三人の僧
日本仏教の貴重な文献が集められた「大日本佛教全書」(明治45年~大正11年に創刊)という書物があります。この書物の64巻138に僧綱補任残闕(そうごうぶにん ざんけつ)が収録されています。僧綱補任とは、推古32年(624)から康治1年(1142)までに、僧尼を統括し寺院を管理する役職に任命された僧侶の一覧を載せた史料です。残闕とは、破れ欠けて完全でないものの一部という意味です。その寿永3年(1184)と元暦2年(1185)と書かれた条の記載をご覧ください。
僧綱補任残闕
寿永三年 甲辰
法印 慈圓 山 殿 卅 十九
法眼 実快 山 右大将 卅二 廿二
顕清 東 大進 四十七 里
元暦二年
慈圓 山 卅一 廿
実快 山 右大臣 卅三 廿三
顕清 東 大進 里
🔹この史料の解釈は、自己流です。間違っておりましたらご教示ください。
①法印、法眼(ほうげん)、は僧の位の名称です。高い順です。この下にさらに法橋があります。
②山は比叡山延暦寺、東は東寺の略です。どこで修行して僧侶となったのかを示しています。
③殿、右大将、大進は出自の家柄です。
殿は摂関家のことです。慈円の父は摂政関白の藤原忠通でした。
右大将は実快(じっかい)の父、徳大寺公能(きんよし)が応保元年(1161)に亡くなった時の官位です。公能は最終的に右大臣に任じられ右大将も兼任しました。
顕清の父日野政業は皇后宮大進*でした。*系図纂要より
④卅は30歳、次の十九は僧としての修行を始めてからの年数だと思います。つまり寿永3年に慈円は30歳で、11歳で覚快法親王のもとに入室してから19年目だということです。
実快は、32歳、僧としての経歴は廿二(二十二)年目です。
顕清(けんせい)は47歳、何歳で僧として出発したのかは不明のようです。しかし、10の単位を廿、卅、と表記していて、続いて四十というのも少し疑問が残ります。これは卌と十七と書かれていた可能性も考えられます。その場合は顕清の年齢は40歳で、出家してから17年目、つまり顕清は23歳で出家したということになります。
⑤里は里住み、つまり妻帯者を意味すると思われます。
寿永3年も元暦2年もこの3名だけの記載です。
謎を解く
いつ、誰が、今はその内容が失われている時代の僧綱補任から、この三人の僧だけを抜き出して書き留めたのでしょう。おそらく何百年も気づかれることなくひっそりと埋もれていたはずの断片的な記録、これは、いったい何を意味しているのでしょうか。その謎をこれから解いていきたいと思います。それぞれの僧の相互にまつわる事跡を箇条書きで並べてみます。
三人はどういう関係か
慈円
●顕清が異例の抜擢を受けて出世した承安4年(1174)に、青蓮院の覚快法親王のもとを離れて大原の江文寺(えふみじ)で百か日の参籠(さんろう、神社や寺にある期間こもって祈願し修行すること)をしている。
●正治2年(1200)9月11日、後鳥羽院の妃である修明門院御産の御祈の際、実快法眼の房を7日間宿所としている。
●後鳥羽院の寵姫(ちょうき)顕清女(むすめ)が、皇子を出産してその産褥(さんじょく)のため亡くなった。その1年後の元久2年(1205)秋から翌年の春にかけて、後鳥羽院との間に100首に及ぶ哀傷歌を贈答している。
●承元2年(1208)10月、朝仁親王5歳で慈円(青蓮院門跡)のもとに入室。慈円は顕清女が産んだ皇子、朝仁(あさひと)親王(のちの道覚法親王)を幼少の頃より預かり父親のように育てることを、後鳥羽院から許されている。
●承久の乱後の承久3年(1221)、道覚法親王は慈円ゆかりの善峯寺(よしみねでら)に籠居(ろうきょ、謹慎して家に閉じこもること)。後鳥羽院の別荘である水無瀬(みなせ)殿にあった顕清女を祀る蓮華寿院も善峯寺に移された。
●嘉禄元年(1225)10月、慈円死去。墓は比叡山無動寺と善峯寺に分骨。
●安貞元年(1227)3月1日、顕清*が亡くなった時に、慈円の実家である九条家は壇所を設け法要を営んでいる。
*藤原定家「明月記」より。ただし、表記は顕性。
●建長2年(1250))1月、道覚法親王死去。比叡山座主、青蓮院門跡を務める。墓は善峯寺。
実快
●慈円は初期に道快と名乗った。実快も名前の一字に同じ快が使われている。出自も徳大寺家という名門であることから、慈円と実快は、少年時代に青蓮院の覚快法親王のもとで学びあった兄弟弟子と思われる。
