承安4年の春 -式子ー
梅の花が満開の頃
式子内親王と慈円の間に生まれた娘は、顕清女(むすめ)であると考えて話を進めています。承安4年(1174)1月下旬から2月上旬頃に、この娘は生まれました。現代の暦に直すと3月初旬から中旬になります。
京都では、2月中旬から3月中旬にかけて梅の花が見頃で、各地で梅祭りが開催されます。ですから、顕清女はちょうど梅の花が満開の頃に生まれたことになります。
顕清女の誕生と、顕清の昇進、経房の江文寺訪問を、梅の開花に沿って時間を追って並べると、こんな風になります。
1月12日 梅開花(西暦では、2月15日)
1月22日 梅の花が見頃となる(西暦2月25日)
2月1日~8日 この頃、顕清女が誕生か(西暦3月5日~3月12日)
2月8日 法勝寺に人事にまつわる動きあり
2月16日 経房が江文寺訪問*
2月20日頃 梅の花散る(西暦3月24日)
3月1日 顕清が、法勝寺の都維那(ついな)に補される
3月7日 顕清が、院宣により講堂執行(しぎょう)に補される
*式子内親王と慈円の恋6をご覧ください。
梅の花は、生まれてくる子どもと時が重なりあうように、ほころび、咲き、満開になっていったのです。
式子内親王が詠んだ梅の和歌には、何か特別な温かい想いが込められているように感じられます。それは、恋人ではなく、自分が産んだ娘に対する想いではないかと、私には思えます。次に式子内親王が詠んだ梅の和歌を集めてみました。
梅の和歌
① 色つぼむ梅の木の間(このま)の夕月夜(ゆうづくよ)春の光をみせそむるかな
まだ固い梅のつぼみは、やがて咲く時が来るのをじっと待っています。梅の枝に差し込んでいる月の光も、まだ三日月の夕月夜です。梅の花も、月も、時が満ちて春になる、その最初の光を今、見せ始めているのですね。
② 消えやらぬ雪にはつるる梅が枝(え)の初花染めのおくぞゆかしき
雪はまだ消え残っていますが、梅のつぼみがほころび始めました。枝に初めて咲く花がどんなふうに咲き匂うのか、その先を見るのが待ち遠しい、紅花(べにばな)の初花で染めた染め物が深い赤に染まるように、この梅の花がどんな色合いに染まっていくのか、その行く末を知りたいのです。
③ たが里の梅のあたりにふれつらん移り香しるき人の袖かな
誰の家の辺りに咲いている梅の花に触れてきたのでしょうか、あなたの袖からは、その梅の花のよい香りが漂ってきますよ。
④ 梅の花恋しきことの色ぞ添ううたて匂ひの消えぬ衣に
梅の花の移り香がいつまでも残っているこの衣を見ると、梅の花が恋しい気持ち、梅の香のするあの人に会いたいという気持ちが加わって、苦しくなるほどです。
⑤ 苔ふかく荒れゆく軒に春見えて古り(ふり)ずもにほふ宿の梅かな
我が宿の庭は深く苔むして、軒端も荒れてしまいましたが、春が近づくと、あの時のように花を咲かせて梅が懐かしく匂っていますよ。
⑥ 梅が枝(え)の花をばよそにあくがれて風こそかほれ春の夕闇
花の咲いている梅の枝はどこにあるかわからないが、その花から香りはさまよい出でて、風に乗って私のところにやってくるのでしょう。その風が、香っています、この春の人恋しい夕闇に。
⑦ 匂ひをば衣にとめつ梅の花ゆくゑもしらぬ春風の色
その匂いを確かに衣にとどめたまま、梅の花はどこに消えてしまったのか、あの時、梅の香りをさせて吹いていた春風も、今は素知らぬふりでどこに吹いていくのだろうか。
⑧ たがかきねそことも知らぬ梅が香の夜半(よわ)の枕になれにけるかな
誰の家の垣根からなのか、どこともわからない梅の枝から、夜になると、この枕元によい香りがやって来る、そうして私は梅の花のことを想っている、そんな夜にも、この頃はもう慣れてしまった。
⑨ ながむれば見ぬいにしへの春までも面影かほる宿の梅が枝
庭の花盛りになった梅の木を眺めていると、今の梅の花だけではなく、私が見ていない何年も前の春の、梅の花のおもかげが浮かんでくるのです。その時々に咲いていたであろう梅の花の様子が、何重にも重なって見えてくるので、いつまでも物思いにふけって眺めているのですよ。
⑩ 梅の花香をのみ送る春の夜はこころ幾重のかすみわくらむ
梅の花が姿も見えないのに、すぐ近くで咲いているように香りが濃く漂っている春の夜は、闇が花の姿を隠しているから、見えないのであろうか。もしかしたら手が届くほど近くに花はあるのかもしれない。そう思って私の心は幾重もの霞(闇)をかき分けて梅の花を探し続けているのだろう。
