式子内親王と慈円の恋 19(1)

繰り返す人生の困難と、その突然の終わり

建久3年(1192)から建久7年(1196)まで

 この章では、「式子内親王と慈円の恋」というタイトルから離れて、式子内親王が晩年に直面した不穏な事件について述べています。
 特に九条兼実について多くの分量を割(さ)いていますが、これは式子内親王の生涯を調べる中で、不可解な事件が謎のまま取り残されていることへの答えを私なりに追及したものです。
 わからないことが多く、また憶測で語られることも多い式子内親王ですが、史料として残っているものは出来るだけ掲載して皆様にも読んでいただき、既成の「運命に流された悲しい内親王」というイメージから、より具体的な人物像にたどり着くことが目標です。

 

 

建久7年6月17日、真夜中に鶏が鳴くという事件が、式子内親王御所で起きた

 夜中に鶏(にわとり)が鳴いたからといって、現代人は不吉なことが起きる前兆だとは思わないでしょう。仮にそう思ったとしても、引っ越したり一時的に住居を変えるということまではしないと思います。しかし、当時は、様々な言い伝えや民間信仰のようなものがあって、人々はそうした凶事の兆候に遭遇(そうぐう)した場合、陰陽師(おんみょうじ)や呪術師(じゅじゅつし)などに占ってもらい、災厄(さいやく)が我が身に及ばないように対策を講じていたのです。

 明月記には次のように記されています。
 「昨夜、勘解由小路殿(かでのこうじでん)で鶏が鳴いたそうだ。(不吉なので、式子内親王は)ここから避難なされたほうがよろしいでしょうと、人々が申し上げているということだ。」(建久7年6月17日)、
 「今夜、(式子内親王が)七条坊門にある龍樹御前(りゅうじゅごぜん、定家の姉)の旧宅に密(ひそ)かにお渡りになられる。”どこにも行く所がないのです、こうするしかありません、”と戸部(こぶ、民部卿の唐名、後見人の経房のこと)が申されたそうだ。」(同年6月19日)

 前章で式子内親王の出家について推測したことが正しければ、式子内親王が建久元年(1190)3月に白河押小路殿で出家してから、6年が経過しています。式子内親王は、八条院殿から退出して八条院暲子の相続争いから身を引き、さらにその後、出家したことによって名実共に世俗から距離を置いて、隠遁(いんとん)生活を送っていたと推測されます。
 後白河院の遺言によって、白河押小路殿にも戻れず、先住者の九条兼実が居る大炊御門殿に移り住むこともできないまま、行き場を失った式子内親王のために、経房は自邸を内親王の御所にふさわしく改装し、調度(ちょうど、身の回りの道具や家具)を整えて式子内親王を迎え取っていました。献身的に式子内親王の後見役を務(つと)めていた経房が、「依无其所」(その所無きにより)「然可有」(しかあるべし)(どこにも行く所がないのです。こうするしかありません。)とまで言わなければならなかったのはなぜか、そして式子内親王が定家の姉の旧宅に密(ひそ)かに移ったのはどういう意味があったのでしょうか。 

 上記の6月19日の明月記は、昨今の死者の多さ、しかも才能のある惜しむべき人々の死を嘆き、末法の世であること、天変(てんぺん、自然界に起こる非常に大きな災害)の兆(きざ)しを鎮(しず)めようとする祈りばかりが引きも切らず行われていることを述べて、次のような言葉で終わっています。
 「衆口嗷々、閭巷浮説、狂乱可恠。」(世間の口というものが騒がしく責め立て、街中では根拠のない噂話が飛び交っている、この異常な混乱状態は疑ってかからなければならない。)
 
 この鶏鳴事件が呪詛事件と同様に、世の中の漠然とした不安に乗じて過剰(かじょう)にあおられたものと、定家は考えています。夜中(当時は午後11時から午前1時くらいを夜半と言ったらしい)に鶏が鳴いたことが不吉の前兆として受け取られ、それが式子内親王を名指すものであると誰もが確信していたということは、すでに何らかのストーリーが「人々」の間で囁(ささや)かれていたということを意味しています。それを鎮静化させることは、定家にも経房にもできませんでした。
 式子内親王の避難先がどこにも無いということは、経房の別邸も含めて他の候補地もすべて式子内親王を受け入れることを拒(こば)んだ、ということでしょう。何かとトラブルに巻き込まれやすい式子内親王と関わりたくないという警戒心、禍(わざわ)いを避けようとする防衛本能が、式子内親王を取り囲む環境の中にすでに働いていて、主(あるじ)の経房でさえも、勘解由小路殿を引き続き提供できる状態ではなかった、例えば身内の反対者(家族や家令、使用人達)の抵抗を抑(おさ)えることが出来なかったというような事情があったのではないかと考えられます。  
 その結果、式子内親王に長年仕えている女房の龍樹御前(藤原俊成の娘で定家の同母姉)が、今は使っていない自分の旧宅、おそらく内親王が住むのにふさわしいとは言えない、古くささやかで少しばかり不便な住居を、避難先というよりは隠れ家として使ったらどうかと申し出たのではないでしょうか。式子内親王を追い詰めたのは、凶事を告げるという鶏の鳴き声に触発(しょくはつ)された、世間の疑惑の目と非難の言葉でした。
 この旧宅に式子内親王がいつまでかくまわれていたのかは不明ですが、次に式子内親王の所在が明らかになるのは、建久7年12月20日の大炊御門殿への移御(いぎょ、よそへ移ること)の記録です。これは、幼少期に経房の猶子(ゆうし)だった平経高(当時17歳)によって書き残されました。
 6月16日の鶏鳴事件から12月20日の大炊御門殿への移御の間には、建久七年の政変(11月)が起こっています。

