちは確かに私の中にあるのだから、どうか見放さないで、明け方の空に残って、この心の闇を照らしてほしいのだ。
689 くらゐ山さかゆくみねにのぼるとて まことの道をよそに見るかな
くらい山の頂上に続く山道を、ますます栄えながら登っていくとしたら、それは真実の仏の道とは、別の道を進むことになることだろうよ。
995 身ばかりはさすがうき世にめぐれども 心は山にあり明けの月
自分は僧としての役目を果たすために、この身を俗世間の只中において生きているのだけれども、心は、常に比叡の山にあって、心の闇を照らし迷いを晴らしてくれる澄んだ月が、夜が明けてもそのまま空に残っている、そのような有明の月を見ているのです。
1984 位山みねにはちかくのぼりゐぬ なをこえずともたち帰りなむ
くらい山の頂上の近くまで登ってきて座りこんでしまった。それでもやはり気が進まないのだから、頂上まで行かずにもとの場所へと帰ってしまおう。
1996 いかにして今まで世には有明(ありあけ)の つきせぬものをいとふ心は
どうして今までこの世で生きてこれたのだろう。この世の虚(むな)しさを有明けの月が教えてくれていたというのに。その月ではないが、この世をいとう心は尽きないものなのに。
吉富庄(よしとみのしょう)で起きた杲云(ごううん)による暴行事件の仲裁
定家が、もう一つ慈円に助けられたことがあります。正治元年(1199)から正治2年(1200)にかけて、定家の所領地である吉富庄(よしとみのしょう)で起きた杲云による暴行事件で、定家が窮地に陥ったことがありました。被害者は、定家が仕えていた九条(京極)良経でした。
九条家荘園の土地調査のために、吉富庄の近くを通りかかった九条家の検注使が、定家が吉富庄の管理人として使っている杲云(ごううん)に言いがかりをつけられて、馬2頭を奪い取られるという事件が発生したのです。事件の報告を受けた良経は、定家に釈明と謝罪を要求したのですが、定家が杲云を問い詰めるも、無罪を主張する杲云の供述は二転、三転し、定家は良経に釈明すら出来ませんでした。
良経からすっかり信頼を失った定家は、反省のため蟄居(ちっきょ、家に閉じこもって謹慎すること)することを余儀なくされました。
この時、定家と良経の仲裁に入ったのが慈円です。慈円は、元来比叡山の僧だった杲云から事情を聴取し、甥(おい)の良経に対し定家をあまり責めないよう、取りなしの労をとったのです。こうして、一時は一方的な非難にさらされて、九条家の中での立場も危うかった定家は、ようやく良経の怒りから免(まぬが)れることができたのでした。
杲云は、この数年後に吉富庄の強奪を企んでいたことが発覚します。共謀者は、後鳥羽院の乳母(めのと)藤原兼子であることもわかりましたが、この時点では、狡猾な杲云の詭弁(きべん)に関係者全員が騙(だま)されていたのでした。
全面的な解決には至らなかったものの、思いがけず援助の手を差し伸べてくれた慈円に対して、定家は感謝したはずです。定家にとって、慈円は数少ない味方の一人でした。