⑪ わがやどは立ち枝(え)の梅の咲きしよりたれともなしに人ぞ待たるる
私の家は、庭の梅の木の真っ直ぐ勢いよく伸びた枝に花が咲いた時から、その花を遠くから見つけて思いがけない人が、訪ねて来てくれるような気がして、誰ということもなく人の訪問を待ちわびる家になりました。
⑫ 袖の上にかきねの梅はをとづれて枕にきゆるうたたねの夢
私のところにどこかの垣根に咲いている梅の花が訪ねて来てくれた。袖の上に香りが残っている。でも、気がつけばもういない、あれは夢だったのだろうか。短いうたた寝から覚めて、消えていく夢の名残り惜しいことよ。
⑬ ながめつるけふは昔になりぬとも軒ばの梅よ我を忘るな
こうして軒端の梅の花を眺めて物思いをしている今日の日が、私が亡くなって昔のこととなってしまっても、梅の花よ、あなただけは、私を忘れないでくださいね。
梅の和歌から感じ取れること
上記の13首のうち、①②③④は、「前斎院御百首」、⑤⑥⑦は「百首」、⑧⑨⑩⑪は式子内親王の三つの百首歌には入っていないけれども、勅撰集、私撰集などに採られた歌、⑫⑬は、「正治百首」です。⑧⑨⑩⑪は制作年代はわかりませんので、最晩年の「正治百首」の前に置きました。これ以外は、大体、年代順に並んでいると考えてよいかと思います。
これらの梅の和歌では、梅の花が擬人化されているものが多いことが特徴的で、一貫して同一人物の擬人化であるように思います。
梅は、固いつぼみからほころんで、衣にその匂いをとどめ、春風に乗ってどこかの屋敷に咲くことになります。姿は見せませんが、香りだけで消息を知らせているようです。
毎夜、その人物に対して会いたさがつのっていきます。会いたくて探しているけれども、どこにいるのかわかりません。梅の季節になると、ことに思い出がよみがえり、物思いにふけってしまいます。
年月が経つにつれ、会えなかった期間の人物の様子をあれこれ想像しています。
時折、この人物の短い訪問があるようです。それは、夢なのか、想像なのか、あるいは実際の出来事なのかは、曖昧に表現されているので判然としません。
その人物は、和歌の中の主人公にとっては、春の光、初花染め、立ち枝の花、というふうに希望の象徴であるようです。
最後に、主人公は死期を悟って、この人物に別れの言葉を贈ります。
式子内親王の和歌には、ご承知の通り、嘆きや涙がたびたび登場しますが、梅の和歌にはそれらを思わせるような言葉はありません。恋しいとは言っていますが、悲しい、辛いとは言っていないのです。待ちわびて、ため息をついてはいますが、梅の花を思い続けています。そこに虚しさの気持ちは感じ取れません。むしろ、これらの和歌からは、幸福感が感じられるといってもいいかもしれません。そして、最後は心情のこもった別れを告げています。
式子内親王は、25年余りかけて和歌という形で梅の花のストーリーを作っていったわけですが、そこには、一貫して同一人物のイメージとともに物語が展開されています。その人物とは、梅の花と切り離せない思い出のある、自分が生んだ娘(顕清女)ではないでしょうか。梅の花には、赤子の時に別れた娘が成長していく姿が、投影されているのではないかと思います。
当時の和歌は、題詠(題が与えられて、和歌を詠むこと)が中心であり、その内容は事実ではないこと、創作された作品から作者の人生の出来事やモデル探しをすることは、作品を鑑賞するうえで誤った行為であることは、たびたび言われることです。
そうした観点からは、私の意見は逸脱するかもしれません。しかし、和歌は古来より、手紙、挨拶、機知の応酬、相聞、述懐など、人々の人生の様々な場面で詠まれてきた長い歴史があります。芸術作品としての和歌と、心情を吐露(とろ)するための優美な道具としての和歌が、不分明に交錯する独特の詩の形式であると思います。そういう意味では、和歌という作品の中に、作者自身の人生の光と影を見出すことも、許容されてよいように思います。
式子内親王の二十代の頃
斎院を退下してから、5年以内に式子内親王は、道快(後の慈円)と出会い、密かに恋人同士になったと考えられます。前斎院と僧侶、という共に恋の制約を課せられた二人が、どのようにして出会い、逢瀬を重ねたか、そのドラマティックな展開はわかりませんし、想像で語ることもできません。確認できるのは、承安4年(1174)に、顕清女として歴史に登場する女性が生まれたこと、その女性が慈円と深い関わりをもっていること、そして、式子内親王が、子どもと思われる人物を投影した和歌を作っていることです。これを手がかりに、慈円と式子内親王の関わりを探り、二人の人生に新たな光を照射できればと思います。