式子内親王が後白河院託宣事件に加担したとされ、洛外に追放されることになった

 混乱と戸惑(とまど)いの中で、隠れ家に移り住まなければならなかった式子内親王ですが、もう一つの事件で、さらに追い打ちをかけるように洛外追放の処分が言い渡されるに至っています。
 歴史上、皇位継承をめぐって後宮を舞台にして起きた勢力争いの犠牲になった女性達、戦乱の勝敗の影響を受けて運命が激変した女性達は少なくありませんが、式子内親王の場合は、平常時しかも出家者にもかかわらず、その存在が疎(うと)まれ攻撃されるという不可解な事件に遭遇(そうぐう)しています。

 呪術や祈禱(きとう)を生業(なりわい、生活の手段)とする者が、宗教的な儀式の場で催眠状態や恍惚状態に陥(おちい)って、神や死者の言葉を告げるということが、現代よりももっと身近で信じられやすかった時代のことです。国家に重大な意味を持つ託宣(たくせん、お告げ)が、故意に仕組まれたものであるのか、そうでないのかを見極めるには、まず朝廷での会議で審議して、それでも疑いが残る場合は、朝廷が篤(あつ)く信仰する神社にお伺いを立てて真偽を問うことで決着をつけていました。

慈円著「愚管抄」の記事です。
 建久7年の頃、兼中(かねなか)という(藤原)公時(きんとき)入道に仕える男の妻が、亡き後白河院の霊が憑依(ひょうい、乗り移ること)したとして、「我を祀(まつ)れ。社(やしろ)を造り、土地を寄進せよ。」などのお告げを語り始めて騒ぎになった。当初は誰も信じなかったが、中納言の一条能保(よしやす)が病気で死にそうになった時、やはりその女の託宣で、たちまち元気になったということがあったそうだ。それで、またその女が後白河院のお告げを言いふらしたときに、浄土寺の二位(高階栄子、後白河院晩年の愛妾)が、お告げ通りにした方がよいなどと言い出した。真偽を確かめるために、兼中の妻を、主(あるじ)の公時入道のもとに7日間身柄を預けて様子を見たところ、何も起きなかった。やはり、狂惑(おうわく、人をだますこと、偽り)だったということで妻は安房(あわ、千葉県)へ夫は隠岐(おき、島根県の島)に流罪(るざい)となった。

 また、鎌倉時代中期に編まれたと推測されている「皇帝紀抄」(作者不詳)には次のように記されています。
 建久8年3月の頃、蔵人大輔(くろうどのたいふ)橘兼中(たちばなのかねなか)とその妻が、謀(はかりごと)をしたとして、それぞれ別々の国に配流(はいる)された。また、一心房上人(しょうにん)もうまく取り入ろうとへつらって、この謀議に同意した罪で、武士のもとに留め置かれた。後白河院の皇女で前(さきの)斎院である式子内親王も、この件に同意したとされ、洛中 (らくちゅう、京都のおおよその中心部) にお住みになるべからずというお達しが下された。だが、このことは議論がなされて結局は実行されなかった。

 この事件は、「愚管抄」では「建久7年(1196)の頃」という言葉で始まっています。
 しかし、「愚管抄」をよく読むと兼中の妻は時間をおいて少なくとも2回、後白河院のお告げを宣(のたま)っており、しかも1回目と2回目の託宣の間には一条能保の病気の話も挿入されています。一条能保が病気になったのは建久4年(1193)12月のことです。翌5年の8月、能保は死を覚悟して出家しましたが、その後、体調を持ち直して建久8年(1197)まで生きてその年の10月に51歳で亡くなっています。一条能保の病気についての挿話(そうわ)が時系列で語られているならば、この事件はある程度長期間に渡って起きた出来事となり、建久4年から5年あたりまでさかのぼれることになります。
 「建久7年の頃」という出だしの言葉が、事件の一連の説明全体に漠然とかかっているように見えますが、慈円は「建久7年の頃」と語り始めてから、まず事件の起きた前段の話、1回目の託宣を回想しながら述べているのではないでしょうか。そうすると、「建久7年の頃」という言葉は、事件の核心部分にあたる2回目の託宣が行われた時期を指していると考えられます。高階栄子が託宣に賛同し、主(あるじ)の公時(きんとき)が真偽を確かめるために兼中の妻を夫から隔離し、その結果、兼中妻の託宣が偽りであると判断した時期が、建久7年であるということになります。

 一方の「皇帝紀抄」では建久8年(1197)3月に二人が配流されたと書かれています。
 これは事件そのものの時期ではなく、有罪の判決を受けた橘兼中とその妻が、流刑地に送られた時点の年号と月を記しているように読めます。
 「愚管抄」と「皇帝紀抄」の時間差は、このように解釈すれば説明がつくように思います。

 参考までに、当時の流刑(るけい)の実際の事例が、明月記に残されているので紹介します。
 明月記の建永元年(1206)の記事によると、定家の妻の兄(藤原実宗の息子、公定)が、息子の不祥事(後鳥羽院の名をかたって嵯峨に住む女のもとに通った)が原因で後鳥羽院の不興(ふきょう)を買い、佐渡に配流されるという事件が起こりました。事件は、建永元年(1206)6月20日頃から始まりました。遠流(おんる)の命令が下ったのが9月17日、公定(きんさだ)が京を出て下向(げこう)したのが10月5日で、この間、親族の訪問や別れの挨拶などが行われました。、大津にひと月ほど滞在し、更に琵琶湖の高島辺に向かったのが12月25日です。それから高島に何日滞在したのかは不明ですが、遠流の命令から少なくとも3か月から4か月後にようやく近江国(おうみのくに)から佐渡に出発したと考えられます。
 つまり、公定の場合は、事件の発覚から裁定まで約3ヶ月、それから刑の執行まで約3ヶ月から4ヶ月の期間をかけて進行しているわけです。その後、公定は、1年半後の承元(じょうげん)2年(1208)閏(うるう)4月15日に、刑期を終えて京に戻っています。

