式子内親王と慈円の恋 14

定家、慈円、そして式子 その2

式子内親王の出家

 式子内親王は、文治6年(建久元年、1190)1月3日まで、八条院殿に八条院と共に住んでいたことがわかっています。藤原(三条)公房の日記、愚昧記(ぐまいき)に、公房(きんふさ)が正月の拝賀に八条院殿を訪れ、式子内親王にも新年の挨拶をしたことが記されているからです。

 その後、式子内親王は、八条院と三条姫宮(以仁王女)を呪詛(じゅそ、神仏に祈願して特定の人を呪うこと)したとの噂を立てられたため、八条院殿を去り押小路殿で出家しました。定家が、このことを、式子内親王死後1年半経った建仁2年(1202)8月22日に、回想として明月記に書いています。

 故斎院御八条殿之間、依思御付属事、奉呪詛此姫宮并女院、彼御悪念為女院御病之由、種々雑人狂言。依之斎院漸無御同宿。於押小路殿御出家之間、故院猶以此事御不請


 亡き斎院が八条院殿にお住まいだった時に、「斎院が、あれこれ思いをめぐらしたあげく、同じく同居している姫宮(治承の乱を起こして敗死した弟以仁王の娘)と八条院を呪詛(じゅそ)し奉(たてまつ)った。その呪いのために八条院がご病気になられたのだ。」という根も葉もない噂を、世間でいろいろ言い立てる者たちがいた。
 それによって、斎院はとうとう八条院と一緒に住まわれることをやめて、八条院殿を退去された。
それから押小路殿に移られて出家されたのだが、今は亡き後白河院は、式子内親王の出家についてずっとご不満をお持ちだったのである。


 式子内親王の出家が、後白河院の病がそれほど重くなっていない時期と考えると、遅くとも建久2年閏12月初旬頃までのことと推測されます。12月20日に、後白河院は、頼朝によって修造された法住寺殿に新たに造られた最勝光院南萱御所に赴(おもむ)いています。しかし、翌閏(うるう)12月18日には、病気がいよいよ重くなってきたため、院の病悩を除くという名目で非常赦*(ひじょうしゃ)が実施される事態となりました。
*非常赦は恩赦の一つで、権威者の慶弔(けいちょう、結婚、出産などの慶事と、葬儀などの弔事)に合わせて、罪人の刑罰を軽減したり取り消したりすること。権威者の慈悲を示すことによって、社会の治安を図(はか)り権威者の威光を高める効果があった。

 後白河院が崩御(ほうぎょ)した建久3年(1192)3月13日には、式子内親王は既に押小路殿を出て、後白河院の居た六条院に移っています。その後、後白河院の四十九日の法要が終わった5月2日に、式子内親王は、後見役である吉田経房の吉田邸に還御(かんぎょ、貴人が出先から帰ること)します。押小路殿に戻ることはありませんでした。押小路殿は、姉亮子内親王が相続していて、式子内親王自身が相続したのは、まだ九条兼実が使用していた大炊御門(おおいみかど)殿だったのです。

文治6年(1190)1月4日    八条院殿で藤原公房から新年の拝賀を受ける。
        ~この間に押小路殿に移り、出家か~
建久2年(1191)閏12月4日  押小路殿に定家が訪問する
建久2年(1191)閏12月18日 後白河院の病が重篤(じゅうとく)になる
建久3年(1192)3月13日   六条院で姉亮子内親王と共に後白河院を看取る
建久3年(1192)5月2日    六条院から吉田経房邸に移る

 式子内親王が押小路殿に滞在した期間は、最大限に見て文治6年1月5日から建久3年3月12日の2年余りです。この間に式子内親王は出家したと考えられますが、後白河院がまだ健在の頃、式子内親王の出家に対して賛成しなかったという、前述の記事を考え合わせると、出家したのは文治6年1月5日から非常赦が施行された建久2年閏12月18日までと、更に絞ることができるでしょう。
 従って、定家が慈円から牛車を賜(たまわ)って、その帰りの道すがらに式子内親王を訪問した建久2年閏(うるう)12月4日には、すでに式子内親王は出家していた可能性があります。