前章で、式子内親王の御所を考察したとおり、式子内親王は二十代を三条万里小路第で暮らしました。青年僧道快との初めての恋が始まった時、二人ともこの恋は誰にも知られるはずはないと思ったかもしれません。しかし、思わぬ妊娠をきっかけに、二人は突然引き離されました。式子内親王は、道快を失い、その後の出産を経て我が子とも別れる、という二重の喪失を、体験しなければなりませんでした。その傷心を内面深くに閉じ込めて、三条万里小路第での生活があったのです。
同じ空を眺め、同じ庭を眺め、古くから仕える女房達にかしずかれて、表向きは平穏に過ぎていく日々に、式子内親王を癒したのは、娘の成長だったと思います。そうでなくては、梅の花の和歌から感じ取れる幸福感は生まれなかったはずです。これには、経房の寄与も大きかったのではないでしょうか。経房は、養父母の事も娘の成長の様子も、ある程度は報告していたのではないかと推測されます。
安元3年(1177)に母成子が死去しますが、その年には、三条実房の生後間もない二女を、預かって育てています。自分の子どもを手放さざるを得なかった式子内親王にとっては、複雑な思いであったでしょうが、それでもあれこれと世話をしたり、子どものための年中行事をしたりと、子どものいる賑やかな生活は、楽しさもあったことでしょう。
元暦元年(1184)に54歳の中山忠親が、一歳にも満たない我が子を見せに式子内親王の御所に向かうくらい、ほほえましく親しい交際もあるところを見ると、三条万里小路第は決して人淋しい御所ではなかったようです。
前章(当ブログ8)で、建久3年(1192)花山院兼雅が、九条兼実に述べた式子内親王の人物評として、「彼宮事不能進退」(あの姫宮はご自分で物事を決める事は何も出来ない方ですから)という言葉がありましたが、これは摂関家の九条兼実におもねった政略的な発言だったでしょう、実際は花山院兼雅は、式子内親王のことをよく知らなかったはずです。この発言が、ひとり歩きをして、式子内親王に「無力な姫君」というレッテルがつきまとうようになってしまいました。
宿命に翻弄されたイメージを持たれがちな感のある式子内親王ですが、内面的に苦悩を抱えながらも、実生活においては、世間的な常識も、明るさや気持ちの豊かさも持ち合わせていたのではないでしょうか。
恋の行方
道快は、承安4年(1174)、式子内親王に別れを告げることすら出来ないまま、江文寺に参籠しました。その後の7年にわたる長い煩悶と修行を経て、道快(すでに慈円と改名していた)が再び式子内親王の前に現れたのは、別れてから13年後の文治3年(1187)4月のことです。
祭りの御阿礼(みあれ)の日に、式子内親王に双葉葵が献上されました。その時、一緒に添えられていたのではないかと推測される慈円の和歌を、さらに吟味して慈円の心の中に分け入ってみようと思います。
宮居(みやゐ)せしむかしにかかる心かな そのかみ山のあふひならねど
❀あなたと不本意に別れてしまった昔のことが心から離れません。もう一度、私と会ってください。以前のような”逢う日”ではありませんが。
「逢う日(逢瀬)ではない」と言っています。「突然、外的な圧力によって遮断されてしまった恋の行方を、もう一度、私達の手に取り戻して、現在の自分の心境をあなたに打ち明けたい。そのためにやってきたのです。」そう言っているようです。
しかし、慈円の真意は式子内親王には伝わりませんでした。式子内親王の返しの歌は、さりげなく拒むものでした。
神山のふもとになれしあふひぐさ ひきわかれてもとしぞへにける
❀昔は確かに愛し合いました。それから私たちは引き離されて、ずいぶん年月が経ってしまったのです。もう過ぎたことですよ。
式子内親王が、「逢う日(逢瀬)”ではない」という慈円の言葉を聴き取ったか、ただ、よりを戻したいと聞こえたのか、それはよくわかりませんが、自分はそんなに都合のよい女ではありませんよ、そう思ったとしても無理はありません。13年間、別離の痛みに孤独に向き合いながら、運命と思い定めてあきらめの境地に達していたのです。我が子の成長だけが、式子内親王の心の救いだったかもしれません。
