式子内親王と慈円の恋 15

定家、慈円、そして式子 その3

式子内親王の”我がかねごと(約束)”とは何か

 (この章は、前回ブログ「定家、慈円、そして式子 その2」の続きとなります。)

321 はかなくぞ 知らぬ命を嘆きこし 我がかねごと(約束)のかかりける世に
 新古今和歌集では、この和歌の前に「戀(こい)歌とて」という詞書(ことばがき)が付けられています。

 ”かねごと”とは、かねてから(前もって)言い置くことで、約束のような意味合いです。「私が誓った約束を果たすために、いつまで続くかわからない命を抱(かか)えて、こうして生きてきたが、なんと心細く悲しいことだったろうか。」というふうに、この歌は受け取れます。
 では、「我がかねごと」とはどんな約束なのでしょうか。

 この歌と同様に制作年代がわからない335、そして式子内親王の百首歌の中では最も早い時期に詠まれた前斎院御百首の83、85も、「我がかねごと」と関連があると思われるので、もう一度ご覧ください。

335 君ゆゑ(え)といふ名はたてじ 消(きえ)はてん 夜半(よわ)の煙の末までも見よ
83  こひこひて よし見よ世にもあるべしと いひしにあらず君も聞くらん
85  こひこひて そなたになびく煙あらば いひし契(ちぎり)の果てとながめよ

 これらの3首は、「私は自分の恋を隠し通します、私が死ぬまでそれは変わりません。」ということを、恋の相手に向けて強く表明している歌です。さらに85では、自分の亡き骸(がら)を焼く火葬の煙が、言いし契りの果てである、つまりあなたと交わした約束の結末であると言っています。毅然(きぜん)とした態度と、誓いの緊迫感、それに加えて悲痛な心情も感じ取れるドラマティックな展開です。

 和歌の中の主人公が約束に関連して自分に課していると思われることは、次のようなものです。
1、恋の相手の名前を決して口外しないこと
2、この世では恋の成就(じょうじゅ)は、あり得ないこと
3、自分の死というものが、相手に対する答えであること

 321は、これらの歌と比べると、より内省的に自分を見つめ直しているようです。かねて言い置いた約束の重さに、長い年月耐えてきたこと、遂行できるかどうか今一つ確信が持てない覚束(おぼつか)なさ、それらを”はかなくぞ”という感慨を持って振り返っています。335、83、85 からいくらか時を置いての、主人公の心境のかすかな変化に、一抹(いちまつ)の迷い、あるいは「哀れさ」が見えるように思われます。この「哀れさ」については、次の章で述べることにします。


 生きている間は、恋は隠されたまま保留にされ、死によってようやく成就、あるいは解決を見る、という考え方は、死後の世界、あの世という観点があってこそ成立するものでしょう。この時代で言えば、仏教、なかでも浄土教の広まりによって、死後、阿弥陀如来がいるという極楽浄土に生まれ変わることが、人々の願いでした。そこは、楽しく美しい夢のような世界で、極楽往生をすることができた人々が蓮の花に囲まれて仏になる修行をする場所です。 
 「我がかねごと」が、この極楽浄土での恋人との再会を約束したものと考えたらどうでしょうか。「この世では結ばれないが、来世(らいせ)では極楽浄土の同じ蓮の台(うてな)に生まれ変わろう」という約束、つまり「のちの世の契り」ではないのかという推測です。
 

 浄土教とは、安元元年(1175)法然によって開かれた浄土宗や、法然の門弟である親鸞によって開かれた浄土真宗だけを指す言葉ではありません。日本における阿弥陀仏への信仰はもっと古く奈良時代から始まり、平安時代初頭には貴族を中心とした人々の心を捉えていました。阿弥陀仏のいる極楽浄土に往生することを願う浄土教を、日本で育(はぐく)んだのは、主に天台宗の僧侶たちでした。法然も親鸞も、最終的には天台宗と袖を分かったとはいえ、元来は天台宗の僧として、浄土教の教えを学び修行したのです。
 ですから、平安末期から鎌倉時代初期にかけての浄土教の広まりは、新しい法然の浄土宗に救いを求めた人々と、既成宗教である天台宗に脈々と伝えられた浄土教の支持者たちが、混在していたといえます。

