式子内親王と慈円の恋 20 

定家が、奔走(ほんそう)する

 この章は、第17章 「あふよし(逢ふ由)」 に続く内容となります。主に、定家が「明月記」に記した内容を参考にしてまとめています。

政変の後

式子内親王

 建久7年(1196)の政変の後、式子内親王は大炊御門殿に移り住みましたが、その大炊御門殿に後鳥羽天皇が二度、長期滞在しています。
 一度目は、建久8年(1197)3月16日から4月30日までの滞在で、その理由は、蹴鞠(けまり)をするのに大炊御門殿の庭の造りが大変気にいったからだと言う者もいれば、後鳥羽天皇が夢の中で神仏のお告げをお聞きになった、ただしその中身は秘密であると言う者もいると、兼実の日記「玉葉」には記されています。
 天皇が、自身の伯母とはいえ内親王の御所にひと月半もの間、滞在するというのは異例なことです。後鳥羽天皇が、大炊御門殿にか、あるいは式子内親王に対してか、あるいはどちらにも、かもしれませんが、興味、好奇心を抑えきれなかったのではないかと私は想像します。なぜなら、大炊御門殿は、第9章(2)で触れたように、後白河院の導きによって、後鳥羽天皇が7歳の時に3か月も滞在した懐かしい御所だったからです。また、式子内親王については、第9章(3)で述べましたが、建久元年(1190)3月に、式子内親王が後白河院に背(そむ)いて出家を果たした、その衝撃も冷めやらぬまさにその頃、仮住まいをしていた白河押小路殿に、11歳の後鳥羽天皇が3度も方違え行幸という形で訪問し、親しく言葉を交わしたであろう伯母だったからです。
 すでに18歳になっていた後鳥羽天皇は天皇の嗜(たしな)みとして和歌の薫陶(くんとう、教え導かれること)を受けていたはずですから、亡き後白河院が編纂を命じた勅撰和歌集である千載集も当然、学んでいたことでしょう。その千載集に入集していた、瑞々(みずみず)しい感性にあふれた和歌の作者が式子内親王であることを知って、後鳥羽天皇が式子内親王に対してさらに人間的に深い関心を持ったのではないかということを、この長期滞在は物語っているように思います。

また、後鳥羽天皇に宮仕えしていた尾張局(おわりのつぼね)についても、言っておかなければなりません。
 尾張局は、式子内親王と慈円の間に生まれたのではないかと考えられる娘です。当ブログ第9章と第10章で取り上げていますので、ご覧ください。
 式子内親王は24歳になった尾張局に、この時期に会っている可能性があります。後鳥羽天皇が長期滞在しているということは、身近に仕えている女房達も一緒に滞在していると考えられるからです。
 尾張局の出自について、後鳥羽天皇に知らせる役目を後白河院から任されていたと考えられるのは藤原経房です。経房が、その重大な事実を後鳥羽天皇に告げる機会は二回ありました。
 最初の機会は後鳥羽天皇が11歳で元服した建久元年(1190)1月です。しかし、その時は元服と同時に、九条任子の入内(じゅだい)が重なっていました。摂関家の娘との婚礼の直後に、天皇のお付きの女房の中に内親王の娘がいると知れたら、その内親王の娘は無事では済まないでしょう。病気を装(よそお)って暗殺されるかもしれません。もし、皇子が誕生すれば皇位継承者の候補になるからです。しかも、父親(慈円)が僧侶なので、尾張局が然るべき一族の養女になるとすれば、それは九条家ということになります。任子と尾張局はそもそも従姉妹(いとこ)同士なのですから、混迷はさらに深まるばかりです。そして、最悪なことには、式子内親王が呪詛事件の嫌疑をかけられ、出家を強行したという非常事態が起きていたことです。経房は、尾張局の出自を後鳥羽天皇に告げるのを断念したと思います。
 次の機会は、建久7年(1196)の政変後に、式子内親王の嫌疑が晴れて、めでたく大炊御門殿に移御(いぎょ)した翌年の春、建久8年(1197)の1月から3月にかけてが、経房が事実を打ち明ける最大で最後のタイミングとなりました。経房は、正治2年(1120)閏(うるう)2月11日に病気で亡くなっています。

