式子内親王と慈円の恋 4

逢ふ日

 式子内親王が斎院を降りてから何年か後のことです。賀茂祭(4月の吉日、第二の酉の日)に先立って行なわれる御阿礼神事(みあれのしんじ、古来からの神迎え)の日に、ある人が式子内親王に二葉葵(フタバアオイ)を献上しました。そのことが千載集に載っています。

 賀茂のいつきおりたまひてのち、まつりのみあれの日人のあふひをたてまつりて侍(はべり)けるに、かきつけられて侍ける
 神山のふもとになれしあふひぐさ
     ひきわかれてもとしぞへにける
             式子内親王

 斎院として神山のふもとの二葉葵に慣れ親しんだ日々も過ぎ去りました。葵の葉とお別れしてから、ずいぶん歳月が経ってしまいましたね。

 神山(かみやま、現在はこうやま)
賀茂別雷神社(上賀茂神社)の本殿の背後にある標高301mのなだらかな山で、御神体。主祭神の賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)が神武天皇の御代に賀茂山(神山)のふもとに降臨したという社伝がある。


 ❀あふひ
賀茂別雷神社の御神紋である二葉葵(フタバアオイ)のこと。神山のふもとに群生している。賀茂祭は別名葵祭と呼ばれるように、社殿や行列の人々、牛や牛車も、葵の葉で飾られる。平安時代には、通りの家々の格子や若者たちの衣装なども、思い思いに葵の葉で飾られ祭に彩りを添えた。

 二葉葵だけを贈って和歌が添えられていないということは、当時の貴族の習慣としては考えられません。この式子内親王の和歌は、贈答歌の返歌です。しかし、贈った人が誰であるかは伏せられ、添えられていた和歌も、一対になるはずの贈答歌としての収録はなされませんでした。
 「人のあふひをたてまつりて」、この「人」が慈円かもしれません。慈円の私家集である拾玉集(しゅうぎょくしゅう)第一帖、御裳濯(みもすそ)百首(文治4年、1188)の夏十首の中に、「あふひ」の歌があります。式子内親王の歌と並べてみましょう。

 宮居(みやゐ)せしむかしにかかる心かな
      そのかみ山のあふひならねど
                   慈円

 賀茂の神が、この京に降臨されて社(やしろ)に鎮座なさった昔のことが思われるように、あなたと昔逢っていた日々のことが思い出されます。その昔の神山のあふひ(葵)ではありませんが、今また、あなたとあふひ(逢う日)というものが巡ってくるならば、お逢いしたいものです。

      返し
 神山のふもとになれしあふひぐさ
      ひきわかれてもとしぞへにける
               式子内親王

 長年、斎院として神山のふもとのあふひ(葵)と慣れ親しんできたように、その昔はあなたと親しくお逢いしましたね。でも、あれからわたしたちは離れ離れになって、ずいぶん時が経ってしまったのですよ。ですから、もうあなたとあふひ(逢う日)というものは巡ってこないと思います。
 

 こんなふうになります。いかがでしょうか。こうして贈答歌として解釈すると、一首ずつ鑑賞するよりも、何倍も歌が生き生きとした意味をもってくると思います。

撰者、藤原俊成の意図

 千載集は、藤原俊成が撰者となった勅撰和歌集(天皇や上皇の勅命によって編纂された和歌集)です。俊成は式子内親王の和歌の師匠でもありました。千載集を作るために集められた多くの私家集、草稿の中には、弟子である式子内親王の和歌も入っていました。贈答歌であれば、もう一方の歌を明らかにすることは、俊成にとって容易なことだったはずです。それが収められていないということは、何かしら理由があったと考えられます。例えば、不都合な恋の贈答である場合です。


 当時の決まり事として、内親王は臣下と結婚することはできませんでした。内親王の子孫から皇室の血統が拡がるのを防ぐためです。では、皇族の男子との結婚はどうかというと、皇位を継承する皇子以外は僧侶になるのが一般的でしたから、内親王が夫となる相手を探すのは難しいことでした。それを逆に利用して、独身の内親王は皇室領の広大な荘園群の相続人という役割を持つこともありました。子孫ができないので、所領の分散がないからです。