 式子内親王が、果たしてどちら側に位置するのかも含めて、こうした仏教思想の観点から、式子内親王の忍ぶる恋の和歌群を、読み直すことによって、激情の歌人、情熱の歌人とのみ評価されることの多い式子内親王の、新たな一面を発見し、創作の経路を辿(たど)っていけるのではないかと思います。

藤原家隆

 ”我がかねごと”とは、「のちの世の契り」ではないのかと推測するにあたって、同時代の一人の歌人が、この式子内親王の和歌から何を感じとったかということが、一つの参考になるのではないかと考えまとめてみました。

 思ひ出でよ たがかねごとの末(すえ)ならん きのふの雲のあとの山風
藤原家隆(新古今和歌集1294)

 思い出すがいい。火葬の煙が、雲となってしばらくの間かかっていた昨夜の空。今日は、山風が跡形もなく吹き払ってしまったけれども、あの雲といい、今日の山風といい、いったい誰のどんな約束の最後の姿を見せているのだろうか。 

 これは、式子内親王の死後5ヶ月を経過した建仁元年(1201)6月に、後鳥羽院の主催によって行われた千五百番歌合に寄せて、藤原家隆が詠んだ和歌です。同じ”かねごと”という詞(ことば)を用いることによって、式子内親王の歌と呼応しているように感じ取れます。

 新古今和歌集の撰定にあたって、式子内親王の”かねごと”の歌を推挙したのは、5人の撰者(源通具、藤原有家、藤原定家、藤原家隆、藤原雅経)のうち、藤原家隆だけでした。また、推挙というのとはニュアンスが違いますが、撰定という形で後鳥羽院もこの歌を支持しています。

 千五百番歌合の百首歌提出が建仁元年(1201)6月、新古今和歌集の撰定作業が始まるのが建仁元年11月です。そうすると、家隆は、新古今和歌集の撰定作業が始まる前から、この式子内親王の歌を知っていたとしなければなりません。
 ところで、当ブログの11章2-1で触れたように、家隆と式子内親王の間には定家を仲介役とした間接的な和歌の交流があったと考えられます。家隆の、文治3年(1187)11月の閑居百首、建久9年(1198)夏の御室(おむろ)五十首には、式子内親王の和歌との相互の影響関係が見て取れる和歌が存在しているからです。
 そして、文治3年といえば、前斎院御百首がまとめられたと考えられる時期で、ここには、前述の8385が収(おさ)められています。内容がそれらと近似している335も、制作年代が不明ですが、やはり同じ時期に前後して詠まれた歌である可能性が大きいと推測されます。
 家隆は、前斎院御百首の時代から式子内親王と和歌を通じて間接的ながら交流があったのですから、当然これらの歌も目にしていたはずです。そして、作品を通して式子内親王の人生観や美意識にも触れ、作品の背後にある仏教思想の影響と問題意識も鋭敏に読み取っていたに違いありません。
 ちなみに、文治3年に家隆は30歳、式子内親王は39歳、定家は26歳でした。(年齢は数え年です。) 

 家隆は晩年79歳で出家しましたが、摂津国(せっつのくに。現在の大阪府の北西部と兵庫県の東部)四天王寺(当時は天台宗の寺だった。現在は和宗)に移り、その西側に庵を結んで浄土教の修行である日想観(西の空に沈む夕陽に極楽浄土を重ねて眺めながら、瞑想すること)を日々行ったということです。彼の心の中にいつから浄土教の信仰が根差していたのかは不明ですが、文治3年(1187)の頃に既にその萌芽があったとすれば、式子内親王の和歌に対する共感、あるいはそれに近い心情があったことも、十分考えられます。 

 式子内親王の死は、新しい勅撰和歌集(新古今和歌集)の編纂(へんさん)という時代の流れの中で、沸き立っていた歌人たち、とりわけ俊成、定家をはじめとする御子左家に近しい人々にとって大きな出来事だったことでしょう。しかし、亡くなった式子内親王への哀悼歌(あいとうか、死者を悼む歌)として発表されたものは、残念ながら見つけることができません。高貴な身分の未婚の女性に対して、男性の歌人が哀悼歌を詠むということは、もしかしたらタブーだったのかもしれません。また、式子内親王の身辺近くに長年仕えていた俊成の娘たちも、哀悼歌を詠んでもおかしくない女房という立場にありましたが、彼女たちの歌も伝わってはいないのです。