 式子内親王が出家に至るまでの、八条院殿での生活や押小路殿に移った経緯、また、出家時の戒師が法然(ほうねん)であるという説についての検証などは、章を改めて述べるつもりです。ここでは、出家していた、あるいは出家しようとしていた式子内親王の詠んだ和歌に注目して、式子内親王と仏教の関わりを探ってみたいと思います。 
 

式子内親王はなぜ絶唱を詠んだか

 式子内親王は、数々の絶唱を詠んでいます。絶唱とは、非常に優れた詩や歌、あるいは人生の最期に詠まれる辞世の歌など、特別な場面で詠まれる心情のこもった歌のことです。式子内親王には、抑えがたい恋の思いを生と死の極限まで突き詰めたような和歌が幾つかあり、そのために忍ぶる恋の歌人、情熱的な歌人とも評されています。

 しかし、そうした式子内親王に対する固定的なイメージに対して、私はもう少し違った見方を提起しようと思います。まず、式子内親王の和歌において、忍ぶる恋とはどういうものであったのか、彼女は果たして抑えきれない激情を表現したのだろうか、あるいは、そうではなくもっと別の意味があるのではないか、ということを考えていきたいと思います。

忍ぶる恋の和歌は実詠か

 式子内親王の恋の和歌は、そのほとんどが忍ぶる恋の和歌であるといってもよいでしょう。それぞれの和歌の内容は決して単調ではなく、恋の現状を概観したもの、相手の感情に踏み込んで問いかけるもの、自分の心の動きを冷静になぞって言葉にしているもの、日常生活のふとした行為からこぼれ出た会話を彷彿(ほうふつ)とさせるもの、あるいは従来からの伝統的な修辞にのっとったいわば正統派の忍ぶる恋の和歌、等々、多様な創作法が見られます。

  これらの忍ぶる恋の和歌が、実詠(実際の体験から詠まれた歌)なのか題詠なのかという点についてですが、「これは題詠であり虚構の作品である」という前提のもとに創作、発表された和歌であると言ってよいと思います。
 当時は、歌合せで行われていた題詠(与えられた題で歌を詠むこと)の普及によって、虚構、フィクションの設定のもとに歌を読むことが一般的に行われるようになっていました。

 そして、式子内親王も同時代の歌人と同様に、虚構を前提とした作品作りをしていました。そう考える理由は、次の2点です。

 1.式子内親王の和歌には、実際に訪れたことのない地方の風景、見ていないはずの名所旧跡、等々が多く登場します。これは、伝統的な約束ごととして、ある決まったイメージを呼び起こす地名や言葉で、歌枕(うたまくら)と言われるものです。歌枕は、題詠が一般的に定着していたこの時代に、四季の和歌や羇旅歌(きりょか、旅の歌)を詠む際に不可欠の技法の一つとして通用していました。
 式子内親王も例外ではなく、和歌に大きな自由をもたらした題詠から生まれた、虚構の設定として、歌枕というものをその作品に取り入れています。

 2.式子内親王の歌の中で、「忍戀」(忍ぶる恋)という題が付いているものが、勅撰集(新古今和歌集、續後撰和歌集)の中に、2首(318、335、後出)ありますが、これは撰者が付けたものと思われます。その「忍戀」は詞書(ことばがき)ではなく題として表記されているので、式子内親王の和歌は題詠と見なされていることがわかります。また、勅撰集に入集した式子内親王の和歌の中には、「○○のこころを」という詞書(ことばがき)が付けられている歌も多く見られます。これも題詠に近い設定で詠まれた歌であると、その時々の勅撰集の撰者たちが見なしているといってよいと思います。当然、当時の読者または聞き手も建前(たてまえ)として、そのように受け止めていたと考えられます。

 つまり、この時代の和歌作りにおいては題詠であることが大きな一つのルールとしてあり、そのルールのもとで歌人たちは想像力と洞察力、技巧と才能をかけて、勝敗を競っていた、それがこの時代の歌合せの姿であり、創作態度だったのではないでしょうか。

 和歌が題詠の手法を取り入れた虚構の創作であってよい、という前提、暗黙の了解があったので、式子内親王は、創作として旅の歌や恋の歌を詠むことができました。それは、歌僧たちが恋の歌を作ったのと同様です。そして、それらを鑑賞した同時代の人々も、虚構の創作であるとして受け取っています。式子内親王に限らず、詞書(ことばがき)で状況が説明されているものを除けば、和歌は概(おおむ)ね体験から離れた芸術作品として扱われていたようです。