●ちなみに、実快は式子内親王のはとこにあたる。系図を載せておく。
実快系図
●正治2年(1200)9月に慈円に7日間、宿所を提供した後、同じ年の12月8日、実快は式子内親王の御所である大炊御門(おおいみかど)殿を訪問、死の床にある式子内親王に面会している。式子内親王は翌年の建仁元年(1201)1月25日死去。
●元久元年(1204)10月9日、顕清女(尾張局)は産褥のため実快の房で死去している。このことから顕清女が「里下がり」して朝仁親王を出産したのは、実快房であったと推測される。
●実快の息子、得王(とくおう)は後鳥羽院の寵童だったが、元久元年(1204)6月9日、後鳥羽院の女房と関係して宮中を追放されるという事件が起きた。得王は父親の家に帰ることを許されなかった。顕清女が実快の房に「里下がり」して出産をひかえていたからである。帰ることが許されたのは、顕清女が亡くなった後の元久元年(1204)12月16日で、この時、慈円は後鳥羽院の命令で得王の処遇を任されている。(「明月記」より)
顕清
●承安4年(1174)3月1日、後白河院の仰せにより、法勝寺の都維那(ついな)*に任ぜられる。(「吉記」より)
*「官職要解」には、諸大寺には寺内を取りしきる三綱(さんごう)として、上座・寺主・都維那が置かれ、都維那は衆僧に法義を説き示し寺院内のことを一切つかさどる役職とある。
●同3月7日、後白河院の院宣により、都維那顕清が法勝寺講堂執行(しぎょう、寺務を執行する役職)に任ぜられる。(「吉記」より)
●後鳥羽院の第六皇子、朝仁親王の母である尾張局が法眼(ほうげん)顕清女(むすめ)であるとされている。(出典不明)
●前述のとおり、藤原定家の「明月記」安貞元年(1227)3月1日に、「顕性僧都ト云フ山ノ僧死去ス。」という記事があり、日野家の縁者が軽い喪に服したこと、九条道家(慈円は道家にとって大叔父にあたる)が定家の家令である忠弘法師宅に壇所を作り法要をすることを定家に命じたことが記されている。
顕清女(むすめ)とは誰か
以上が、この三人の僧の互いの関係を示す出来事です。その関係をつないでいるのは、顕清女です。尾張局と呼ばれ後鳥羽院の寵姫だったこの女性は、顕清の娘とはされながらも成長して宮仕えしたのち、実際に彼女が御産のために御所から退出した先は、顕清および日野家とは関わりのない徳大寺家の実快の家でした。亡くなったのも実快の家ですから、葬式も野辺の送りも実快が取り仕切ったと推測されます。
実快の背後には、身分が違うとはいえ少年時代からの友である慈円がいます。顕清は養父であって、慈円が実父である、実快は慈円に頼まれて顕清女を引き取ったとは考えられないでしょうか。もし、慈円が顕清女の真の父親なのであれば、母親は誰でしょう。実快ひいては徳大寺家と近しい縁戚関係にある式子内親王とは考えられないでしょうか。
顕清は、承安4年(1174)3月に後白河院の院宣により、突如、法勝寺の都維那(ついな)と講堂執行に任ぜられました。それは、法勝寺内部に動揺と不満を引き起こすほどの人事でした。顕清の抜擢には、後白河院が関わっていますが、これが、顕清が「顕清女」の養父となったことへの褒賞(ほうしょう、ほうびのこと)ならば、「顕清女」の母親は後白河院にゆかりの深い人物であるはずです。この点でも、式子内親王は後白河院の娘ですから、有力な候補と考えられます。
後鳥羽院の、尾張局への特別な待遇と、式子内親王への接近
尾張局に対して
時代がずいぶん先になりますが、ここで、後鳥羽院のことについても触れておかなければなりません。後鳥羽院も、顕清女の出生の秘密を知っていたとしなければ、実快房への「里下がり」は成立しないからです。また、他の後宮の女性達とは異なる、特別の待遇を列挙すれば以下の通りです。
●後鳥羽院と慈円の間に交わされた贈答合わせて100首に及ぶ尾張局への哀傷歌群の存在
●後鳥羽院が最も愛着を持っていた水無瀬の山荘に、尾張局のために蓮華寿院と名付けた祠(ほこら)を院自ら建立したこと
●尾張局所生の皇子に対して、母親の身分が低いにもかかわらず5歳にして親王宣下をしたこと、それまでは親王の入室(出家を前提として寺に預けること)は仁和寺(にんなじ)が慣例だったのを、あえて破って慈円が門跡をしている青蓮院に入室させたこと