 そうはいっても、内親王をめぐる恋はたびたび世の中を騒がせ、事件となりました。よく知られているのは、平安時代初期の在原業平(ありわらのなりひら)と第31代伊勢斎宮、恬子(てんし、やすこ)内親王の斎宮任期中の密通事件です。その後、業平という名前は明記しないまま、業平を想定した一連の歌物語として書かれた「伊勢物語」の中で、この出来事が二人が詠んだ相聞歌(そうもんか、恋人同士で詠み交わされた歌)と共に語られ、また勅撰集である古今和歌集の恋の部にも、恬子内親王の名は「よみびと知らず」としたうえで、二人の相聞が収録されています。日本には「いろごのみ」は貴公子の理想的な条件であるという捉え方が伝統的にありますから、斎院や斎宮との道ならぬ恋も、和歌や物語世界の中ではむしろ王朝の雅(みやび)として受け入れられてきたのです。
 

 俊成が勅撰和歌集の撰者として、千載集の中に内親王の相聞歌を入集させたいという意図を持ったとしても不思議なことではありません。しかし、古今和歌集の場合は編纂が完成したとみられる延喜10年(910年)には、在原業平は没後30年を経過していました。業平と恬子内親王の相聞歌が古今和歌集に収められても、直接的に影響をこうむる関係者はほとんどいなかったと思われます。一方、慈円と式子内親王の場合は、慈円は34歳、式子内親王は40歳と壮年期であり、父親の後白河法皇も存命中で、しかも後白河法皇は千載集の編纂を俊成に命じたまさにその人ですから、事情は簡単ではありません。俊成がとった方法は、恋の部ではなく夏の部での収録、「人のあふひをたてまつりて」とあえて匿名にしながらも相聞歌である含みを持たせた詞書き、返しの歌だけの収録という手の込んだものでした。

空白の20年の間に何があったのか

 慈円の「あふひ」の和歌は、西行の勧めによって、伊勢神宮に奉納するために慈円が詠んだ御裳濯(みもすそ)百首の中の夏十首の一つです。御裳濯百首のあとがきには文治4年(1188)秋頃に詠んだとあります。もし、これが式子内親王への贈答歌であるなら、千載集が編纂をほぼ完了する文治3年(1187)10月以前*に詠まれていなければなりません。とすると、慈円の「あふひ」の歌は御裳濯百首が完成する前年の夏、文治3年(1187)4月に詠まれて、千載集から落選したものが慈円本人によって御裳濯百首に入れられたと考えると、整合性が出てきそうです。
(*和泉書院 「千載集:上條彰次校注」の解題を参考にしています。)

 あの唐崎の祓えから20年近い歳月が流れています。33歳の慈円は逢いたいと言い39歳の式子内親王は拒んでいます。和歌で「逢ふ」という語は、たいてい男女の関係を結ぶという意味で使われます。社交辞令や挨拶のような軽いやりとりの場合もありますが、この二つの和歌からは、そうしたものは感じ取れず、むしろ思いつめたような慈円と、思いを捨てようとする式子内親王の気持ちが伝わってきます。「そのかみ」(その昔)は、幼年時代のことではなく、式子内親王が斎院を退下してからの二人が若かった頃のことを言っているのではないでしょうか。「ひきわかれても」からは、無理やり引き離された、というようなニュアンスを感じます。

式子・in・Wonderland

 春くれば心もとけてあは雪の
      あはれふりゆく身をしらぬかな
                前斎院御百首
 「あは雪」と「あはれ」が韻を踏んでいます。「ふり」が降りと古り(ふり、古くなる、歳をとる)の掛詞(かけことば)です。「心もとけて」は、冬の間に凍りついてしまった自分の心も春風によって溶け、やわらかく華やいできた、ということでしょう。
 二条のきさきの春のはじめの御うた
 雪のうちに春はきにけり 鶯(うぐいす)の
      こほれる涙いまやとくらん
 これは、古今集の巻一、春歌の第4番目に登場する藤原高子(ふじわらのたかいこ)の歌です。清和天皇の女御となり、陽成天皇の母としてのちに皇太后の称号を与えられました。通称二条后(にじょうのきさき)と呼ばれましたが、入内(じゅだい、正式に天皇と結婚するために内裏に入ること)する前に、在原業平と恋愛関係にあったということです。高子が18歳、業平が35歳の頃です。二人の駆け落ちにまで発展した恋の話は、業平の歌と共に伊勢物語で詳しく語られています。有名な、「月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして」は、業平が入内した高子のことを思って詠んだ歌だそうです。
 式子内親王は高子のこの歌を、本歌(ほんか、先人の和歌の文脈や情趣をもとに、和歌などを作ったときの、もとうた)としたのかもしれません。立春が過ぎてから降った春のあわ雪に、ほぐれていく心情と、官能的な余韻がどちらにも共通しているように思います。