 一概(いちがい)には言えませんが、当時の流刑の事情がこのようなものであったとすると、橘兼中とその妻がそれぞれの流刑地に出発したのが建久8年(1197)3月(皇帝紀抄)であるなら、この後白河院託宣事件の裁定が朝廷からくだった時期は、その3ヶ月から4ヶ月ほど前にさかのぼった、建久7年(1196)11月から12月と考えてもいいのかもしれません。そうすると、更に3ヶ月さかのぼった8月から9月にこの出来事が事件と見なされて朝廷の会議にのぼったということになります。
 式子内親王の洛外追放処分も同時に裁定がくだったとすると、それも建久7年11月から12月ということになります。ところで、式子内親王は12月20日に大炊御門殿に引っ越しをしているのですから、この時点では当然、洛外追放処分は取り消されていると考えなければなりません。
 これらの事情を加味して、鶏鳴事件と後白河院託宣事件を時系列で並べてみると、次のようになります。

二つの事件を結ぶ糸は何か

●託宣事件に便乗して捏造(ねつぞう)された鶏鳴事件

 建久7年(1196)の後白河院託宣事件は少なくとも建久5年中頃には始まっていて、2年ほど世の中にくすぶり続け、建久7年の6月から9月にかけて、ようやく騒動となって朝廷で論議されるようになったと考えられます。そのきっかけが、式子内親王御所での鶏鳴事件でした。闇夜に紛(まぎ)れて(にわとり)の鬨(とき)の声をものまねの名手に挙(あ)げさせるのは容易なことです。リアルな鶏の声は、世間の人々の式子内親王への不吉な憶測(おくそく)を、一挙に確信へと導く効果があったことでしょう。鶏鳴事件は、後白河院の託宣事件に便乗して、式子内親王に謀略(ぼうりゃく)の疑いありとして公卿会議にかけるためのきっかけとして企てられた事件ではないでしょうか。そして開催された会議では託宣事件が案の定、謀略として認定され、関わったとされる者たちのうち、三人にそれぞれ処罰の裁定がくだされました。 
 兼中夫妻が安房や隠岐という遠隔地への流刑であるのに対して、式子内親王を洛外追放でとどめたということは、流刑に比べれば軽い処分であるという印象を受けます。このほどほどの軽さが、会議において内親王への処罰という強烈なインパクトをやわらげ、出席者の反発と驚きを抑(おさ)えて、合意に至らしめる妥当性をもたらしたはずです。これこそが式子内親王の失脚を願う首謀者にとっては、狙(ねら)い通りの着地点だったのでしょう。*

*当時の朝廷の会議は、陣定(じんのさだめ)と言われたもので、上卿(しょうけい、政務・公事などの行事における役目のなかで筆頭の者)によって主宰(しゅさい)され、大臣以下の公卿と四位の参議以上の議政官(ぎせいかん)によって、審議された。発言は下位者から上位者の順序で行われ、執筆の参議が各人の意見を取りまとめ、異論も併記して定文(さだめぶみ)を作成する。それを蔵人(くろうど)が天皇と摂政または関白に奏聞(そうもん)し、裁可を請(こ)う。 摂政・関白は大臣であっても、天皇と同じ決裁者の側であるため、陣定には出席しなかった。
 なお、陣定とは別に、天皇主宰の御前(ごぜん)定、摂政・関白主宰の殿下直蘆(でんかじきろ)定、院主宰の院御前定などが、事柄に応じて開催された。

 では、それを画策したのは誰でしょうか。また、お告げに同意したとされる一心房(いっしんぼう)という僧侶と式子内親王が有罪とされたのに、お告げを支持した高階栄子(たかしなえいし)には何の咎(とが)めもなかったのはなぜか、そして、式子内親王の洛外追放処分の命令が出たあと、もう一度、振り出しに戻して処分取り消しを図(はか)ったのは誰なのか、次々と沸(わ)き起こる疑問について考えてみようと思います。

 まず、式子内親王の洛外追放処分を画策した首謀者が誰であるかについてですが、式子内親王を洛中(らくちゅう、京都のおおよその中心部)から追放したい人物で、朝廷の会議を仕切ることができるのは、当時関白の座にあった九条兼実がその最も有力な候補です。なぜ、兼実が式子内親王を洛外に追いやりたかったか、その理由は大炊御門殿にあったと私は推測しますが、それについては後ほど述べることにします。

●一心房

 罪に問われた一心房という僧侶は、その後この事件に関して何らかの処罰を受けたという記録がありません。それどころか、彼は翌年の建久8年に京都東山の山中で天狗(てんぐ)を祭(まつ)ったことによって、牢獄(ろうごく)に入れられたという記録が残っています。また、その年の5月から6月には*瘧(おこり)の病が流行(はや)りましたが、世間ではこれを一心房病と名付けて騒ぎ立てた、というような記録もあります。(大日本史料第四編之五、建久八年三月是月。「一代要記」、「鎌倉大日記」、「和漢合符」) こうした記録を見ると、一心房という僧は常に世間を騒がせているようなある意味有名人で、後白河院託宣事件に加わったのも彼一流の奇行の一つのように思わざるを得ません。この託宣事件でも、改めて有罪判決を下(くだ)すまでもない変わり者として、多少のお咎(とが)めで済まされ放免されたのではないでしょうか。
*瘧(おこり)は、奈良時代から知られている感染症で、悪寒と発熱を周期的に繰り返す病気。別名は「わらはやみ」、「えやみ」で、現在のマラリアではないかと考えられています。マラリアは、ハマダラ蚊の雌によって媒介されるマラリア原虫を病原体とする感染症です。

