式子内親王と慈円の恋 10

顕清女が尾張局として出仕する


 顕清女が、後鳥羽院の皇子を産んだのは、元久元年(1204)7月のことです。承安4年(1174)に誕生した顕清女は、いつどのようにして、後鳥羽院に仕えたのでしょうか。当時は、宮仕えする女性は、10歳から13歳くらいの間に初出仕することもあったようです。

顕清女(尾張局)の年表
承安4年(1174) 
 誕生、日野顕清の娘として養育される
治承4年(1180)  
 尊成(たかなり)親王誕生(後の後鳥羽天皇)
寿永2年(1183)  
 尊成親王、天皇践祚(せんそ)4歳
元暦元年(1184)  
 尊成親王、即位(後鳥羽天皇)5歳
元暦元年(1184)  
 顕清女11歳 この頃、尾張局として初出仕か
文治4年(1188)  
 顕清女15歳
建久元年(1190) 
 後鳥羽天皇元服、11歳
建久6年(1195)  
 後鳥羽天皇第一皇女、昇子内親王誕生
 (母は九条兼実女、任子)
建久7年(1196)
 後鳥羽天皇第一皇子、為仁誕生
 (後の土御門天皇、母は源通親養女、在子)
建久8年(1197) 
 後鳥羽天皇第三皇子、守成誕生
 (後の順徳天皇、母は高倉範季女、重子)
建久9年(1198)  
 後鳥羽天皇譲位、後鳥羽院となる19歳             
建仁元年(1201)  
 式子内親王、死去53歳
元久元年(1204)  
 後鳥羽院皇子(朝仁)誕生
 母顕清女(尾張局)産褥で死去31歳
 

顕清女(尾張局)の出仕先は七条院か


 この時代に尾張局(おわりのつぼね)と呼ばれた女性はたくさんいます。皇嘉門院尾張、殷富門院尾張、承明門院尾張、建春門院尾張、等が存在していますが、いずれも年齢的、経歴的に該当する人物はいません。後鳥羽院の後宮に入る前の、まだ無名の少女時代を尾張局として送っていた顕清女を探すのは、難しいことでした。

 しかし、もしかしたらこの娘ではないかという史料があります。建長6年(1254)に伊賀守、橘成季(たちばなのなりすえ)が編纂した説話集、古今著聞集(ここんちょもんじゅう)です。その巻16興言利口(きょうげんりこう)第25ー541に、七条院(しちじょういん)に仕えていた若い女房達のユーモアたっぷりの日常生活が描かれている一章があります。

 七条院は、後鳥羽天皇の母藤原殖子(しょくし)のことで、藤原信隆女(むすめ)、高倉天皇に仕えて、第三皇子守貞親王、第四皇子尊成親王(たかなりしんのう、後鳥羽天皇)を産み、建久元年(1190)女院宣下を受けて、七条院と呼ばれました。

古今著聞集541
 此(この)女院(にょいん)の女房どもの中に いとをかしき事おほく侍(はべり)けり 
医師時成が女(むすめ)備後(びんご)とて候(さぶらい)けり 仏師雲慶が女(むすめ)越前(えちぜん)とて候(さぶらい)けるが 或日越前ひたひに かさ(できもの)の出(いで)たりけるを 備後に向(むかい)て や おつぼね此(この)かさ見てたび候(そうら)へ さすが御身(おんみ)ぞ見しらせ給はんと いひたりけるを 備後とりもあへず見るままに みけむ(眉間)をいれたまへるを なにとかは し侍(はべる)べき とこたへ(答え)たりける こころのはやさ(速さ)をかしかりけり たがひにかくざれ(戯れ)あふ事をのみしける


この女院(七条院のこと。後鳥羽天皇母、藤原殖子)に仕える女房達の中には、なかなか面白い会話のやりとりが多かったのです。
 医師である和気時成(わけのときしげ、ときなり)の娘で備後という女房がおりました。仏師雲慶(うんけい、運慶のこと)の娘も越前という名で仕えておりましたが、ある日、この越前のひたいに吹き出物ができました。越前は、医者の娘である備後に向かって、「ね、お局(つぼね)様、この吹き出物をご覧になってくださいませ。さすがに見ればおわかりになられるでしょうね。(お医者様の娘でいらっしゃるのですから。)」と言ったそうです。備後は、どれどれと越前のひたいを観察しながら、「眉間(みけん、ここでは眉間白毫*のこと)をお入れなさったのですね、何も心配なさることも治療する必要もございません。(お父様が仏師だけに、素晴らしいことです。)」と答えたそうです。とっさに機転を利かせてうまい返事をしたもので、感心してしまいます。この女房達は、こんなふうにいつもふざけあってばかりいたということです。

