式子内親王と慈円の恋 2

唐崎の祓え(からさきのはらえ)

賀茂斎院

 式子内親王は、平治元年(1159)10月から嘉応元年(1169)7月まで賀茂斎院(かものさいいん)として、神に仕えました。斎院とは、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ、下鴨神社)と賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ、上賀茂神社)に奉仕する未婚の皇女のことで、伊勢神宮に奉仕する斎宮(さいぐう)と共に、斎王と呼ばれました。天皇の即位ごとに選ばれ、式子内親王は異母兄の二条天皇の即位に伴い、斎院に卜定(ぼくじょう、亀の甲羅を使って吉兆を占い、適任者を選ぶこと)されました。姉の亮子内親王も、後白河天皇即位時に斎宮に、好子内親王も、二条天皇即位時に斎宮に卜定されています。

 斎院はまた、斎王の御所を指す言葉でもあります。賀茂斎院は、平安京北辺の紫野にありました。現在の京都市上京区櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)が、その跡地と言われています。住宅地の入り組んだ路地を入っていった一画に、小さな小高い丘があって、そこにこの神社があります。当時の広大な敷地も面影もありませんが、石段を登ると明るく涼しげな風が吹いて、800年の時を経てもなお昔の空気が残っているような場所です。ここで、式子内親王は11歳から21歳までの多感な時期を過ごしました。

 斎院には、藤原俊成の娘達をはじめとする若い才気のある女房達が仕えていて、和歌を詠(よ)んで贈答したり、式子内親王自身も和歌や箏(こと)をたしなんでいました。また後年、絵の素養があったことがわかっているので、この頃から絵を描くこともあったかもしれません。若い女房達を目当てに同じ年頃の平家の公達(きんだち)が出入りしていたことも、同時代を生きた建礼門院右京大夫(うきょうのだいぶ)の歌集や、鎌倉時代初期に成立したと見られる平家公達草紙などからもうかがい知ることができます。神に仕える清浄な身であっても、決して淋しいばかりの孤独な生活ではなかったようです。

 しかし、世間から隔絶され不自由ではあっても、身の安全と平和が保証された御垣の内(みかきのうち)を退出する日がやってきました。表向きの理由は病気のための退下(たいげ)とされています。実際のところは、後白河院と平滋子(しげこ)との間に生まれた高倉天皇の即位、それに対して式子内親王の弟以仁王(もちひとおう)を対抗させようとする勢力、平氏の繁栄と対照的な式子内親王の母方の実家の失速などが関係しています。
 次の年表をご覧ください。おもに式子内親王の2歳下の弟である以仁王に関するものです。

年表

仁平元年(1151)
 以仁王誕生。後白河天皇第三皇子(母成子)。幼くして出家するために最雲法親王に預けられる。
応保元年(1161)
 憲仁(のりひと)親王誕生、後の高倉天皇。後白河天皇第七皇子(母平滋子)
応保2年(1162)
 以仁王(12歳)出家をやめて還俗(げんぞく)
長寛3年(1165)
 以仁王の祖父藤原季成(のりなり)没
永万元年(1165)
 二条天皇(23歳)崩御
 以仁王(15歳)ひそかに元服する。その後は八条院(鳥羽天皇皇女、後白河天皇の異母妹)の猶子(ゆうし、養子よりも緩やかな親子関係)となる。
 憲仁親王(5歳)親王宣下
永万2年(1166)
 成子の弟、藤原公光(きんみつ)が解官(げかん)失脚。公光は式子内親王の後見人でもあった。
仁安元年(1166)
 憲仁親王(6歳)、皇太子となる。
仁安3年(1168)
 憲仁親王(8歳)即位。高倉天皇となる。
嘉応元年(1169)
 平滋子、建春門院の院号宣下
 後白河院、出家。法皇となる。
 式子内親王(21歳)斎院退下


 

 以仁王が、諸国の源氏に平氏打倒の令旨を下し、自らも挙兵したのは、治承4年(1180)、式子内親王の斎院退下から10年以上経ってからのことですが、その伏線はすでに以仁王が12歳で還俗した時から始まっていました。叔父公光の失脚は、以仁王の元服が平滋子の怒りに触れ、その責任を取らされたのではないかとも言われています。
 滋子所生の高倉天皇が即位したのですから、以仁王の姉式子内親王がひき続き斎院を務めることは、到底無理な話です。それは平滋子の意向であると同時に、父親である後白河院の意向でもありました。