●高階栄子

 また、お告げ通りにしたほうがよいと賛同した高階栄子は、なぜ橘兼中夫妻の共犯者とは見なされなかったのでしょうか。

 高階栄子は後白河院晩年の愛妾(あいしょう)で、養和元年(1181)後白河院の第六皇女、覲子(きんし)内親王を産んでいます。後鳥羽天皇より一つ年下の覲子(きんし)内親王は、文治5年(1189)に9歳で内親王宣下および准三后(じゅさんごう)宣下、建久2年(1191)には11歳で女院(にょいん)宣下を受けて宣陽門院(せんようもんいん)となりました。この時、高階栄子も女院の母親として従二位(じゅにい)に叙(じょ)せられています。
 覲子(きんし)内親王が准三后(じゅさんごう、太皇太后、皇太后、皇后に準じた処遇を与えられた者の称号)を経て女院宣下を受けたということは、今後、後鳥羽天皇に入内(じゅだい)する可能性が無いこと、また臣下のいずれにも降嫁(こうか)しないことを意味しています。院というのは、元来上皇や法皇(出家した上皇)の敬称なので、女院も、皇太后(准三后を含む)などの高貴な皇族の女性に与えられる最終的な称号と考えられます。その女院が、天皇に入内して中宮を称したりすることは通常では有り得ないからです。
 まだ11歳の覲子(きんし)内親王にそのような女院宣下をすること自体、不自然な話ですが、その目的は斎宮や斎院を経た内親王と同様に、覲子(きんし)内親王が不婚内親王となったことを後白河院が公然と表明することだったと考えられます。
 そのうえで、翌建久3年(1192)1月に、後白河院は*長講堂領(ちょうこうどうりょう)その他の広大な所領を覲子(きんし)内親王に譲渡しました。これは、皇室領を不婚内親王が相続するという皇室領保全の常道(じょうどう)です。そして、長講堂領を実際に管理したのは、宣陽門院の執事別当となった源通親(みなもとのみちちか)でした。通親は後白河院の旧近臣の一人です。
*これといった所領を持たなかった後白河天皇が35年間かけて集めた膨大な荘園群を、建久2年(1191)に院御所の六条殿内に建つ持仏堂である長講堂に寄進した。この皇室領荘園群を長講堂領という。
 
 後白河院は、自分が所有する皇室領荘園の保全に万全を期するために、亡くなる2ヶ月前までに、これだけの手を打ちました。その目的は、将来の皇室の財源確保と幕府に対抗し得る天皇制の維持ということだったと考えられます。この長講堂領は、承久の乱を経て、宣陽門院から建長3年(1251)に後深草天皇に譲渡され、以後、後深草天皇の系統である持明院統(じみょういんとう)の経済的基盤となりました。

 さて、こうして政治的基盤を確実なものとした高階栄子と源通親は、後白河院の旧近臣派として、摂関家の九条家に対抗する一大勢力となりました。しかも、政治的な場面でも社交的で如才(じょさい)のない高階栄子と、智略(ちりゃく)に長(た)けた通親は、後鳥羽天皇との関係も円滑(えんかつ)でした。  

 建久7年(1196)の後白河院託宣事件で、橘兼中夫妻は流刑になりましたが、その後もこの種の事件が絶えることはなく、4年後の正治2年にも、後白河院の近臣だった源仲国夫妻による後白河院の託宣事件が起きています。仲国の妻が高階栄子の縁者(えんじゃ)だったということで、この時も高階栄子の名が取り沙汰されました。仲国夫妻は、建永元年(1206)に再び託宣事件を起こした際に、妖言(ようげん)で人を惑(まど)わせた罪で摂津国(せっつのくに)中山寺での籠居謹慎(ろうきょきんしん、建物にこもって謹慎すること)を命じられています。
 後白河院が亡くなってから15年にもわたってこうした事件が起きるたびに、高階栄子が託宣に従うように朝廷に進言するなどしていることから、共犯者ないしは黒幕ではないかという嫌疑をかけたくなるのも、もっともです。
 高階栄子は、兼実の「玉葉」や慈円の「愚管抄」の中で、かなり非難がましい扱いを受けています。愚管抄の中には、高階栄子が事件に関わっているかのようにほのめかされている記述もあります。これは彼女が、九条家にとっては政敵である後白河院近臣派の代表的人物であったこと、また、男性中心主義が定着した平安・鎌倉時代にあって、後白河院の傍(かたわ)らで美貌と寵愛によって得た権力をかさに着て、政治的な行動力を発揮した女性と見なされて貴族たちの反発をかっていたこと、などによるものと思われます。

 しかし、莫大な所領とそれに関わる利権もすでに所有している覲子(きんし)内親王と、その母高階栄子、源通親等の後白河院旧近臣派が、後白河院廟の建立によって何らかの利権を手に入れようとして託宣を仕組んだとは考えにくいことです。次の年表をご覧ください。

