式子内親王と慈円の恋 23

式子内親王の声を聞く

言葉集(げんようしゅう)に見る式子内親王の若き日の姿

 言葉集(げんようしゅう)は、平安末期に惟宗広言(これむねのひろこと)によって編纂(へんさん)された私撰集(しせんしゅう)です。この和歌集に、式子内親王に関する和歌が二首収録されていますのでご覧ください。
 奥野陽子氏の「言葉集所収 式子内親王周辺歌 —高倉三位と前斎院帥の歌—」から、言葉集の本文を引用させていただきました。

式子内親王の肉声が聞こえる唯一の史料です

 としごろさぶらひけるところに、ひさしくまゐらで、あからさまにまゐりたりけるに、「かきたえたるかはりに、びはをひきていでよ」とて、たまはせたりければ
 長年、お仕えした御所に久しく参らずにいて、突然お伺いしたところ、「ぱったり音沙汰がなくなったお詫(わ)びに、琵琶(びわ)を弾(ひ)いてからお帰りなさい。(そうでないと、帰しませんよ。)」とご主人様がおっしゃって、琵琶を寄越(よこ)されたので
 前斎院帥
むつごともいまはたえたるよつのをは なにによりかはものがたりせん
 睦言(むつごと、打ち解けた語らい、ここでは六つ琴、和琴との掛詞)も絶えてしまった(和琴の弦も切れてしまった)今となっては、四つの緒(四本の弦を持つ琵琶の別名)は何に頼って物語(演奏)をすればよろしいのでしょうか。(琵琶の演奏は無理かもしれません。)
 御返
むつごとも〔  〕のかはせん よつのをのむかしのこゑをきかばこそあらめ

睦言も(〔不明〕のかはせん)、まず四つの緒(琵琶)の昔の声(音色)を聞きたいですね。(ご主人様からの御返し)

 斎院帥は、式子内親王に仕えていた女房です。ここで長年、お仕えした所と言っているのは式子内親王のいる斎院御所と考えてよいと思います。ご主人様は式子内親王を指しています。では、式子内親王の返しの和歌の空白の部分に何が入るのか考えてみようと思います。
〔  〕のかはせん、奥野陽子氏によると、言葉集(げんようしゅう)承空本の虫食いによる欠脱だそうです。欠脱部分は二文字です。後ろに「の」があるので、欠脱部分は名詞、代名詞、数詞のような体言の可能性が大きいです。とすると、「かはせん」は「香はせん」ではないでしょうか。香がするのは和歌では衣や袖がよく使われます。二文字なので「そで」としてみましょう。
むつごともそでのかはせん よつのをのむかしのこゑをきかばこそあらめ
 睦言(六つ琴)も袖の香がすることでしょう。けれども、それより四つの緒(琵琶)の昔の音色が聞きたい、(聞かずには帰しませんよ
 本歌は、和泉式部の次の歌です。
かをる香によそふるよりはほととぎす 聞かばや同じ声やしたると
 橘(たちばな)の花の香に、亡き人(為尊親王)を思い出すよりは、ほととぎす(弟宮である敦道親王、帥宮)の声が聞きたいのです。昔(為尊親王)と同じ声をなさっているのではないかと思って。
 和泉式部は、冷泉天皇の皇子である為尊(ためたか)親王と激しい恋に落ちていましたが、前年の6月に為尊親王は亡くなってしまいます。翌年の4月、悲しみに沈む和泉式部のもとに、橘(たちばな)の花を届けに来たのは、為尊親王に仕えていた小舎人童(こどねりわらわ、貴人が雑用に召し使った少年)でした。小舎人童は今は為尊親王の弟宮である帥宮(そちのみや)に仕えていて、橘の花は帥宮から和泉式部に贈られたものでした。五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする(古今和歌集 読み人知らず)という歌を自然と思い出して、和泉式部が帥宮に返事として差し上げたのが、この歌です。

 さて、私たちはここで式子内親王の生の声を聞くことに成功しました。まず、連絡が途絶えていたのに突然参上した斎院帥に向かって、「かきたえたるかはりに、びはをひきていでよ」と言っています。何とか琵琶の演奏を逃れようとして斎院帥が和歌を詠んだのに対して、すぐさま和歌を返します。「むつごともそでのかはせん よつのをのむかしのこゑをきかばこそあらめ」
 式子内親王が斎院を退下したのは21歳の時ですから、これはその前の10代後半から20歳前後の話です。式子内親王は快活で、長く姿を見せなかった斎院帥との再会を楽しんでいます。即興で和歌の贈答をする様子もはつらつとしています。