 今から800年前の京都の貴族社会で、なぜこのような、たとえ建前にせよ、作品と実人生の分離が可能だったのでしょうか。それはおそらく和歌というものが、例えば、当時活躍した運慶等によるリアリティを追求した仏像や、平家納経(へいけのうきょう)などのような美麗な装飾経、技巧をこらした絵巻物、今様などの歌舞音曲などと共に、神仏を喜ばせるための捧(ささ)げ物であるという認識があったからかもしれません。実際に和歌は、この時代にたびたび、多くの歌人たちによって伊勢神宮、春日大社、住吉大社、日枝神社等々へ奉納されています。和歌には、人の営みの「あはれ」を神に披瀝(ひれき、心の中を包み隠さずうちあけること)して、その加護を願うための、言葉による創作物という側面があったようです。

 とはいえ、内親王の忍ぶる恋の歌が、世に大きな衝撃を与えたことは想像にかたくありません。新古今和歌集が発表された時、式子内親王の歌を読んだ少なからずの人々が、物語に登場するあえかな(はかなげで美しいこと)姫君のイメージを内親王に重ねて、高貴であるがゆえに特殊な宿命を負ったその半生に、はるかな思いを馳(は)せたのではないだろうかと、私は思わずにいられません。

作品としての「忍ぶる恋」から何を読み取れるのか

 しかし、これらの創作物であると見なされる作品、とりわけ「忍ぶる恋」をテーマとしている和歌から、式子内親王の実際の恋を直接読み取ろうとする行為は、大きな矛盾をはらんでいます。

 忍ぶる恋とは、世間に知られてはならない恋のことですから、もし、前斎院(さきのさいいんの)内親王という高い身分にある女性が、実際の体験を詠んだ忍ぶる恋の歌であれば、世間の臆測や好奇心にさらされないように、その歌を書き付けた紙の束は手箱にしまわれて、更に人目に触れないように唐櫃(からびつ)の奥深くに隠されるか、いっそのこと燃やされるか、あるいは死後百年経ってからようやく発掘されて陽(ひ)の目を見るか、というような運命をたどるものではないでしょうか。
 しかし、式子内親王の「忍ぶる恋」の和歌は、発表することを前提として作られ、実際に千載集、新古今和歌集、その他の勅撰集、私撰集に選ばれています。おそらく、俊成や定家の批評を求め、更に推敲(すいこう)を重ねて、練り上げられた創作物です。藤原俊成による歌論書、「古来風体抄」(こらいふうていしょう)は式子内親王の求めに応じて建久8年(1197)、俊成が84歳の時に書いて献上したものと言われています。このことからも、式子内親王の和歌への取り組みが本格的なものであり、また、式子内親王が自(みずか)らを一歌人として位置づけていたことがわかります。
 
 ですから、「忍ぶる恋」の和歌の主人公は、架空の女性であり、作者である式子内親王ではない、と考えなければならないのです。「忍ぶる恋」は、いくつもある恋の題の中で式子内親王が選んだ数少ない題の一つです。その主人公は、恋の行方を自分自身に問いかけては嘆きに沈み、時には運命に耐えて毅然としたふるまいを見せますが、最後は、絶望とわずかな希望の間をたゆたいながら初めて自分の声で相手に呼びかけます。
 式子内親王が、作者として作中の主人公に託したものは何でしょうか。それは、宿命と寂寥(せきりょう)感の中で、一人の恋人の存在だけを生きる理由として求めずにはいられなかった自身の重い体験ではなかったかと思います。 

 式子内親王の和歌は、遠く古今和歌集の小野小町(平安前期、9世紀)や、和泉式部(平安中期、11世紀初頭)を彷彿(ほうふつ)とさせる、潔(いさぎよ)い物言いと機知の働き、そして、成熟した女性らしい深い情感や、繊細な感性も彼女たちから受け継いでいます。その一方で、内面への沈潜や、外界への拒絶に青年期らしい苦悩を垣間見せたかと思うと、潮風に「しるべせよ」、霞(かすみ)に「幾重もかすめ」と命じ、「誰(たれ)も見よ」と大上段に構えた言挙げ(ことあげ)も平然とやってのける、帝王の一族たる側面も持ち合わせています。
 この豊かな天賦(てんぷ、天から与えられた才能)の資質が、「忍ぶる恋」という題を得て、大きな個性として開花しました。 式子内親王の前にも後にも、彼女に匹敵する「忍ぶる恋」の和歌を詠んだ女の歌人は見当たりません。「忍ぶる恋」は、前斎院という宿命と秘められた恋とを、身をもって生きた歌人式子内親王の独壇場だったといえるでしょう。