建久5年(1194) 橘兼中夫妻による後白河院託宣事件1度目
建久7年(1196) 橘兼中夫妻による後白河院託宣事件2度目→流刑
建久7年(1196) 建久7年の政変、九条兼実失脚、政界から去る
建久9年(1198) 後鳥羽天皇譲位、院政が始まる
建久10年(1199)源頼朝死去
正治2年(1200) 源仲国夫妻による後白河院託宣事件1度目
建仁元年(1201) 式子内親王死去
建仁2年(1202) 源通親死去
建永元年(1206) 源仲国夫妻による後白河院託宣事件2度目→籠居謹慎
建永2年(1207) 九条兼実死去

 この年表から考える限り、兼実と後白河院旧近臣派との対決は、建久7年の政変の兼実失脚という形で一旦決着がついています。さらに建久9年(1198)の後鳥羽院の院政開始と、建仁2年(1202)の源通親の死去は、旧来の政界の勢力争いの構図を一変させたはずです。

 はたして高階栄子は、建永元年(1206)の源仲国夫妻の後白河院託宣事件に至るまで、黒幕として暗躍していたのでしょうか。私は、むしろ、栄子が託宣事件の周辺で、後白河院の身内としてお告げをありがたく信じて受け入れた上流貴族の一人であったと考える方が、実態に即しているのではないかと思います。兼中夫妻の託宣事件においても、栄子は敬して遠ざけられただけで、最初から栄子が事件の焦点になることはなかったのではないかと推測します。慈円の「愚管抄」での、栄子に対する遠回しの皮肉な嘲笑めいた言葉も、おそらく、それ以上は言いようがなかったからではないでしょうか。

 ここで、悪役の濡れ衣(ぬれぎぬ)を着せ掛けられたかもしれない栄子のために公平を期するならば、栄子が後白河院の功績を讃(たた)え伝えるための霊廟(れいびょう)、あるいは後白河院の冥福を祈るための寺を、朝廷によって建立してもらいたい、という素朴で心情的な理由で、託宣に賛同していたのではないか、という可能性も考えなければなりません。 

 栄子は、建久3年(1192)後白河院の遺言により、沢殿(さわどの)とも呼ばれた後白河院の山科(やましな)御所(京都市山科区大宅沢町)とそれに付属する山科小野荘(やましなおののしょう)を譲渡されました。栄子が建保(けんぽう)4年(1216)に死去した際に、この山科小野荘は栄子の息子である藤原教成(のりしげ、藤原実教の養子、山科家の祖となる)の所領となりました。
 教成は、後白河院の多年の恩厚に報いるため、嘉禄(かろく)年間(1225~1227)に、山科御影堂(みえいどう)を山科小野荘の大宅郷(おおやけきょう)に建立し、そこに、後白河院の御影(みえい、神仏や貴人の肖像)を安置し、供僧(ぐそう、本尊に仕えて御用を務める僧)を置き、不断の勤行(ごんぎょう)を行なわせました。
 この山科御影堂の建立こそが、後白河院の霊廟の建立を切望した高階栄子の遺志に応えるものだったのではないかということです。(細川涼一氏による論文「丹後局高階栄子と山科小野荘」から引用させていただきました。)

 栄子(えいし)の息子である藤原教成が、後白河院のために山科御影堂を建立したのは、栄子の死後10年近く経ってからです。栄子が自(みずか)ら建立することはなく、教成も嘉禄(かろく)年間(1225~1227)までは建立しませんでした。本当に後白河院の廟所(びょうしょ)の建立を願っていたのなら、なぜこんなにも遅くなってしまったのでしょうか。
 もしかしたら、後鳥羽院が許さなかったのではないかということが考えられます。その理由は、「天皇や院の廟所を立てるのは、天皇や院が怨霊と定められた場合である」という考え方があるからです。これは、慈円がやはり「愚管抄」で述べていることです。
 確かに、崇徳上皇や安徳天皇には廟所があります。崇徳上皇のためには、崩御の地である讃岐(さぬき、香川県)に建てられた白峰御陵の他に頓証寺(現在の白峰寺)が、また寿永3年(1184)に保元の乱の古戦場である春日河原に「崇徳院廟」が 建てられました。安徳天皇のためには、建久2年(1191)勅命によって、赤間関(山口県下関市)に御影堂が建立されました。現在の赤間神宮境内にある安徳天皇阿弥陀寺陵(あみだじのみささぎ)です。
 しかし、後白河院は亡くなるまで治天の君として院政を行い、臨終においては念仏を唱え極楽往生を願って眠るがごとくその生涯を終えています。後鳥羽天皇の初期の治世は、祖父の後白河院によって生み出され築き上げられたものです。後鳥羽天皇にとって、後白河院を怨霊とすることは、後鳥羽天皇自身を否定することに他ならず、断じて許せないことだったのではないでしょうか。
 

 承久3年(1221)6月に起きた承久の乱で、鎌倉幕府に敗北した後鳥羽院が隠岐(おき)の島に流されたのは、承久3年7月のことです。もし後鳥羽院が、後白河院の御影堂を作ることを高階栄子に許さなかったのであれば、それはいつか栄子と息子教成(のりしげ)の成就することのない悲願となっていたでしょう。承久の乱の数年後、世の中が静まった嘉禄(かろく)年間(1225~1227)になってようやく、教成が、後白河院の御影堂建立に着手したのには、こうした事情があったのかもしれません。