 建久8年(1197)3月16日から4月30日まで、後鳥羽天皇が大炊御門殿に長期滞在した理由を、兼実が日記「玉葉」に記した言葉をもう一度、ご覧ください。
 三月十六日、庚寅、従閑院遷御大炊御門殿斎院御所云々、或云、為蹴鞠云々、或云、有御夢想事、但秘蔵云々、
 三月十六日、庚寅(かのえとら)、(後鳥羽天皇が)閑院から大炊御門殿の斎院御所に遷御(せんぎょ、天皇などが居所を移すこと)なさったそうだ。(その理由は)蹴鞠(けまり)をするのに大炊御門殿の庭の造りが大変気にいったからだと言う者もいれば、後鳥羽天皇が夢の中で神仏のお告げをお聞きになった、ただしその中身は秘密であると言う者もいるそうだ。
 もし、建久8年(1198)の1月から3月にかけての時期に、経房が後鳥羽天皇に尾張局の出自について報告していたとしたら、この有御夢想事、但秘蔵云々(御夢想の事有り、但し秘蔵とす云々、)の一文がそれを物語っているのではなかろうかと、私は思わず想像してしまいます。しかし、確証はありません。
 7年後の元久元年(1204)7月に尾張局は、後鳥羽院の皇子(朝仁親王)を出産しますが、産後の肥立ちが悪くその年の10月に亡くなりました。その翌年に後鳥羽院と慈円が詠(よ)み交わした哀傷歌群を見ると、後鳥羽院は尾張局の出生(しゅっしょう)の秘密を知っていて、和歌を詠んでいるように思えます。これについては、後ほど述べるつもりです。

 二度目の長期滞在は、翌年の建久9年(1198)1月9日から4月21日までのおよそ3か月半の間、大炊御門殿が後鳥羽院の院御所とされたことによります。これは、後鳥羽天皇が譲位して、それまでの閑院御所を新帝(土御門天皇)の皇居として譲り渡したため、新たに院御所として二条殿を造営、完成するまでの措置(そち)でした。この滞在の時は、式子内親王が、かつて御所としていた経房の勘解由小路殿(かでのこうじでん)に一時的に移御(いぎょ)しています。

 正治元年(1199)5月1日から12日までの「明月記」の記事は、式子内親王の病気(乳がんと推定されている)の発覚を告げています。12月初旬からは、さらに病状が増していく様子が明月記に記されています。
 式子内親王は、その間、9月6日から9月14日まで病いを押して八条院暲子のもとに滞在しています。この訪問と滞在には、八条院暲子との旧交を温めるという理由と、御子左家が「和歌の家」として存続するために必要な財政的柱である吉富庄の危機を救い、御子左家を将来的に守るという、もう一つの理由があったのではないか、というのが私の意見です。(第11章3-3をご覧ください。) 具体的には、所領の権利関係が八条院暲子と絡(から)んでいるもの、おそらく定家が預所職(あずかりどころしき)となっている吉富庄(よしとみのしょう)について、領家職(りょうけしき)である八条院からの所課(しょか、割り当て、負担のこと)が過大であること*に対する減免の要求と、自分の死後の吉富庄処分について、預所職(あずかりどころしき)を定家から他の人間に変更しないように、八条院暲子に念を押し、また遺言として残すためではなかったかと推測します。
 これは、身体の異変を感じ取った式子内親王が、自ら起こした行動だったのではないでしょうか。そこには、俊成、定家、龍樹御前、その他の俊成の娘たちも入れれば、40年に渡って献身的に仕えてくれた御子左(みこひだり)家に対しての感謝と配慮があったと思います。
 *建久7年(1196)4月15日から、九条昇子(後鳥羽天皇第一皇女)が八条院暲子の猶子(ゆうし)になったことに伴って、九条昇子に対しても定家が吉富庄の課役(かえき)を割り当てられていた。

 正治2年(1200)になると、病状は悪化する一方でしたが、それでも3月13日の後白河院の命日には僧を召して定められた形式で仏事を行いました。7月には、後鳥羽院から主要な歌人達に百首歌を詠進(えいしん)するように下命(かめい)がありました。式子内親王も思いがけずその一人に選ばれたので、病床で和歌の創作と推敲(すいこう)に情熱を傾けました。9月5日には、定家が式子内親王の百首歌を給(たま)わり、後鳥羽院に献上しています。 

慈円

 建久7年(1196)11月26日、慈円は天台座主(ざす)、法務(諸大寺の庶務を管轄する役)、権僧正(ごんのそうじょう)、後鳥羽天皇の護持僧(ごじそう)を辞退して、白川房に籠居(ろうきょ)しました。それから3年余り経(た)った正治2年(1200)1月28日、後鳥羽院から御修法(みしほ、天皇の安泰や国家安穏を祈る密教系の特別の法要)のお召しがありました。慈円はこれに応えて後鳥羽院のために2月5日に如法北斗法(にょほうほくとほう)を、12日には金輪法(きんりんほう)の祈りを行っています。内大臣のまま籠居していた甥(おい)の良経(兼実息子)は、すでに正治元年(1199)6月22日、左大臣に任じられ政界に復帰していましたが、九条家にとってはそれに続く朗報でした。
 また、正治2年(1200)3月13日に定家が所領地の吉富庄で管理人として使っている杲云(ごううん、比叡山僧)が、吉富庄小野宿を通りかかった九条家の検注使に対して馬2頭強奪事件を起こすということがありました。(第13章1-1-4をご覧ください。)この時、窮地に陥(おちい)った定家のために、慈円は杲云から事情聴取をしています。