 そうした中で、この家隆の歌は数少ない式子内親王に捧げた哀悼歌のひとつとしてよいのではないかと私は思っています。
 

西行からの引用

 家隆の歌に詠みこまれているのは、式子内親王の”かねごと”ばかりではありません。”思い出でよ“ が、西行の次の歌からの引用です。

 いまぞしる 思ひ出でよと契りしは 忘れんとてのなさけなりけり
          西行法師(山家集685 新古今和歌集1298)
 今になってやっとわかった。あの人が「いつか思い出してくださいね*」と言って一夜の契りを結んだのは、「はかない恋に執着するのは、もうこれで終わりにして、忘れてしまいましょう。」という、別れを促(うなが)す気持ちからのことだったのだと。
 *思い出すためには、まず忘れなければならないのだから、という含みがある。

 参考までに、慈円にも、西行の"思ひ出でよ″を踏まえた歌があります。慈円が20代前半の頃の歌です。

 いかにせむ 思ひ出でよといひおきて たちはなるべき人だにもがな
          慈円(拾玉集160)
 どうしたらよいというのか(恋への執着を手放すことができない)。「いつか思い出すがよい」と言い置いて、立ち去っていくような恋人でもいてくれたらよいのに。(そんなふうに愛想尽かしをされたら、いっそのこと、あきらめもつくだろうに)

 西行や慈円が、”思い出でよ” という恋人からのつれない仕打ちとも思える一言(ひとこと)に、何を聞き取っているのかというと、自分では消すことができない煩悩の火、欲望への執着、から離れるきっかけです。この言葉は、「この世の執着を捨てて浄土を目指す道を歩き始めよ、」と自分を促(うなが)す仏の教えにもかなうものではないのか、と彼らは考えました。
 報われない恋、運命を恨まなければならないような恋に、苦しめば苦しむほど、この世を厭(いと)う気持ちが高まり、逆に浄土への憧れをいっそう高めて極楽往生を求める機縁になっていくのではないか、恋はそのような仕方で浄土への橋渡し役となるだろうという考えを、彼らは示しているのです。

 "思い出でよ"の詞(ことば)には、仏教思想と結びついた、当時の、こうした恋愛観が込められています。
 和歌の世界に起こったこの仏教的な文脈と、式子内親王の ”我がかねごと” にある、「二人が極楽浄土に往生して、再び出逢うために、私は死ななければならない」という決意には、共通の来世(らいせ)観があります。
 そして、忘れることによって思い出す、別れることによって出会う、という奇跡を実現させるために、式子内親王の作中人物は、この世での生き方、価値観、を捨てて、信仰という異次元の世界に足を踏み入れようとしているのでした。
 

 報われない恋の痛みを抱(かか)えながら、生涯、歌を詠み続けた僧、西行が、恋人から受けた痛恨の台詞(セリフ)を、藤原家隆は初句に響かせています。西行の恋の相手は待賢門院(鳥羽天皇皇后)だったという噂は、この時代にすでに世間では囁(ささや)かれていたことでしょう。”思い出でよ” は、待賢門院から西行に向けて放たれた言葉だったのかもしれません。式子内親王は、その待賢門院の孫娘です。家隆は、忍ぶる恋の歌を詠み続け浄土を願った式子内親王に、まるで彼女自身の遺言(ゆいごん)であるかのように、待賢門院の”思い出でよ”という言葉を捧げているのではないでしょうか。
 
 そうすると、家隆の歌は次のように解釈しなければなりません。

 思ひ出でよ たがかねごとの末(すえ)ならん きのふの雲のあとの山風
藤原家隆

 昨夜の火葬の煙は、しばらくの間、雲のように空にかかっていた。今日は、雲が跡形もなく消えて、山風が吹いている。「いつか思い出すがよい。(私のことは忘れよ、ひたすら浄土を目指すがよい)」とでも言うように。あれは、誰が誓った約束の名残(なごり)なのだろうか。(あの人の、後の世で再び巡り合おうという約束の名残(なごり)なのだ)