母成子への招待状

 本院の藤さかりなるけるを、「こころあらん人にみせばや」と女房申しあひたりければ、高倉三位の御許へよみてたてまつりける
 斎院の藤の花が盛(さか)りになっているのを、「こころあらん人(情趣を解する人)にお見せしたいものですね。」と女房たちが申し合っていたのですが、(式子内親王の母である)高倉三位(たかくらのさんみ)のもとに(お手紙を差し上げようということになって)、斎院帥(さいいんのそち、女房名)が和歌を詠(よ)んでたてまつりました。
  前斎院帥(さきのさいいんのそち)
みせばやないろもかはらぬこのもとの きみまつがえにかかるふぢなみ

 お見せしたいものです。緑のまま色の変わらない松のようにすこやかであられる内親王様が、お母様を待っておいでになる、その松の枝には、藤の花が波のように揺れかかって美しく咲いております。
  返し 高倉三位
しめのうちにのどけきはるのふぢなみは ちとせをまつにかかるとをしれ

 標(しめ、神や天皇の領有地で神聖な場所)の内に、波が寄せるように揺れているのどかな春の藤の花は、天皇の御代(みよ)が千年も続くことを待つように、常盤(ときわ、永久に、一年中)に色を変えぬ松の枝に掛かって咲いていることを忘れてはいけませんよ。  

 式子内親王が、斎院に卜定(ぼくじょう、占いで決めること)されてから準備期間を経て、紫野の本院に入ったのは、永暦(えいりゃく)2年(1161)4月16日、13歳の時でした。旧暦の4月16日は現在の5月中旬頃にあたりますから、もう藤の花は盛りを過ぎているかもしれません。ですから、この話は翌年、式子内親王が14歳になった頃のことではないでしょうか。
 招待を感謝しながらも訪問を辞退するというよりは、招待自体をたしなめるような返歌を高倉三位から受け取った女房たちや式子内親王は、少し悲しい気持ちでしょんぼりしてしまったのではないでしょうか。
 高倉三位に他意はなく、知った者同士の軽いやり取りとして、機知に富んだひねりや切り返しで、返事をしただけなのかもしれません。あるいは、就任したばかりの斎王を母親が訪問することは、かえって教育上よくないという母親としての判断があったのかもしれません。この出来事だけから、母と娘の関係を推し量ることはできないと思いますが、安元3年(1177)に母成子が52歳で亡くなった時にも、式子内親王が哀悼歌を詠んだ形跡はなく、後年、母の仏事を営(いとな)んだ形跡もないので、このことからすると式子内親王は、母親との温かい心情の交流というものが希薄(きはく)だったのではないかと、想像させる贈答歌となっています。

慈円の私家集「拾玉集」の中から

具体的に式子内親王に関係づけられる和歌

 慈円が恋を題にして詠んだ和歌はとても多いのですが、このブログでは、詞書(ことばがき)がある、あるいは特殊な状況での詠出が確認できる和歌以外は、基本的に題詠であるという前提に立っているので、なかなか式子内親王を恋の相手として詠まれたものとして和歌を挙げることができません。そうではありますが、中には確実ではないにしても、具体的な背景を想定できるものもあるので、ここで紹介したいと思います。

285 あふひ草かざしにさせるその日こそ かものかはらはやさしかりけり
 この、青年のみずみずしい恋心を唄(うた)った抒情歌(じょじょうか)は、850年ほど前に20代半ばの僧、道快(後の慈円)によって詠まれました。(拾玉集第一巻 百首 堀川院題 雑)
 彼は15歳の頃に、式子内親王の斎院退下(たいげ)の儀式、唐崎の祓(はら)えに参列したのではないかと、私は推測しています。そして、この祓えは、志賀の唐崎ではなく京の賀茂川に面した、下鴨神社の摂社(せっしゃ)*である唐崎社で行われたと考えています。(当ブログ第3章をご覧ください。)
*摂社は、本社の祭神と縁故の深い神を祀(まつ)る付属の小さな社(やしろ)のこと
 風が渡る賀茂川の河原には、禊(みそ)ぎに臨(のぞ)む21歳の式子内親王の姿がありました。額(ひたい)に挿(さ)した櫛(くし)には、二葉葵(フタバアオイ)のやわらかな緑の葉が揺れていたのでしょう。“あふひ”の葉は、自分たちの宿命の残酷さに思い至るには、まだ若すぎる15歳の少年僧にとって“逢ふ日”を連想させるやさしい草の名前に過ぎなかったかもしれません。それから10年が経過して、恋を失った傷心の青年僧、道快が追憶のなかの唐崎の祓えの情景を詠んだのが、この和歌ではないかと思います。 

 次の三首は、建保(けんぽう)3年(1215)10月2日に後鳥羽院から百首歌の題を賜り、8日に草稿が完了したとの前書がある秀歌百首草の恋十首の中の三首です。(拾玉集第三巻 秀歌百首草 恋)
3346 忍(しのぶ)ぞとひとりのみいふことくさの たがすむやどの軒におふらん
 人知れず思っていますよと、(もう相手は亡くなってこの世にはいないのに)一人だけで口に出して言ってみる、その忍草(しのぶぐさ、シダ植物)ではないが、こと草(言葉種ことのはぐさ、話のたねのことと掛けている)が、いったい誰の住む軒に生えているというのだろうか、いやそんな草はどこにもない。(そんなことをしているのは、自分だけだ。)
 相手のいない(亡くなった)忍ぶる恋の和歌です。この題材自体が珍しいのと、次の「よしさらば」の直前に並んでいることから、式子内親王の関連歌と推測しました。