 このまま、次第に前職に復帰していくものと誰もが思っていた慈円ですが、7月15日予期せぬことが起こりました。逐電(ちくでん、行方をくらます、姿を隠すこと)です。慈円はこの後も元久元年(1204)4月23日に逐電事件を起こしています。生涯に4度比叡山座主に任命されて4度辞任するという経歴が物語っているように、彼の心の半分以上はいつも、遁世(とんせい、官僧ではなく寺院から離れて個人として仏道修行を行うこと)して、この世の栄達(えいたつ)から離れた遠い地に隠れ住むことを願っていたようです。けれども、その都度(つど)発見されて連れ戻されたり、遠所に行くことを許されぬまま西山善峯寺に籠(こも)ったりということで、生涯、その願いを果たすことはありませんでした。それまで担(にな)ってきた、怨霊の鎮魂と国家安穏を願う祈禱(きとう)の継続や、後鳥羽院の治世に平和的に寄与したいという思い、政変で凋落(ちょうらく)した九条家を再建する責任の重さ等々が、遁世することから最終的に彼を引き留めたのかもしれません。

 慈円は、その後、引き続き朝廷のための祈禱(きとう)を行っています。
 8月19日に、後鳥羽院妃の藤原重子(じゅうし、藤原範季女、順徳天皇母、修明門院)のための御産御祈を、9月11日に、皇子降誕のための薬師法を修しています。皇子(雅成親王)が誕生してからも、7日間の御湯加持(おゆかじ、熱湯を用いて心身を清め無病息災を祈ること)と、その後、白川房において百か日の御湯加持を続けて12月28日に結願(けちがん、長く続けた祈願や行事が満了すること)、翌12月29日(小の月)の大晦日には鞍馬山(くらまやま)に参籠(さんろう)したという記録(「門葉記」)が残っています。
 後鳥羽院に対しては10月28日に御熊野詣(みくまのもうで)の御祈、11月24日から26日の3日間に冥道供(みょうどうく、閻魔大王に罪の消滅と長寿を祈願する密教の供養法)を修しました。この二つの祈禱の後、11月28日に後鳥羽院は、熊野御幸へと出発しています。

 また、和歌については後鳥羽院から百首歌詠進の命(めい)が慈円にも下り、彼は8月25日までに百首歌を進上しています。

定家

 定家については、第11章の3~4で詳しく述べているとおり、政変後は官位も上がらず、吉富庄の課役(かえき)は重くなるばかりで、しかもその管理を任せている杲云(ごううん、比叡山僧)が暴行事件を起こすなど、悪いことばかりが重なっていく日々が続いていました。また、所領荘園の水害による農作物の不作と、内裏でも出仕先の八条院殿や九条家でも、定家に対する中傷の噂が絶えないこと、加えて身体の不調が追い打ちをかけました。定家にとって正治元年(1199)から正治2年(1200)にかけては、悪夢のような時期だったといえます。

 とはいうものの、定家が窮地に陥っていたにもかかわらず、世間では定家の歌人としての名声が高まっていたのも事実です。
 まず、建久7年(1196)6月1日に七条院殖子(しょくし、後鳥羽天皇生母)から、祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)で七条院方の馬長(うまおさ)として騎乗してくれないかという再三の依頼がありました。結局、定家は辞退しましたが、これなどは定家に、関白の地位があやうくなった兼実すなわち九条家への出仕を辞(や)めて、七条院に出仕先を変えませんかという遠回しの誘いのように感じ取れます。

