式子内親王と慈円の恋 3

志賀の波路に袖ぞ濡れにし

 唐崎の祓えは、28代斎院の統子内親王(式子内親王の叔母)の例を見ると、退下の2年後に行なわれています。式子内親王も斎院を退下した嘉応元年(1169)7月26日からおよそ2年後ぐらいまでには、唐崎の祓えを行なったと考えられます。後白河院の命により、藤原俊成(しゅんぜい)の撰で文治4年(1188)に完成した千載和歌集(せんざいわかしゅう)に、この時の式子内親王の歌が収められています。

 賀茂のいつきかはり給(たまひ)てのち、辛崎(からさき)のはらへ侍(はべり)ける又の日、さうりんじの御子のもとより、きのふはなに事かなど侍けるへんじに、つかはされ侍ける

 みたらしやかげたえはつる心地して
     しがのなみぢにそでぞぬれにし

御手洗川(みたらしがわ)での禊(みそぎ)でいつも水に映っていたわたしの姿、わたしという小さな存在が、消えてしまうような気がして、思わず涙がこぼれてしまいました。まるで志賀の唐崎の浜辺に打ち寄せる波に、袖を濡らしてしまったかのように。

 先に述べたように、賀茂御祖神社の唐崎社であるとすれば、実際は鴨川の川波なのですが、川の向こうのはるか東にある志賀の唐崎を遥拝しているので、「しがのなみぢ」と技巧的に表現したのでしょう。また、「みたらし」と「しが」はどちらも禊や祓いの場であるという意味で、縁語としても使われていると思います。滋賀県の唐崎神社では毎年7月28日にみたらし祭が行なわれます。これは、旧暦6月30日に夏越の祓え(なごしのはらえ)として、半年間の心身の穢れを落としこれからの半年の息災を祈る行事が今も続いているものです。御手洗(みたらし)は、神に参拝する前に水で手や足を清めるという意味合いで、その浄め(きよめ)の川が御手洗川と呼ばれますが、中でも有名なのが、賀茂御祖神社(下鴨神社)の御手洗川です。


 「かげたえはつる心地」がしたのは、これから自分はどうなっていくのかという不安と、孤独感のためだったでしょう。平氏と協調することによって治天の君となった、父後白河院への複雑な思いや、祖父季成の死と叔父公光の失脚による実家の衰退、弟以仁王が皇位をめぐって起こしている不穏な動向の行方など、式子内親王が自らの無力さと、これからの自分の運命を悲観的に思い定める要因はいろいろありました。また、当時の内親王は、少数の例外を除いて不婚であることが慣例になっていました。さらに、神に仕えた斎王は、退下してからも清浄を保つことが一般的に要請される時代でした。恋も結婚も禁じられていることに対する悲しみもあったことでしょう。それらが、退下の儀式の緊張感の中で、混然一体となって若い式子内親王の胸の内に押し寄せ、思わず涙があふれたのかもしれません。

葵祭、斎王代御禊の儀

 斎王の禊や祓えがどのようなものであったのかは、現代の葵祭(あおいまつり)で行なわれている斎王代の御禊の儀から、想像することができます。葵祭は、賀茂別雷神社と賀茂御祖神社の例祭である賀茂祭(かものまつり)のことで、平安時代には陰暦4月の中の酉の日に行なわれました。現在は5月15日に行なわれています。斎王の装束は五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)の上に小忌衣(おみごろも、白麻に山藍で草木や鳥の文様を描いた、神事に奉仕する者が着用する上着)をつけています。頭には白い組紐を結んで作った日蔭絲(ひかげのいと)を左右に垂らし、額には金枝と銀の梅花、そして櫛を挿します。禊(みそぎ)は、水辺にしつらえた板床に正座して、合わせた両手の先を静かに水に入れてそのまま1分ほど静止して、また静かに引き上げます。その後、小さな人形(ひとがた)に切った白い紙で着物の胸元を2,3度、穢れを祓うように撫で下ろして人形を水に流します。これが斎王の禊です。滝に打たれたり、海や川に半身浸(つ)かったりする禊しか知らない、現代の私達には、なかなか想像できない洗練された美しさ、奥ゆかしさが感じられます。

2008年の上賀茂神社における斎王代御禊の儀

双林寺の皇女(みこ)

 千載集に戻ります。唐崎の祓えの翌日、式子内親王に「きのうは、どうなさいましたか。」と手紙で尋ねてきた「さうりんじの御子」は、鳥羽上皇の皇女で阿夜御前(あやごぜん)と呼ばれた人です。母は紀光清(きのみつきよ)の娘美濃局(みののつぼね)です。同母兄に第六皇子の道恵法親王(どうえほっしんのう)、第七皇子の覚快法親王(かくかいほっしんのう)がいます。美濃局は、鳥羽上皇の中宮待賢門院のお気に入りの女房だったので、道恵法親王は待賢門院のもとで、覚快法親王は待賢門院の異母兄である藤原実行のもとで、育てられました。道恵法親王は、仁安3年(1168)に死去しています。
 阿夜御前は、兄の覚快法親王が長承3年(1134)生まれなので、仮に2歳下とすると、この時34歳ぐらいです。出家して、双林寺(雙林寺、そうりんじ、京都市東山区下河原鷲尾町)に隠棲していました。この鳥羽上皇の皇女が、姪にあたる式子内親王とどのような交流があったのか、あるいは初対面だったのかは、まったくわかりません。ただ、阿夜御前が皇女としての宿命を受け入れて早くに仏門に入ったのであろうことは、推測できます。退下の儀式の最中に起きた式子内親王の涙という小さな事件に、同じ運命に生きている年上の同性として他人事とは思えず、慰めの手紙を送らずにはいられなかったのかもしれません。