*白毫(びゃくごう)とは、仏(如来、菩薩)のひたいにある白い巻毛のことで、ここから知恵の光を放つという。仏像彫刻では丸く盛り上がった形にしたり水晶などの宝石を象嵌(ぞうがん)して表される。


 蓮尊房は尾張局とて候ひけり 正月の朔日(ついたち)に時成がむすめに向(むかい)て あひがたきは友なり うしなひやすきは時なりと申(もうす)ことの候(そうろう)など とひたりければ 備後 孟春(もうしゅん)早(はや)来てたのしむべきは時成とぞし(知)りて候(そうろう)と こたへ(答え)けり これもいみじくいひて侍(はべり)にこそ
 尾張が咳病(がいびょう)をしてわづらひけるを 備後とぶらひとて なに(何)をやみ(病み)給(たまう)ぞといひたりける返事に 餓鬼病(がきびょう)をやみ候(そうろう)ぞとこたえ(答え)たりければ 備後さらばひんさうし(貧相子)を煎じてめせ(召せ)といひたりけり すべてかやうのこと葉(言葉)たたかひ(戦い)つねの事也(なり)


蓮尊房の娘は尾張局という名で仕えていました。尾張が正月の一日に時成の娘、備後に向かって「会いがたきは友なり、失いやすきは時なり(時成)*と申すことがありますよね。」と尋ねたところ、備後が「そうですか。私が知っているのは、お正月が早くもやってきて、まさに今こそ楽しむべき時なり(時成)*、というものですけどね。」と答えたそうです。これもうまく言い返したものです。
 また、尾張が咳(せき)の出る病気にかかって苦しんでいたことがあったのですが、備後がお見舞いと称してやって来て、「どうなさいましたか。何を病んでいらっしゃるのでしょう。」と問いかけますと、尾張が「餓鬼病(がきびょう)でございますよ。」(「咳病(がいびょう)ではなくてね。」)と答えたので、備後は「それならば、(餓鬼ならばさぞかし貧しそうな顔つきでしょうから)貧相子(ひんそうじ)を煎じてお飲みなさいませ。」(「咳病(がいびょう)ならば、檳榔子(びんろうじ、ヤシの一種である檳榔樹の実、漢方薬)ですけどね。」)と言ったそうです。
 万事この通りで、この女房達は会話のやりとりで、いかに気の利いたことを言って相手を打ち負かすか、いつも競っていたのです。


 *「会いがたきは友なり、失いやすきは時なり」
 室町時代に世阿弥によって作られた謡曲「西行桜」に、「惜しむべし、惜しむべし、得難きは時、逢い難きは友なるべし」というフレーズがあります。これより約200年前の、尾張局の居た平安時代末期にも、同様の成句が存在していたのでしょう。友のほうは出典がわかりませんが、時については、中国の前漢の時代に司馬遷(しばせん)によって編纂された史記の斉太公世家の巻に「吾れ(われ)聞くに時は得難く、失い易し(やすし)と。」とあり、後漢書には「得難くて失い易きは、時なり」の一文があるそうです。
*「孟春早来てたのしむべきは時成」
 万葉集巻十八4137に「正月(むつき)たつ春のはじめに斯く(かく)しつつ相(あい)し笑(え)みてば時じけめやも」があります。作者は大伴家持(おおとものやかもち)です。「正月がきて春となった始めに、親しい人々がこんなふうに集まって笑いながら楽しく過ごすならば、(正月が来たからといって歳をとらずに)いつまでも元気でいられるだろうよ」、旧仮名遣いでは濁音は表記されないので、「時じけ」は「ときしけ」、つまり「ときしげ=時成」で、ここに備後の父親の名前が隠されていることになります。平安時代には万葉集のこの和歌が漢詩風に作り替えられ親しまれていたと考えられますが、そうすると「時也(ときなり)=時成」で、やはりここにも父親の名前が隠れています。

 この女房達の年齢は、15歳前後と見受けられますが、古今著聞集にはいつ頃というような説明はありません。仮に、尾張局が顕清女であるとして、備後、越前、尾張の父親達の生年と没年を調べてみましょう。
 備後の父 和気時成  1159年~1219年
 越前の父 雲慶(運慶)1150年(推定)~1224年
 尾張の父 慈円    1155年~1225年

  
 父親達は1150年代の生まれで、娘達の年齢もだいたい近接していると考えてよいかと思います。顕清女が生まれたと考えられる1174年時に、和気時成は16歳、運慶は25歳、慈円は20歳で、この当時において、十分子どもの父親になる年齢をクリアしています。尾張が15歳だったのは1188年、文治4年ですから、治承寿永の乱が平氏の敗北によって終結し、源頼朝が義経追討の宣旨を下すよう朝廷に要請していた頃です。古今著聞集の興言利口25ー541「この女院の女房どもの中に、~」の章は、この時代の七条院の邸内の女房達の様子を伝えているのではないでしょうか。