これらの後鳥羽院の行動は、一人の愛妾の死を悼むということにとどまらず、尾張局の本来の出自に対する配慮を示しているのではないでしょうか。
式子内親王に対して
後鳥羽院が、式子内親王と関わりを持つのは、和歌に由来することからではありません。まだ天皇在位中の建久9年(1198)1月9日、土御門天皇への譲位のために、式子内親王の大炊御門殿へ移御(いぎょ、天皇、皇后、上皇などが他所へ移ること)したことに始まります。式子内親王は以前に住んでいた藤原経房の吉田亭に移り、大炊御門殿は一時的に(3ヶ月半)19歳の後鳥羽院の御所となりましたが、それまで後鳥羽院と式子内親王に何らかの交流があった形跡はないようです。その後、正治元年(1199)か正治2年(1200)の3月20日頃に、後鳥羽院は蹴鞠(けまり)をするために、「にわかに御幸(ごこう、上皇、女院などが外出すること)侍(はべ)りし(源家長日記)」とあり、晩春の一日を大炊御門殿の庭で、蹴鞠に興じています。
正治2年7月には、後鳥羽院の百首歌の詠進の命を受け、式子内親王も9月頃には詠出歌を完成させたと思われます。サロンを持つことのなかった式子内親王は、歌合(うたあわせ)の主催者にも出席者にもならず、歌人同士の交流もほとんどなかったでしょうから、千載集以来、およそ20年ぶりに公けに歌を発表する機会が与えられたわけです。
続く正治2年10月、東宮(後鳥羽院の第三皇子、守成親王。後の順徳天皇)を猶子として迎える話が進み、大炊御門殿の補修が始まります。もし、実現すれば、式子内親王は守成親王の准母(じゅんぼ、天皇の母と同じ地位を与えられた女性)となり、女院宣下の道が開けるはずでした。しかし、翌年1月25日に式子内親王は病気のために亡くなります。
このように、建久9年(1198)から正治2年(1200)にかけて、式子内親王には思いがけない後鳥羽院の引き立てがありました。式子内親王に歌人としての晩年の開花をもたらし、呪詛事件や託宣事件、洛外追放処分など数々の不祥事からの、内親王としての名誉の挽回にも手を貸そうとしていました。後鳥羽院の厚意が、伯母である式子内親王への配慮や、歌人としての式子内親王への敬意からだけではなく、何か他の理由があったかどうかをこれ以上探ることはできませんが、少なくとも晩年の式子内親王の数少ない、しかも強力な支援者の一人であったのは事実です。
式子・in・Wonderland
見わたせばこのもかのもにかけてけり
まだぬきうすき春の衣を
前斎院御百首
このもかのもは、此の面、彼の面、でこちらの野山、あちらの野山のような意味です。そこに霞(かすみ)がかかっているのを、春の衣にたとえています。
掛けたのは誰かというと、春の女神である佐保姫(さほひめ)です。奈良時代に平城京の東にある佐保山の神霊である佐保姫が、五行思想(ごぎょうしそう、古代中国で生まれた自然哲学で、万物は木、火、土、金、水の5要素から構成されていると捉える思想)の影響で、春の女神とされたと言われています。西にある龍田山の神霊の龍田姫が秋の女神で、夏の女神は筒姫、冬の女神は宇津田姫だそうです。
佐保姫は年若い女神で、薄絹のような衣をまとっているとされていました。「まだぬき(横糸)薄き」は、まだ少女のように若い女神の、薄絹のヴェールのような霞の衣のさまを表現しています。カ行の音が多用されているのが、女神の若々しさを感じさせます。その女神が霞の衣を織ってあちこちに掛けている、とイメージしたところが、この歌のおもしろさでしょう。
本歌は、在原行平(ありわらのゆきひら、業平の異母兄)の「春のきる霞の衣ぬきをうすみ 山かぜにこそみだるべらなれ」(古今集)です。春の女神が着る霞の衣は、とても薄くて弱いので、山風によって、あっという間に乱れて破れてしまいそうです、が表向きの解釈でしょう。
はる(張る)きる(裁る、着る)ぬき(脱ぎ)なれ(慣れ、萎れ)と衣の縁語、掛けことばを並べて、修辞を駆使しながらも、さりげなくなだらかに詠んでいますが、女神の衣が乱れて破れてしまったら、という、エロティックな想像を呼ぶ隠喩も隠されていそうです。
式子内親王と同時代の後鳥羽院の和歌も挙げておきましょう。「佐保姫の霞の衣ぬきをうすみ 花の錦をたちや重ねむ」(春の女神、佐保姫の霞の衣は、横糸が少なくて薄織りなので、さまざまな花で織った絹の布を裁って、重ねて着ようとしているのだろうか。それで、春にはたくさんの花を咲かせるのだろうよ。)