 建久8年(1197)12月5日には、仁和寺御室(にんなじおむろ)の守覚法親王(しゅかくほっしんのう、後白河天皇第二皇子)から、俊成、定家父子に対して五十首和歌を詠進(えいしん)するようにという要請がありました。守覚法親王は治承2年(1178)に俊成に私家集、長秋詠草(ちょうしゅうえいそう)を献上させたことがあり、その頃から僧侶や平家の歌人達を集めて月例歌会を主催してきた人物です。五十首和歌は、合わせて17名の当代歌人達に詠ませたもので、俊成の甥である寂蓮(じゃくれん)が仁和寺に出入りしていた縁もあって、御子左家の寂蓮、俊成、定家の3名に詠進の要請がなされました。九条家歌壇とは一線を画(かく)していた守覚法親王でしたが、もはや良経、慈円、定家、家隆などの九条家歌壇が巻き起こす新しい和歌の潮流を無視することができない時代になっていたのです。この時詠まれた定家の御室(おむろ)五十首は、定家の和歌創作の最も充実した時期の秀作と見なされ高い評価を得ています。

 正治2年(1200)4月6日には、九条良経を通して皇太后忻子(きんし、後白河天皇中宮、当時67歳)から歌合(うたあわせ)に参加してほしいとの招待がありました。定家はこれを辞退しましたが、その断りの返事がなぜか九条家歌壇や御子左家の歌人達と当時激しく対立していた六条派の代表的歌人である藤原季経(すえつね)のもとに送られてしまい、季経が激怒するという事件に発展しました。これが、定家を陥(おとしい)れようとする策謀なのか、あるいは単なる事故で、本当に皇太后忻子が自分の歌合のサロンに定家を招き入れたかったのかは謎ですが、七条院といい、皇太后忻子といい、今をときめく天才歌人として世の中の噂の的(まと)になっている定家と何とかお近づきになりたいというような気持ちだったのではないでしょうか。 

 正治百首歌の作者選定については、定家をどうしても認めたくない源通親の強硬な態度が変わらなかったため、俊成による仮名奏状が直訴(じきそ)という形で、後鳥羽院へ提出されました。その結果、後鳥羽院はすぐさま俊成の意見を容(い)れて、家隆、隆房、定家に百首歌の提出を命じました。正治2年8月9日のことです。定家が8月25日に持参し差し上げた百首歌は後鳥羽院に絶賛され、この時から後鳥羽院主催の歌合や歌会に常連として召されるようになりました。翌日には内の昇殿(内裏の清涼殿の殿上の間に昇ること)を許され、10月に正四位下(しょうしいげ)に叙せられて、さらに11月には春宮(とうぐう、皇太弟、守成親王、後の順徳天皇)昇殿を許されています。

 正治2年9月20日に、定家は宣陽門院覲子(きんし)の六条殿で夜11時頃からの和歌と連歌(れんが)の会に参加しています。官吏(かんり)としての定家の役職は左近衛少将(さこのえしょうしょう)なので、公的行事においては貴人の護衛をする義務がありますが、歌会、歌合は私的な会合ですから辞退しても問題はありませんでした。定家はもちろん気が進まなかったようですが、当時もっとも勢力のあった宣陽門院覲子の誘いを断りきれなかったということかもしれません。9月29日にも、20日と同様に鶏鳴後(午前3時頃)に六条院から帰路についているので、歌会に出席したものと考えられます。(あるいは20日の記事と重複か、不明。)
 そもそも宣陽門院の執事別当が源通親なので、定家が宣陽門院の歌会に参加するというのは、なかなか考えにくいことです。通親は歌人としての実績も自負もあり、九条家歌壇や御子左家と対立する六条派(六条籐家)の一員でもありました。そして、後鳥羽院の正治百首に定家が指名されないようにずっと画策してきた張本人でした。しかし、後鳥羽院が定家の和歌を絶賛したことによって、通親の抵抗は終わりました。定家に対して高圧的な態度をとることがあったにせよ、九条家歌壇と御子左家への評価を自分の意のままに下げることはできなくなったのです。通親は、宣陽門院の行動も止めることができませんでした。また、和歌の領域においてだけでなくその他の場面でも、通親は成長した後鳥羽院の意志を尊重せざるを得なくなったのです。

贈答の和歌が式子内親王から定家に託された

 後鳥羽院が、新たな勅撰和歌集を企図して、それに先立つ正治百首歌の詠進を、当代の精鋭と見なされる歌人を選んで命じたことは、歌人達にとってだけでなく、政変後の貴族社会全体にとっても、大きな出来事でした。有力候補とされた歌人達の誰もが期待と不安に胸を騒がせて、与えられる題を想定したり、手持ちの和歌を推敲(すいこう)したりしながら、奉書の到来を待ち望みました。そして、選ばれた者達は、百首歌の詠進(えいしん)に、歌人生命をかけて取り組みました。定家も慈円も俊成も、式子内親王自身も例外ではなく、その渦中(かちゅう)にいました。
 定家、俊成が百首歌を提出したのは正治2年(1200)8月25日、慈円もその日までには提出しています。式子内親王が百首歌を定家に渡したのは9月5日です。つまり、この日までには定家や式子内親王周辺の関係者は皆、百首歌の詠進を済ませて、ほっと一段落した時期だったといえるでしょう。