式子内親王にとっては、恋の行方は、内面に沈潜して自分自身に問いかけるモノローグ、それ以外のものではありませんでした。
こうして、二人は3度目の別れをしました。11歳で斎院に立った時の別れ、26歳で恋を引き裂かれた時の別れ、39歳の葵祭の日の別れです。しかし、これで二人の恋が終わってしまったわけではありません。
慈円は、7年間の修行の日々の中である考えに到達していました。恋を捨てるのではなく、あきらめるのでもなく、恋に向き合うことで、それぞれが持つ宿命を乗り越えられるのではないか、という考えです。煩悩という言葉では言い尽くせない、人間の本質に関わるほどの大きな問題として、恋を捉えない限り、自己を偽って生きていくしかない、それはとりもなおさず執着を断ち切れないことである、と慈円は考えました。恋にまっすぐ向かいながら、恋を生き抜くことによってこそ、解脱への道が見えてくるのではないか、と思ったのです。これが、生まれた時から決まっていた出家のコースではなく、慈円が自ら選び取った出家の第一歩でした。
西行の生き方
西行は、鳥羽上皇の下北面の武士でしたが、23歳で発心(ほっしん)し出家しました。この突然の出家にはある高貴な女性への恋が関係していたと言われています。一説には、鳥羽上皇の中宮、待賢門院であったという伝承があります。彼は、出家してからも、花と月を愛し、また若い日の恋の思い出を、終生、歌に詠み続けた歌人です。
西行は、建久元年(1190)2月16日に73歳で亡くなりましたが、その前年、文治5年(1189)に比叡山に登り、比叡山の無動寺で、慈円と歌を詠み交わしています。無動寺は、比叡山の延暦寺根本中堂から琵琶湖方面に少し下った所にあります。慈円が厳しい修行の日々を送った寺で、眼下には琵琶湖を見はるかす地でした。
にをてるや凪(なぎ)たる朝に見わたせば 漕ぎ行く跡の波だにもなし
円位上人(西行)
❀朝日を受けて輝き始めた湖面を見渡すと、風もなく波が凪いで、舟が一艘、漕ぎ去っていく、航跡の波立ちすら残さずに。私もまた、一生を終えるにあたり、朝の湖から静かに消え去る舟のような、何の煩悩もない澄みきった心境です。
返し
ほのぼのとあふみ(近江)のうみ(湖)を
漕ぐ舟の跡なきかたに行くこころかな
慈円
❀明け方に、この近江の湖を、ほのかに見えながら漕ぎ去っていった舟。もう見えない舟の行方に、なぜか私の心はひきつけられて、いつまでも舟が過ぎた跡を見つめています。そのように、あなたに心を寄せる想いに変わりはありません。
西行が、伊勢神宮に奉納するために勧進(かんじん、仏教の布教のために、念仏や誦経、百首歌などを勧めること)したのが御裳濯(みもすそ)百首といわれるものです。それに応えて、慈円が送り届けた百首歌の中には、あの、「宮居せしむかしにかかるこころかな そのかみ山のあふひならねど」
がありました。西行が、比叡山に向かった前の年、文治4年(1188)のことです。
72歳の西行が、老いの身もいとわず慈円に会うために比叡山に登り、おそらくは一夜を慈円と語り明かして、翌朝、眼下に琵琶湖を眺めながら、歌を詠みあったのには、こうした事情があったと思います。親子ほども年の離れた二人でしたが、出家者として、歌人として、また、乗り越えなければならなかった恋の苦しみを持つ者同士として、深いところで共感しあったものと想像します。
式子 in Wonderland
はかなくて過ぎにし方(かた)をかぞふれば
花にもの思ふ春ぞへにける
前斎院御百首
本歌は、西行の「はかなくてすぎにしかたをおもふにも いまもさこそはあさがおの露」(山家集)だと思います。西行の山家集は、治承・寿永の乱頃には成立していたようで、式子内親王も、西行とは長年にわたり交流のあった俊成を通して、手に取る機会があったのでしょう。
山家集には「諸行無常のこころを」という詞書き(ことばがき)がついています。「あっと言う間に過ぎてしまった昔のことを思うにつけても、今、こうして生きていることも、さだめし、あさがおの露が消えるように、あっけなく終わってしまうのでしょう。」
式子内親王の歌は、「あっという間に頼りなく過ぎていった年月を一年、一年思い返してみると、そのどれもが、桜の花の咲いては散りしていくさまを眺めては、憂愁の物思いにふけった春の日ばかりが思い出されます。」です。流れ去る時の重さと、桜の花びらが、はらはらと散っていくような美しさの対比が、印象に残る歌だと思います。