 ちなみに、和気時成は、定家や定家の家族の病気の治療をしたこと、晩年の式子内親王の侍医の一人として診察にあたったことが、「明月記」に記されています。

 尾張が蓮尊房(れんそんぼう)という僧の娘であるという点ですが、顕清が蓮尊房を名乗っていたかどうかはわかりません。○○房というのは僧房(宿所)の名前ですが、顕清の房の名前は残されていないからです。
 似たような房名を持っているのは、経房の妻の兄、平親範(たいらのちかのり)です。承安4年(1174)に出家して相蓮房(そうれんぼう)円智と名乗っています。平親範は経房の5歳年長で、最終官位は経房と同じ民部卿、経房はこの義兄を慕っていたようで、たびたび訪問しては世事公事を談じあるいは意見を求めています。親範は、経房にとってだけでなく顕清にとっても義兄にあたります。


 
🔹顕清系図 

蓮尊房とは、誰か

 顕清女は、後鳥羽天皇母の七条院に初出仕した際に、養父顕清の義兄である平親範(相蓮房)の猶子(ゆうし、養子よりも緩やかな親子関係)となったのではないだろうか、というのが私の推測です。なぜなら、父にあたる顕清は身分が高いとはいえない一介(いっかい)の僧侶にすぎず、世間的な認知度が低いために、天皇の母である七条院への出仕はかなわなかったはずだからです。
 正三位、民部卿として公卿(くぎょう、大臣または三位以上の高官)の仲間入りを果たし、その後、出家して引退した平親範ならば、その経歴に何の不足もありません。経房は、顕清女の出仕にあたり、敬愛する義兄相蓮房(そうれんぼう)の娘という形式を整えたとも考えられます。

 
 耳で聞いた「そうれんぼう」が、伝言ゲームのようにいつの間にか「そんれんぼう」になり、そのうち「れんそんぼう」になって、しまいには漢字の「蓮尊房」が充てられて説話集に採録された、そんなこともあるかもしれません。

 そうであるなら、尾張局は、後鳥羽院が幼児であった頃から慣れ親しんでいた、大変古くからの女房ということになります。尾張局が七条院を経て、ある時期に、成人した息子の後鳥羽院へと出仕替えしたとしても、そうした動き方というのはよくあることで、不自然なことではありません。
 尾張局が、亡くなる前後の頃に初めてその存在が世間的に認識され、顕清女であること、後鳥羽院がなかなか里下がりを許さなかったこと、皇子を出産したこと、などが明かされ語られるようになったのは、尾張局が、七条院や後鳥羽院御所の奥深くに仕えていて、外部との接触があまりなかったためと推測されます。

七条院に仕えた女房達

 備後、越前、尾張などの呼び名は、女房の名としてよく使われた国名(くにな)と言われるもので、七条院においても時代によって同じ名の女房達が存在しました。

 例えば、七条院越前としてよく知られているのは、女房三十六歌仙の一人で、伊勢神官、大中臣公親(おおなかとみのきんちか)*の娘とされている女性で、後鳥羽院歌壇で活躍しました。正治2年(1200)頃に成立した三百六十番歌合では「越前 院女房」名で選入されているので、七条院から後鳥羽院へと出仕替えしていることがわかります。彼女はこの後、後鳥羽院皇女の嘉陽門院(かようもんいん)に仕え、最後は宝治元年(1247)の後嵯峨院主催の院御歌合にも出詠し、定家の息子である藤原為家と組み合わせられて、歌の勝敗を競っています。
*公親は大中臣公隆(1086~1150)の兄と考えられていますが、後述するように1180年生まれの娘をもつのは年齢的に不可能なので、あるいは、祖父かもしれません。

 和歌の才能を見出されて、後鳥羽院女房に取り立てられた越前ですが、正治2年(1200)に仮に20歳とすると、宝治元年(1247)には67歳です。おそらく生年は1180年頃、初出仕が15歳とすると、その年は1195年、建久6年になります。先ほどの古今著聞集の七条院の女房達の話は1188年、文治4年の頃と見ましたから、運慶の娘*が越前として七条院に仕えた時期と、歌人七条院越前が七条院に仕えた時期は重ならないことになります。

 *運慶には、如意(にょい)という名の娘がいたことがわかっています。「仏師運慶自筆置文」というものが残っていて、この如意が、正治元年(1199)に養母の冷泉(藤原雅長女の七条院冷泉か)から、近江国香之庄(こうのしょう)を伝領したことを、運慶が保証しているのです。如意は、如意輪観音(にょいりんかんのん)の2字をもらったものと思われるので、正治元年にはすでに出家していたのかもしれません。