 では、題詠であるということを踏まえて、式子内親王の忍ぶる恋の歌の作品論というものを試みたいと思います。  

 

「死」と「あはれ」

 式子内親王の忍ぶる恋の和歌で、特に注目したいのが、「自己の死」を念頭に置いた和歌です。そして、この「自己の死」という観念の背後に、小さく問いかけるように現れるのが、「あはれ」という言葉です。

式子内親王の三つの百首歌のうち、一番若い頃のものと考えられているのが「前斎院御百首」(さきのさいいんのおんひゃくしゅ)です。ここには千載集に入集した歌が1首含まれていることから、文治3年(1187)には既に成立していたと推測されるのですが、この「前斎院御百首」の中に死を念頭に置いた歌を2首、見い出すことができます。

次に単に「百首」と呼ばれる百首歌は、終わりに「建久五年五月二日」の書き込みがあることから、建久5年までに作られたと考えられますが、この中に1首、死を念頭に置いた歌があります。

「正治百首」は、正治2年9月に後鳥羽院に献上されたもので、式子内親王の晩年の作です。しかし、この正治百首の中に、該当する歌はありません。

「その他の勅撰集への入集歌」(雖入勅撰不見家集哥、勅撰に入るといえども家集には見えざる歌)は、幾つかの勅撰和歌集に採られた歌を集めたもので、それぞれの歌の制作年は若い頃から晩年に至るまで様々であるようです。ここには、6首、見つけることができます。

 では、それらの歌をご覧ください。赤い文字で表わされているのが、死を念頭に置いた歌です。そして、青い文字で表わされているのが、「あはれ」という語が入っている歌です。(和歌番号は、新典社、小田剛著「式子内親王全歌新釈」による。)
 ここでは、式子内親王の恋の歌すべてを網羅しているわけではありません。いくつかの歌は割愛しました。

♦前斎院御百首 戀十首より

71 尋ぬべき路こそなけれ 人知れず 心は馴(な)れて行(ゆ)きかへれども

 あなたを訪ねていく道が見つからない。人知れず心だけは自由に何度もあなたのところへ行ってまた帰ってくるというのに。(この身が訪ねていければどんなに嬉しいことだろうか。)

72 ほのかにも哀れはかけよ思ひ草 下葉にまがふ露ももらさじ

 たとえ秘(ひそ)かにでもよいので私を愛してください。うつむいて咲いている思い草のような私を。
涙が下葉にかかってまるで露がおりたようですが、私たちの愛をつゆほども(決して)他人に話したりはしませんから。

   
76 哀(あはれ)とも言はざらめやと思ひつゝ 我のみ知りし世を恋ふるかな

 私だけが知っている昔、誰にも知られずあなたと会っていたあの頃を、なんと恋しく思い出すことだろうか。そんな私を、愛(いと)おしいよ、とあなたは言ってくれないだろうと思うけれども。

78 つかの間の闇のうつゝもまだ知らぬ 夢より夢に迷(まどい)ぬるかな

 ほんのつかの間の、闇の中の現実、逢瀬(おうせ)さえも、まだ知らない。闇の中の私たちの出会いといえば、ただ夢から夢へ繰り返される出会いばかりで、まるで迷妄の世界にいるようだ。

79 下にのみせめて思へどかたしきの 袖こす瀧(たき)つ音まさるなり

 恋の思いを胸の奥深くに秘めて、外に現れないようにこらえているというのに、片袖を敷いて一人寝をしていると涙があふれてきて、袖の上にまるで滝のように流れていく。そしてしのび泣く声も滝の音のように抑えきれずに外に漏れ出てしまうのだ。 

83 こひこひて よし見よ世にもあるべしと いひしにあらず君も聞くらん

 あなたを恋し慕ってきました。しかし誓って申し上げますが、この世で生きているうちにあなたと添い遂げたいのだと、わたしは言ったことはありません。それは、あなたも知ってのとおりです。