●そもそも託宣事件はなぜ発生したのか

 ここまでは、後白河院の託宣が意図的に捏造(ねつぞう)されたものとして処罰の対象になった経過を見てきたわけですが、一方、眼を転じると、梁塵秘抄(りょうじんひしょう、平安時代末期に編まれた歌謡集)の編者でもあり、自(みずか)らも今様(いまよう、平安時代中期から鎌倉時代にかけて流行した歌謡)の名手だった後白河院の周囲には、遊女(あそび)、白拍子(しらびょうし)、*傀儡子(くぐつ)など芸能の民が集まる世界が広がっていました。彼らの中には、⁑巫女(かんなぎ)や、呪術師(じゅじゅつし)も混じっていたことでしょう。
 それらの人々は、芸能の仲間であり庇護(ひご)者でもある後白河院に対して、親しみと敬慕の念を持っていたと思います。後白河院が存命中は、今様や舞いの技を競い披露する晴れの場がありました。後白河院亡き後、彼らが失なわれた思い出の場を再現する舞台として、後白河院廟のような施設を構想することは有り得ることです。たとえば、神社においては舞殿(まいどの)、寺においては堂舎の前庭にしつらえられた舞台が、今様(いまよう)奉納、その他の歌舞音曲などの芸能を大衆の前で催(もよお)す場となるはずです。
 後白河院廟を最も必要としたのは、この人達かもしれません。後白河院は死後、法住寺に隣接する法華堂に葬(ほうむ)られました。この法住寺陵(ほうじゅうじのみささぎ)は、庶民に開放された場所ではなかったと考えられます。まして、御陵の前で芸能の奉納をすることもかなわなかったでしょう。
 繰り返し何度も起こる託宣事件は、厳しい身分制度の下で発言する方法を持たなかった彼らのこのような願望が、抑圧された形で噴き出したのではないかとも考えられます。
 *傀儡子(くぐつ)は、木で作った操(あやつ)り人形のこと、またその人形を操る芸を披露する旅芸人を指す。
 ⁑巫女(かんなぎ)は、神に仕える女性、巫(ふ)は神を自分の身に降(お)ろして神託を伝える者

 託宣事件の背後には後白河院と長い付き合いがあった芸能者たちの潜在的な願望があるのではないかという私の意見は、慈円の「愚管抄」に述べられている考え方に大きな示唆を受けています。長いので、その一部を紹介します。

 故院ハ下﨟近ク候テ。世ノ中ノ狂ヒ者ト申テ。ミコカウナギ舞猿楽ノトモガラ。又アカ金ザイク何カト申候トモガラ。コレヲトリナシマイラセ候ハンズルヤウ見ルココチコソシ候ヘ。~中略~
<現代語訳>
 亡き後白河院には、下賤(げせん、身分が低いこと)の者たちが御そば近くに侍(はべ)っておりました。世の中で風狂(ふうきょう、風雅や芸事を追求する人)と言われる、巫女(みこ、かんなぎ)、舞いや猿楽(さるがく、日本の古代、中世の演芸で物まねや曲芸などを主とする)の仲間、また銅細工の職人やら何やらの仲間などです。後白河院はこの人々を手厚く扱(あつか)って御そばに参上させているように、私には見えておりました。


 コノ事ハツヤトキツネ。タヌキモツキ候ハデ。我心ヨリ申イデタルニテ候ハバ。尤尤(もっとも、もっとも)流刑ニモヲコナハレ候ベシ。ソレガ人不思議ノ者ニ候ト申シナガラ。ソレハヨモサハ候ラハジ。先ニ兼仲ト申候シ者ノ妻モカカル事申イデ候ケリ。ソレモ物グルハシキウツワ物ノ候ニ。必狐天狗ナド申物ハ又候コトナレバ。サヤウノ物ハ世ノ誠シカラズ成テ。我ヲ祭リナドスルヲ一段本意ニ思ヒテ。カク人ヲタブラカシ候事ハ昔今ノ物語ニモ候。又サ候ベキ事ニテモ候也。ソレガツキテサル病ヲシ出シテ候ニテコソ候ヘ。病ヒストテ上ヨリ罪ニ行ハルベキニテモ候ハネバ。タダ聞シメシ入ラレ候ハデ。片角ナンドニヲイコメテ置レテ候ハバ。サル狐。狸ハサヤウニ成候ヘバ頓テ引入リテヲトモシ候ハヌニ候。
<現代語訳>
 こういう託宣事件が、狐や狸がとり憑いたわけでも全然なくて、その者が本心からお告げとして言い出したのであれば、そのような人間にはなるほど流刑でも何でも命じてもよいでしょう。けれども、言い出した者が少し非常識な人間だった場合には、同じように対処していいわけではありません。以前に兼中という者の妻がこのようなお告げを申したことがありました。その女は正気を失いやすい性質(たち)だったので、おそらく狐や天狗などという物が取り憑いたのでしょう。そういう者(狐や天狗)は、世の中に知られている人物にまるで本物であるかのように成りすまして「我を崇(あが)めよ」など言うので、すっかり信じ込んでしまったのです。このように(や天狗が)人をだまし操(あやつ)る話は昔や今の物語にもよく見られることで、また(物語だけでなく)現実にも起こり得ることです。や天狗に取り憑かれて、だまされ操られるのは病気にかかったのと同じことですから、病気になったから悪いとして上から罪に問うことはできません。そのような託宣をする者の話は、まともに取り合わないで、人里から離れた不便な場所に押し込めて置けば、取り憑いた狐や狸は気持ちがくじけて、奥に引きこもって音も立てないようになるでしょう。
 

 ♦ここで本筋から逸(そ)れますが、この事件に対する慈円の対応にも触れておきたいと思います。

 慈円は、前章で引用した出家事件についての老僧侶、實命の記事の中で、式子内親王という具体的な名称やそれと想起させるような表記を使用していません。この託宣事件についても、式子内親王に関わる事について一貫して沈黙しています。しかし、この当時、すなわち、建久7年の政変以前の慈円は、後鳥羽天皇の護持僧として政権の中心近くに存在していましたから、式子内親王に対して洛外追放という処分が宣告されたことを知らないはずがありません。そして、その処分が撤回された事情も知っていたはずです。世間的な噂の類(たぐい)にも饒舌(じょうぜつ)に話が及ぶ慈円にしては、政治的に重要な事実である式子内親王の洛外追放について、何も述べていないのは不思議なことです。