斎院退下、唐崎はどこにあるのか

 斎院は、退下の儀式として唐崎の祓えをするしきたりが代々守られてきました。災いや穢れを、紙で作った人形(ひとがた)に移し川や海に流すことで、心身ともに清浄となり、神様に別れのあいさつをするのです。
 唐崎は、滋賀県大津市の琵琶湖に面した広々とした浜辺にある神域です。(唐崎神社佐久奈度神社を参照してください。)退下の儀式は、当然この志賀の唐崎で行われたと考えられてきました。律令制度が確立していた奈良時代から平安初期には、賀茂斎院が退下の際に唐崎まで祓えの旅をしていたのかもしれません。また、荘園制が全国的に広まっていった平安中期から末期にかけても「唐崎の祓え」を行なった斎院の記録は残っています。鳥羽上皇と待賢門院が、娘の統子内親王(後の上西門院)が賀茂斎院を退下してから2年後の長承3年(1134)9月25日に唐崎の祓えに向かう(あるいは帰りの)行列を、二条京極で見送ったという「中右記」の記事や、同じく統子内親王の唐崎の祓えにお供したという伯父藤原実行の和歌、「きのふまでみたらし川にせしみそぎ志賀のうら波たちぞかはれる」が、「からさきにはらへし給(たまひ)ける御ともにて...」という詞書(ことばがき)と共に千載集に収録されているなどです。しかし琵琶湖までの行程や風景、行列の様子などは記録としては残っていないようです。

 では、式子内親王の場合はどうでしょうか。斎院退下は皇室の神事ですが、皇室の財政自体が荘園制に依拠していますから、有力な皇族の後見、あるいは母方の実家の後見がなければ、多額の費用をかけることはできません。式子内親王の1歳上の姉好子内親王が、永万元年(1165)12月19日に伊勢斎宮を退下した時の様子が、「顕広王記」という日記に書かれています。*それによると、輿(よ、乗り物)は壊れ、食べ物も用意されず、宿所も満足にあてがわれず、険しい山道を進むこともできない、世話役の役人も迎えに来ない、「斎王、御泣涕(きゅうてい、涙を流して泣く)ト云ヘリ」という惨憺たる有り様だったようです。*本居宣長の玉勝間、巻10を参考にしています。


 式子内親王も姉と似たような政治的状況下にあったわけですから、とても志賀(滋賀)の唐崎までの晴れがましい行列は望めなかったと推測されます。
 京都から唐崎まで当時の道のりは約20㎞、途中から山道ですが、牛車(ぎっしゃ)で行くことは可能だったようです。天禄元年(970)5月20日頃に蜻蛉日記(かげろうにっき)の作者である藤原道綱母が実際に行なった唐崎への旅を見てみましょう。100年後の式子内親王の時代も、交通事情は変わっていないはずです。
 道綱母は、早朝4時に京の西洞院にあった自邸を牛車で出発して、途中休憩を取りながら7時間かけて琵琶湖に到着します。清水という所で昼食の後、唐崎の祓い所に向かい、祓えが済んで帰路につくのが午後3時、その後、走井で休憩をして食事を終えるのが、日の暮れようとする午後7時(夏至の頃なので日没が遅い)。そこから自邸がある西洞院までは10㎞、3時間かけて家に帰り着いたのは、夜10時頃と考えられます。。日帰りをするには、かなりハードな行程といえます。

 ところで、京都の賀茂御祖神社(下鴨神社)の境内には、末社(まっしゃ、その神社と関わりのある神を祀る付属の小社)として、唐崎社がありました。高野川と鴨川の合流する地点の東岸にあったということです。この唐崎社は、元慶3年(879)の記録に既に見え、御祭神は祓えの神である瀬織津姫命(セオリツヒメノミコト)です。賀茂斎院の御禊(ごけい)や官祭の解齋(げさい、物忌みを終えて平常に戻ること)が行われたそうです。
 斎院退下時の唐崎の祓えが、斎院が病弱だったり戦乱の直後で行列が整えられなかったり何らかの理由で行なえない場合は、この唐崎社から川向こうのはるか東にある志賀の唐崎を遥拝して退下の儀式を執り行なったのではないかと考えられます。つまり、主催者にとっても参列者にとっても負担の軽い、京においての「唐崎の祓え」があったのです。式子内親王の「唐崎の祓え」も賀茂御祖神社の唐崎社であった可能性が大きいと思います。

賀茂御祖神社の唐崎社跡地


 
 

 鴨川デルタは現在は水辺の行楽地ですが、かつては「糺(ただす)河原」と呼ばれていた三角州で、洲の先端の東岸には唐崎社が祀られていたそうです。*出典 日本経済新聞「鴨川デルタ」の記憶
 

式子・in・Wonderland

 鶯(うぐいす)はまだ聲(こえ)せねど岩そそぐ
       たるみの音に春ぞ聞こゆる
                 前斎院御百首

 華やかな技巧はありません。ただ、万葉集の志貴皇子(しきのみこ)の歌、「石(いわ)そそぐ垂水(たるみ)のうえのさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」が、本歌として反響しています。ほとばしる春の水と鶯を主題にしていますが、まだ鶯が鳴くほど春が深まってはいないようです。式子内親王の鶯の歌は4首残っていますが、そのどれもがそこにはいない鶯を詠んでいます。鶯の不在、その予感や残映をたどる心の動きを、景観に重ねて、かすかな憂愁を感じさせます。