84 つらしとも哀(あはれ)ともまづ忘られぬ 月日いくたびめぐり来ぬらむ

 つれない人とも思い、愛しい人とも思った、その恋の思い出はとうてい忘れることができない。あなたと会えなくなって、あれから、どれだけの月日がめぐって来たことだろう。 

85 こひこひて そなたになびく煙あらば いひし契(ちぎり)の果てとながめよ

 あなたを恋し続けて生きてきましたが、いつの日かあなたのいる方になびいていく煙があったなら、わたしの命が終わったのだと気づいてください。そして、かつて交わした約束が果たされたのだと思って、その煙を見送ってください。

♦百首 戀十五首より

174 哀(あはれ)とはさすがにみるやうち出でし 思ふなみだをせめてもらすを

 つれないあなたもさすがに、かわいそうだ、愛おしい、と思ってくれるだろうか。あなたのことを思って今まで耐えていた涙が、堰(せき)を切ったようにあふれ出たのを見たならば。

177 我(わが)恋はあふにもかへすよしなくて 命ばかりの絶(たえ)やはてなん

 わたしの恋は、あなたと逢うために引き替えにする手立てもないままに、命だけが絶え果ててしまうのでしょうか。

180 わが袖のぬるゝばかりはつつみしに末摘花(すえつむはな)はいかさまにせむ

 涙で袖が濡れているのは、なんとでもごまかせるが、泣きはらして、紅花(べにばな)のように赤くなった目や顔色は、もう、どうすることもできない。たとえ、私の恋がまわりの人たちに感づかれたとしても。

♦正治百首 戀十首より

271 しるべせよ跡なき波にこぐ舟の 行方も知らぬ八重のしほ風

 進む方向を示しておくれ。繰り返し吹き付け、吹き渡っていく潮風よ。先に行った舟の跡も見えない波間を、独(ひと)り漕(こ)いでいく私の舟は、このままどこに向かうのか行先もわからないのだよ。(私の恋もこれからどうなっていくのか見当もつかないのだ。)

273 夢にても見ゆらんものを なげきつゝうち寝(ぬ)るよひの袖の気色(けしき)は

 こんなにあなたのことを思っているのだから、きっとあなたの夢の中に私の姿が現れているに違いない。涙で袖が濡れているのを見て、あなたは、私をかわいそうだと思ってくれるかもしれないが、それでも心は慰められない。夢の中で会っても、やはり悲しいことに変わりはない。

274 わが恋は知る人もなし せく床の涙もらすなつげのを枕

 私の恋は、誰も知らない秘密の恋なのだ。だから、黄楊(つげ)の小枕よ、寝床で耐えきれずに流した涙をちゃんと受け止めて、外に漏らしてはいけない。黄楊(つげ)という名だからといって、私の秘密の恋を人に告げるのではありませんよ。

279 あふ事をけふ松がえの手向草(たむけぐさ) いく夜しほるゝ袖とかはしる

 あなたと逢うのが今日でありますようにと、こうして松の枝を神に供えて待っていた年月(としつき)、その願いもかなわず、いったいどれくらいの夜々、涙で袖が濡れたことか、あなたは知っているのだろうか。

♦その他の勅撰集への入集歌より

306 袖の色は人のとふまでなりもせよ 深き思ひを君し頼まば

袖の色が紅(あか)く*なっていますが何かあったのですか、と人に問われるほどに袖が涙で変色してもかまわない。 私の心に深く秘めた思いを、あなたが知って信じてくれるのなら。

*時雨(しぐれ)が木の葉を紅葉させるように、涙が枯れるほど泣くと血の涙が出る、そしてその涙が絹の衣を紅く変色させるという考え方が、和歌でよく使われる比喩(ひゆ)として伝統的にあった。 成分がタンパク質である絹が、涙や汗などによって酸化して黄変することは実際にあるそうなので、そうしたことで、経験的に生み出された比喩なのかもしれない。

317 いまはたゞ心のほかに聞くものを知らず顔なる荻(おぎ)のうは風

 もう、あなたと会うことはないと思っているので、秋風が荻を揺らして、まるで誰かがやってきたかのようにさらさらと音を立てても、ただ無関心に聞き流している私だ。それなのに荻を撫でる風は素知らぬふりで、あなたが来たと告げるように不意に葉ずれの音をさせるから、私の静かな心がやっぱり騒いでしまうのだ。 