 これについては、慈円が、九条家の一員として、兄兼実を公然と批判するわけにはいかなかったということと、式子内親王との恋愛関係を秘密にしようとするあまり、式子内親王への論評も用心深く避けていたためかと、私は想像します。上記の愚管抄の託宣事件についての慈円の考察が、この事件を何かしらの謀略と考えるのはまったく筋違いで、獣や天狗などの憑依(ひょうい)に過ぎない、深く考えすぎてはならない、という結論に至っているのも、彼自身の洞察であると同時に、うがった見方かもしれませんが、このように後鳥羽天皇にも説いて、遠回しに、事件の鎮静化をはかっていたのかもしれないと、私には思えてなりません。

 九条家一族の繁栄と存続を願う気持ちを人一倍持っていた慈円ですが、自分の実兄である兼実が式子内親王の失脚を再三目論んでいるという疑念を抱いた時点で、さすがに兼実から距離をとり始めたようです。
 兼実と慈円の間で交わされた和歌の贈答は建久3年8月を最後に、それ以後は記録がありません。兼実との協力関係は、建久5年に兼実が比叡山無動寺に大乗院を建立したのに関連して、続く建久6年9月、慈円がその大乗院に若い僧侶の修学のための教育機関、勧学講を開いたことをピークとして、以後二人が協調して何かをすることはなくなりました。生前の兼実に対する慈円の修法、祈禱(きとう)は建久5年9月で終わっています。
 一方の兼実も、文治5年8月に法然を自宅に招いて法話を聴くようになってから、法然の専修念仏の思想に感化し帰依(きえ)するようになりました。建久8年には法然から選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)を献じられ、建仁2年(1202)には法然を戒師として出家するに至りました。
 こうして建久7年以降、慈円と兼実の兄弟は宗教においても人生においても、遠く離れた関係となっていったように見えるのです。

●式子内親王

 後白河院託宣事件と鶏鳴事件を結びつけて、式子内親王の洛外追放を狙(ねら)った九条兼実の標的はあくまでも内親王一人でした。式子内親王は後白河院託宣事件の同意者であるというよりは、ほとんど首謀者の一人のような扱いがなされています。

 では、その具体的な容疑とはどういうものだったのでしょうか。建久元年(1190)の呪詛事件の際は、式子内親王が八条院暲子の相続問題をめぐって、相続候補の第一人者とされていた三条姫宮を妬(ねた)み二人を呪ったという嫌疑が式子内親王にかけられました。
 託宣事件においても、そのやり方は同様と考えると、式子内親王が恨み妬(ねた)みによって、兼中夫妻にありもしない後白河院のお告げを語らせ、後白河院がまだこの世に遺恨を残していること、その遺恨を晴らさない限り怨霊となって祟(たた)るであろう、という脅迫(きょうはく)を朝廷(後鳥羽天皇)および摂関家(九条家)に向けた、という容疑ではないでしょうか。
 恨み妬(ねた)みの内容としては、後白河院の遺言によって自分(式子内親王)に譲渡されたはずの大炊御門殿が、死後5年近く経った今も譲渡が果たされず、関白公邸および中宮御所として使用されていることへの不満というものであったかもしれません。もちろん、これは事実に基づいたものではなく、九条兼実が創り出した謀略の産物として推測しています。
 

 式子内親王の洛外追放処分が記録として残っているのは、鎌倉中期に編まれた作者不詳の「皇帝紀抄」だけで、慈円の「愚管抄」では式子内親王についてまったく言及されていません。「明月記」でも、鶏鳴事件について定家が直接自分の姉から聞いており、その後、姉の旧居に滞在している式子内親王を訪問している記事がありますが、兼中夫妻の託宣事件および式子内親王の洛外追放処分については何も書かれていません。 
 つまり、同時代の直接的な証言、記録というものが残っていないのです。これは、ある時点で緘口令(かんこうれい、特定の事柄について発言を禁じること)が敷かれた、また処分自体の証拠隠滅が速(すみ)やかに行われた、などの可能性があるということではないでしょうか。もっとも慈円の場合は、前述したように特別の事情があることと、「愚管抄」の執筆自体が承久2年(1220)頃と考えられており、厳密には同時代の記録とは言えない面があることも事実です。

 式子内親王の追放処分には触れていませんが、建久7年の政変が勃発(ぼっぱつ)した11月25日の朝廷の会議について、慈円が、聞き書を書き留めています。
愚管抄
 廿五日ニ、前摂政ニ、関白、氏長者ト宣下セラレ、又上卿通親、弁親国、職事朝経ト聞コエケリ、ヤガテ流罪ニヲヨバント、此人々申オコナイケレドモ、ソレヲバツヨク御気色(みけしき)エアラジト思召(おぼしめし)タリケレバ、云ツグベキ罪過ノアラバヤハ、サシテモ申ベキナレバ、サテヤミニケリ、

<現代語訳>
 11月25日に、後鳥羽天皇が前(さきの)摂政である近衛基通(このえ もとみち)に関白、氏長者(うじのちょうじゃ)を宣下なさった。また上卿(しょうけい、朝廷の会議などの執行の責任者として指名された公卿)は源通親(みちちか)、弁(べん、朝廷のすべての公文書を管理し処理する役職)は平親国(ちかくに)、職事(しきじ、行事の事務を担当し執行する役職)は藤原朝経だったと聞いている。引き続き、九条兼実に対して流罪(るざい)の裁定まで進めようと、これらの人々が協議していたところ、後鳥羽天皇がそこまですることはあるまいと強く自らのご意向を表明なさった。これ以上付け加えなければならない罪状がもしあるのなら、それはそれで申し上げるべきであるので、それも出来なかったとみえて流罪の件は立ち消えとなったということだ。