3347 よしさらば今はしのばじしのばずは あはれゆかりの人のとへかし
 よいでしょう、それならば今はもう私たちの恋を隠しません。もう誰にも隠しませんから、懐かしい恋人よ。私のところをどうぞ訪ねてください。
 建保(けんぽう)3年(1215)は、式子内親王が亡くなってから14年が経過しています。この和歌が詠まれたのがいつかわかりませんが、内容的には正治2年(1201)の二人の再会のきっかけとなった、式子内親王の「生きてよも明日まで人はつらからじ この夕暮れをとはばとへかし」の和歌の返歌の可能性が考えられます。

3350 君とわれと行きあふ坂のみちもあらば いづかたよりか秋のはつかぜ

 あなたと私が、行き交う人々が出会ったり別れたりするという逢坂(おうさか)の関*のように行き会う坂があるとするならば、きっと、どこからともなく秋の初風⁑が吹いていることでしょう。(織姫と彦星が年に一度ようやく逢えるという七夕の夜です。)
*京都と近江の境にあった逢坂(おうさか)の関の掛詞。出会いや別れの象徴として多くの和歌に詠まれた。)

⁑立秋は、だいたい旧暦の7月7日(現代の暦では8月7~8日)にあたり、暦の上ではここから秋になる。旧暦7月7日に行われる七夕の時期と重なるので、その頃に秋の初風が吹くことになる。
 この和歌は、慈円が20歳頃に詠んだと思われる「初度百首和歌十題」に含まれる恋十題の中にある和歌 
42 きみをわれ恋ひそめしより名にめでて あふ坂山はゆかぬ日ぞなき 
に対して40年を隔(へだ)てて呼応しているのではないかと思って取り上げました。(当ブログ第6章1-6をご覧ください。)

 秀歌百首草は草稿なので、改めて推敲を重ねた完成品と推測されるものが詠百首和歌(和歌番号3886~3985)として残っています。その中に「忍ぞと」と「よしさらば」が入っており、この二首は拾玉集の重複歌となっています。
 以上、拾玉集の中で、具体的に式子内親王に関係づけられるのではないかと思われる和歌を挙げました。 

最後に

式子内親王の虚像から実像へ

 このブログの目的は、式子内親王の「運命に翻弄(ほんろう)された悲劇の内親王」「孤高の愛に生きた同情すべき不幸な内親王」という類型的な人物像を、歴史的な事実を検証することによって、多面的な人間性を取り戻した実像に少しでも近づけたいということでした。式子内親王の生涯を実際に跡付けていくために、より広範囲な人間関係の調査や、仏教思想の研究、建築物の確認など、やることは山ほどありました。残されている史料は多くないと予想していましたが、そんなことはなく、調べれば調べるほど史料が見つかり、たくさんの発見を得られたと思っています。
 読者の皆様の、式子内親王のイメージは、変わりましたでしょうか。
 道快という青年僧と恋をしたこと、娘を出産したこと、実命の力を借りて出家を敢行したこと、後白河院の遺言を重んじて転居を拒んだこと、定家の所領を守ろうとしたこと、歌人として忍ぶる恋という独自のジャンルを確立したこと、娘を愛し続けたこと、慈円(道快)との恋を成就したこと、俊成、定家、慈円、経房、龍樹御前、その他多くの人々に愛されたこと、
 これらについて反論、ご批判もあるとは思いますが、式子内親王が、虚像から実像へ一歩進んだことをわかっていただければ幸いです。

式子内親王と慈円の恋を考える

 式子内親王も慈円も、時代の要請によって不婚を強いられるという不条理に苦しみました。彼らは愛し合っていながらも、恋人同士となり家庭を持つことが許されない人たちでした。ですから、彼らにとって人生を生きることは、その意味で難しいことだったと思います。
 しかし、彼らはユニークな仕方でその困難な道を歩き続け、生涯、恋人であり続けました。和歌という文学の力によって、目の前にいない相手の存在に触れ、声を聴くために、二人の間に行き交った言葉、あるいは届かなかった言葉は、800余年の時を超えて、いまだ失われずに私たちの前に残されています。それは、大したことではないでしょうか。
 このブログに興味を持って読んでくださったすべての皆様に、感謝と挨拶の言葉を送ります。

*第20章-1で、尾張局への哀悼歌を、後鳥羽院と慈円が贈答歌の形で詠み交わしたことについての説明をすることを予定していました。これは次回に追加として述べるつもりでおります。