 式子内親王の退下の儀式に、皇族側の参列者として、他にも上西門院(統子内親王、母待賢門院)や八条院(暲子内親王、母美福門院)、高松院(姝子内親王、母美福門院)といった身分の高い伯母や叔母などが参列していたかどうか、といったことはわかっていません。ただ、千載集に、参列者として叔母である阿夜御前(母美濃局)の名が挙がっていることを見ると、後白河院の置かれた政治情勢の複雑さから、中立穏健で政治色や影響力の少ない皇族が選ばれたであろうことが推測されます。また、母方の実家の背後には、代々天皇家の外戚として大きな勢力を保持してきた閑院流の一族がいたのですが、この時ばかりは、永万元年(1165)に崩御した二条天皇の親政を支持して来た閑院流を、後白河院が許さなかったという経緯がありました。ですから、一般の参列者においても、失脚した後見人の藤原公光を始めとして一族の華やかな参列はなかったものと思われます。

覚快法親王と慈円

 この時の斎院別当は、源有房(みなもとのありふさ)です。有房の姉妹には、歌人として有名な堀河(ほりかわ)、兵衛(ひょうえ)、そして、大夫典侍(だいぶのすけ)がいましたが、皆、待賢門院の女房でした。有房は参列者の人選を、もちろん後白河院の裁可を得ながらでしょうが、式子内親王の祖母である今は亡き待賢門院の人脈に沿って進めたと思います。美濃局は姉妹たちの同僚ですし、その美濃局が産んだ子どもたちも姉妹にとっては親しい存在であったはずです。有房も姉妹たちを通じてこれらの皇子や皇女の幼少期を知っていたでしょう。そうであるなら、阿夜御前と共に兄の覚快法親王も一緒に招かれた可能性があるのではないでしょうか。 覚快法親王は、36歳、青蓮院(しょうれんいん、京都市東山区粟田口三条坊町)の門跡(もんぜき、皇族、公家が住職を務めること)でした。親王宣下(しんのうせんげ)を受けたのは嘉応2年(1170)なので、この時は法親王(ほっしんのう、男子皇族が出家した後、親王宣下を受けた場合の称号)となる直前の時期でした。青蓮院は、阿夜御前の住む双林寺からは、徒歩11分(850m)という近距離です。

双林寺と青蓮院

 この覚快法親王のもとでは、15歳の慈円が密教の教義を学んでいました。その頃は慈円ではなく、道快(どうかい)という名前でした。慈円と改名したのは、養和元年(1181)27歳の頃ではないかと言われています。仁安2年(1167)13歳で正式に出家し、覚快法親王から自分の住む白川房を譲られています。摂関家に生まれその高い身分から、将来は比叡山延暦寺の座主(ざす、天台宗最高位の僧)となって、宗教界の重鎮として活躍すること、また摂関家の庇護者たることをも、嘱望されていました。覚快法親王は、この重責を担った少年僧道快に最高水準の教育と待遇を与えていました。

 

 さて、これは想像ですが、覚快法親王が式子内親王の退下の儀式に参列した、そして御供の僧の一人として道快を伴っていったとしましょう。親代わりの覚快法親王が、道快の見聞を広めるため、あるいは俗界に対して道快を紹介するための好機会と考えたわけです。出家という道を定められ、ひたすら勉学と修行に明け暮れていた道快の目に、斎院の祓えの儀式は新鮮な感動をもって映ったことでしょう。と同時に、式子内親王が思わず見せた涙に、同情と運命の重さに対する深い共感を感じたのではないでしょうか。

 ❀神社の儀式に、僧や尼が参列することに、疑問を持たれる方もいるかもしれません。平安末期は、神仏習合が広く行なわれていて、下鴨神社にも神宮寺があったようです。ですから、この点は当時、問題のない行動だったと思われます。

阿夜御前相関図

式子 ・in・Wonderland

 色つぼむ梅の木の間の夕月夜(ゆうづくよ)
      春の光をみせそむるかな
                前斎院御百首
 
 若々しい明るさを感じさせる、耽美的な歌です。内省や屈託といったものはありません。梅を詠んだ歌は13首残されていますが、どれも皆、明るさや温かさが感じ取れます。桜がときとして、むなしさや嘆きとともに詠まれているのとは、対照的です。何か梅にまつわるよい思い出があったのか、あるいは、梅の花に誰かのイメージを託しているのかもしれません。
 夕月は、新月から10日目ぐらいまでの、三日月から上弦の月に至る間の月です。月の出が早いので昼間は見えず、夕方だけ西の空に見えて、夜になると沈んでしまいます。わずかの時間だけ、ほの明るい夕闇に浮かぶ繊細な月です。