 流罪にされるほどの兼実の罪とは何でしょうか。ここから先は、私の推測です。

 源通親が、建久7年の政変というクーデターを起こすにあたって、幾つか列挙したであろう九条兼実の罪状の中で、流罪に該当するものがあるとすれば、式子内親王に対する有罪判決と洛外追放の命令ではないかと、私は推測します。兼実が後白河院託宣事件について事実を歪曲(わいきょく)あるいは捏造(ねつぞう)して式子内親王に有罪の裁定を下(くだ)した、これは内親王の名誉を著しく損なう行為であり、皇室に対する冒涜(ぼうとく)と見なされるとして、源通親は、兼実流罪を主張したのではないでしょうか。

 九条兼実と後白河院旧近臣派との対立は、後白河院の生前に源通親と高階栄子が、長講堂領の拡大を図(はか)って播磨国(はりまのくに、兵庫県南西部)、備前国(びぜんのくに、岡山県東南部他)に荘園の新規立券を行ったことに始まります。これらの荘園群は、後白河院の死後、長講堂領として覲子(きんし)内親王(高階栄子の娘、宣陽門院)に譲渡されました。これに反発したのが兼実で、彼は宣陽門院領のうち播磨、備前の新規立券分を取消しました。兼実の院近臣派への抑圧はその後も続き、建久4年(1193)の除目(じもく、大臣以外の官職を任命すること)では、院旧近臣の参議(さんぎ*)山科実教(さねのり)の中将兼任を停止して参議を辞職するまでに追い込み、翌5年正月には実教の猶子(ゆうし)となっていた高階栄子の次男、山科実成(さねしげ)も左近衛少将を辞任し、以後は建久7年まで昇進が止まったままでした。これらの措置は、後白河院の院政期に台頭した家柄である善勝寺流や勧修寺(かじゅうじ)流などが、本来は摂関家の家司(けいし)の家柄であり一段低い家系であるから昇進を見送るべきだ、という兼実の身分制度重視の考え方によるものだったようです。
*参議とは、朝政(国政)の審議に関わることのできる大臣や大中納言に次ぐ要職で、四位以上の者が任命された。

 通親は、兼実が取り仕切った式子内親王の洛外追放処分の裁定を、後白河院旧近臣派が結束するチャンスと捉(とら)え最大限利用したと思います。<被害者である式子内親王を罪人として追放しようというのは到底(とうてい)許されることではない、今こそ兼実を関白の座から引きずり降ろして、式子内親王を大炊御門殿に迎え取ろうではないか>というわかりやすい呼びかけは、兼実に反発する多くの貴族たちの共感を誘ったことでしょう。
 もちろん、クーデター直前までは秘密裏に計画が進められたはずですから、これほどはっきりした物言いをしたわけではないと思います。時間をかけてより巧妙に、式子内親王への同情論と、兼実に対する非難と失望が徐々に広がっていったと考えられますが、これは通親の手腕によるものでしょう。

 こうして、兼実から昇進を阻(はば)まれたり排除されたりした院旧近臣派、また、過失を許さない厳格さのもとで兼実から不当に過小評価され抑圧された中級、下級の貴族たち、有能な人材の登用よりも身分制度を重視した人事に批判的な実務派官僚などの人々が、兼実から離反していきました。 
 このクーデターには後鳥羽天皇も無関係ではありません。成功すれば、式子内親王が大炊御門殿に移り住んで、後鳥羽天皇の中宮任子が御所を去るわけですから、当然ながら後鳥羽天皇の同意がなければ出来なかったはずです。これについては、後ほど詳しく述べたいと思います。

 さて、こうしてクーデターが成功しても、頼朝の推挙を受けて摂政となった兼実が失脚、しかも流罪ということになれば、幕府との関係が緊張し悪化することは予想できますから、通親も後鳥羽天皇も慎重にならざるを得ませんでした。式子内親王が冤罪(えんざい)だったとすれば、朝廷の会議に参加した大臣や公卿たち(もしかしたら同席していたかもしれない通親)や、オブザーバーとして傍聴(ぼうちょう)していたかもしれない後鳥羽天皇も、責任の一端を問われることになります。式子内親王の洛外追放処分問題は、貴族社会の腐敗を示す一大スキャンダルとなりかねません。そうした危惧(きぐ)が、後鳥羽天皇に兼実の流罪を差し止める発言をさせ、式子内親王に対する洛外追放の裁定とその取り消しの裁定、両方の裁定の速やかな証拠隠滅を、朝廷側に図(はか)らせたのではないでしょうか。クーデターが着々と成功しつつある状況で、式子内親王に関する事件をこれ以上広めることは、世間的にも対幕府的にも、かえって逆効果になる恐れがあったということです。
 この問題は、兼実が大炊御門殿を明け渡し、式子内親王が年明けを待たずに大炊御門殿に粛々(しゅくしゅく)と移御(いぎょ)することで、決着がつけられました。クーデターの一つの成果を速やかに世の中に示したことによって、式子内親王の洛外追放処分事件は鎮静化されました。

 なぜ、式子内親王が内親王の洛外追放という前代未聞の事件に巻き込まれたのか、それにも関わらず肝心な記録がほとんど残されていないのかは、こうした事情によるものではないだろうか、というのが私の考えです。