 また、七条院には、尾張と呼ばれた別の女房も存在しました。雅楽師藤原孝道(1166~1237)の次女、尾張(すぢ御前、水落ちの尼連寿)です。長女は讃岐という名で二人とも七条院に仕えました。讃岐は箏(そう、こと)、尾張は琵琶(びわ)の名手です。
 この姉妹は、承久(1219~1222)年間に、後鳥羽上皇の兄守貞親王(後高倉院)に請われて、七条院から後高倉院に移り仕えました。さらにこの孝道女の尾張は、承久の乱後、守貞親王の子の後堀河天皇の内侍(ないし)として天皇に仕えています。

 孝道女の尾張の生年は伝わっていませんが、同母弟の藤原孝時の生年を岩佐美代子氏が推測しています。岩佐氏校注の「文机談」(ぶんきだん)*によれば、文治建久の交(1189~1190)であろうということです。
*文永九年(1272)頃、成立。藤原孝時に琵琶を師事した僧隆円によって書かれた、琵琶の伝来、相承、など400年にわたる楽人達の歴史物語の書。

 そこから推測すると、孝道の娘達である讃岐、尾張の生年は1180年から1187年頃と考えてよさそうです。七条院への初出仕は、姉妹が15歳となる1195年から1202年の間くらいでしょう。仮に妹の尾張が七条院に出仕した時期を1198年とすると、下図のようになります。 
 

 

◇同じ名を名乗った複数の女房

 これまで長々と説明してきたのは、すでに活動している年代がわかっている藤原孝道の娘である尾張局や、大中臣公親の娘とされる七条院越前の出仕期間を探ることで、逆に古今著聞集の尾張や越前、備後が七条院に仕えていた時期があぶりだされてくるのではないかという理由からです。
 
 上の表を見ると、孝道女尾張と公親女越前という二人の女房が、建久6年(1195)から承久3年(1221)にかけて七条院に仕えているのは、ほぼ確実です。ですから、古今著聞集の説話は、それ以外の建久6年(1195)以前か、承久3年(1221)以後のことでなければなりません。しかし、承久3年(1221)は、後鳥羽院が承久の乱を起こした年です。承久の乱後、後鳥羽院と二人の皇子、そして土御門院、順徳院も配流され、順徳院の息子の仲恭天皇も廃位となりました。そうした波乱の時代に、七条院もまた、母、祖母、曾祖母として悲劇の渦中にあったわけですから、古今著聞集の興言利口(きょうげんりこう)に登場する七条院の女房達の話などは、とても考えることができません。
 やはり、この説話は建久6年(1195)以前の、七条院(藤原殖子)が女院宣下を受ける前後の全盛期だった頃の話であると思われます。その古今著聞集の中の尾張は、孝道女尾張と入れ替わるように七条院から消えたのですが、退出したのではなく後鳥羽院尾張局として後鳥羽院の御所に移っていった顕清女ではなかったでしょうか。

 古今著聞集の説話に登場する七条院の女房達の一人が、顕清女(尾張局)であるかどうかを、これ以上探ることはできません。しかし、鎌倉幕府成立前夜の騒然とした時代に、七条院という庇護下で、若い女房達が機転を利かせた会話に興じている情景の中に、思いがけず顕清女(尾張局)であるかもしれない人物を垣間見たこと、そしてその女の子が思いのほか快活でひょうきんな娘だったのは、なかなか楽しいことでした。



 

式子・in・Wonderland


 花ならで又なぐさむるかたもがな
        つれなく散るをつれなくて見む
                前斎院御百首

 桜の花以外にも、他に心が慰められるものがあるとよいのに。そうすれば、花びらがむなしく散ってゆくのを見て、ああ惜しいとも残念だとも思わず、ただ、散ってゆくさまを心静かに見送ろうものを。
 
 式子内親王には、晩年の正治百首の中に、これと同様の趣向の和歌がもう一つあります。

 ながめ侘(わ)びぬ秋より外(ほか)の宿もがな
           野にも山にも月やすむらむ
 
 月を眺めて物思いにふけっているうちに、すっかり淋しく悲しい気持ちにとらわれてしまった。秋以外の季節の場所が、どこかにあればよいのに。いや、野にも山にも、どこに行っても、ここと同じように秋の月が住んでいて、その澄んだ光で人に物思いをさせているのだろう。


 「又なぐさむるかた」も「秋より外の宿」も本当はどこかにあるのではないか、という予感、花が散る風景を、哀惜の思いなしには見れないことへの不本意さ、澄んだ月の光が自分の心の底までも照らし出し、仏教的な諦観に連れ去られそうになる危うさ。
 伝統的な和歌の美意識に沿いながらも、式子内親王が自身の内面から拾い上げてくる自由な感性の数々は、その内省の深さと明晰さを示しているものであろうと思います。