318 玉のを(緒)よ絶(たえ)なばたえね ながらへば 忍ぶることのよはりもぞする

 魂をこの身につなぎとめている恋という命の糸よ、張りつめて切れてしまうものならば切れてしまうがよい。糸がゆるめば箏(こと)の音(ね)が低くなるように、命が長くなれば恋の思いを胸の内に隠そうとする気持ちも弱って外に現われてしまうといけないから。

*本歌は、次の歌です。
絶えはてば絶えはてぬべし 玉のを(緒)に君ならんとは思ひかけきや
                         和泉式部

 あなたを思う気持ちは、魂をつなぎとめる命の糸です。恋の思いが張りつめて、その結果、糸が切れてしまうならば切れてしまってもよいのです。あなたが命の糸になるだろうと、かつて、かりそめにも思ったでしょうか。いいえ、そんなことになるとは思いもかけませんでした。

319 わすれてはうち嘆かるる夕(ゆうべ)かな 我(われ)のみ知りて過ぐる月日を

 もう二人の恋は終わってしまったということを忘れては、ああそうだったのだと思い返し、そんなことを誰にも知らせず自分だけの胸の内にしまって過ぎていった長い年月も、また思い返されて、改めて嘆きに沈まなければならない、つらい夕暮れであることよ。

321 はかなくぞ し(知)らぬ命を嘆きこし 我がかねごと(約束)のかゝりける世に

 何と心細い気持ちで、いつ終わるのかわからない命を、嘆きながら生きてきたことでしょう。わたしが、かつてあなたに誓った約束は、わたしの命が絶えるまでは果たされずに続くというこの世にあって。

335 君ゆゑ(え)といふ名はたてじ 消(きえ)はてん 夜半(よわ)の煙の末までも見

 わたしがあなたのことを恋い慕っていたのだという噂は決して立てません。夜半の火葬の煙がやがて消え果てる、最後の行く末までも、その私の決意を見届けてください。

339 君が名に思へば袖をつゝめども知らじよ涙もらばもるとて

 あなたの名前が噂に立ってはいけないと思って、この袖で涙を隠しているものの、これ以上隠しきれないかもしれない。涙がこぼれるならばこぼれてしまっても、もうどうしようもない。

344 さゞれ石の なかの思ひのうちつけに もゆとも人に知られぬるかな

 火打石(ひうちいし)を打ちつけると火がつくように、石の中に”思ひ”というひ(火)があって、何かの拍子に不意に燃え上がることがある。そのように不意に私の恋する思いが燃え上がって、まわりの人たちに気づかれてしまったことだ。

346 つらくともさてしもはてじ契りしに あらぬ心も定めなければ

 あの人は冷たいけれど、ずっとこのままそうかというと、そうではないかもしれない。かつて固い契りを交わした私たちの、これから先のまだここにはない未来の心がどうであるのかなんて決まっていないのだから。

347 君をまづ見ず知らざりし古(いにしえ)の恋しきをさへ嘆きつるかな

 あなたと会う前の、あなたを知ることもなかった昔の方がよかった、あの頃に戻りたいと思うのは、きっと、この恋の苦しさから逃れたいからなのでしょう。そう思うと昔が恋しいということさえも、恋の悲しみ、苦しみのせいなのだと嘆いてしまうことですよ。

361 君ゆゑや はじめもはても限りなき 浮世をめぐる身ともなりなん

 私は、いつ始まっていつ終わるのかもわからない輪廻転生(りんねてんしょう)を繰り返して、浮世をめぐり続ける身となってしまうのかもしれません。あなたを恋したばかりに。

370 いきてよも 明日まで人はつらからじ この夕暮れを問はば問へかし

 (もうすぐ私の命は尽きます。)残りわずかな日々を生きて、よもや、あなたは私が死ぬその日まで、冷淡ではいないでしょう。私の命の最後の夕暮れ時を、もし訪ねてくれるなら、どうぞ訪ねてください。

372 いかにせん恋ぞ死ぬべき 会ふまでとおもふにかかる命ならずは

 どうしたらいいのか、私のこの恋がきっと死んで(終わって)しまうだろう。あなたに会うまではという思いに、かろうじて踏みとどまっている命でなかったのなら。

式子内親王の”我がかねごと(約束)”とは何か

                (次回に続きます。)