 式子内親王は、すでに死期が迫っていることを感じていたと思います。政変後は、仮住まいではなく、初めて自分の御所で穏(おだ)やかな日々を送ることができました。歌人として晩年の最後の情熱を傾けて、後鳥羽院に百首歌を献上することもできました。長年、会えなかった娘(尾張局)とも、もしかしたら出会えていたのかもしれません。
 思い残すことは、承安(じょうあん)4年(1174)の春に別れを告げることもなく引き離され、その後は和歌を通じて知るしかなかった道快(慈円)の存在でした。

 生きてよも 明日まで人はつらからじ この夕暮れを問はば問へかし
 生きている時間はあまりありません。よもや、命が尽きるその日まで、あなたは冷淡ではいないでしょう。まだ命の灯(ともしび)が残っているこの夕暮れに、出来ることならどうか私を訪ねてきてください。

 和歌を託された定家はさぞ悩んだことでしょう。慈円に手紙(和歌)を届けるのは難しいことではありませんが、再会を実現させるとすれば、簡単な話では済まないことが、定家には容易に想像できたからです。しかし、式子内親王は定家に対して、「慈円に会いたいのでその手筈(てはず)を整えてほしい」と言っているわけではないので、ともかくも定家は、まず父親の俊成(当時87歳)に相談します。俊成は高齢ですが、このたびの正治百首詠進にも選ばれ、後鳥羽院に、家隆、隆房、定家などの若く才能豊かな歌人を推薦するなど、頭脳は明晰で行動力もありました。定家は大切な用件については必ず、俊成に相談して決めるようにしていました。

定家の計画と行動の記録

 これから述べることは、式子内親王が定家に託した和歌が、慈円に宛(あ)てて贈られた和歌ではないか、という推測のもとに、明月記に記された彼の行動を説明したものです。ここに挙げた定家の記事は、断片的で漠然としていますが、定家が、二人の再会を実現させるために各方面への根回しをしている姿ではないだろうかという観点から、何度も読み直しているうちに、次第にその全貌が見えてきました。どうぞご覧ください。

「いささか小事(しょうじ)あるによるなり」

9月5日
 参大炊殿、御歌之。皆以神妙。秉燭之程蘆。
 大炊御門殿(式子内親王御所)に参り、後鳥羽院に進上する百首歌をいただいてこれを拝見する。どれもが皆、不思議なほど優れた出来栄えである。夕方、灯をともす頃に家に帰った。

9月7日
 相次向大宮宰相許、言談之後、参三条亭。相次参内。
 次に、大宮宰相(西園寺公経)の邸(やしき)に向かい、話をした後、三条亭(俊成の居所)*に参った。次に、内裏に参上した。
*俊成が建久2年2月に三条宅、正治元年1月に三条殿に居る記事があるので、三条亭は俊成の居所と推測される。

 西園寺公経(さいおんじきんつね)は定家妻の異母弟で、定家が後鳥羽院の正治百首の作者に選ばれるかどうか気遣(きづか)って、何度も後鳥羽院側の動向を定家に知らせてくれたり、決定した時もいち早く伝えてくれたという経緯(けいい)があるので、そのお礼とその後の報告に訪問したと考えられます。ここでは、その後に俊成のもとを訪(おとず)れたことについて、注目しています。

 9月18日
 早旦騎馬法性寺辺、円能律師。聊依小事
 早朝(夜明け頃)、騎馬で法性寺辺(あた)りに向かい、円能律師(えんのうりっし)*を訪問した。ちょっとした用事があったからだ。
 *聊(いささ)か小事(しょうじ)有るによるなり
 *律師は僧正、僧都(そうづ)に次ぐ僧官、戒律に通じた僧

 円能と定家の出会いは、治承(じしょう)5年(1181)2月19日、定家が20歳の時まで遡(さかのぼ)ります。これは、同年1月14日に高倉上皇が亡くなったことに伴って、仏事、法要などに度々(たびたび)参列し奉仕することが想定される定家のために、父俊成が教育の一環として、経2、3巻の手ほどきを東寺の円能阿闍梨(あじゃり、修行の指導者の役割をする高僧)に依頼したのだろうと思われます。定家にとっては仏道の師という存在だったのでしょう。明月記には、その後19年間登場していない人物なので、どういう用件だったのかはわかりませんが、二人は4時間ほど話し合っています。

9月21日
 退下束帯、未時許向六条中納言(公継卿)許。聊依示申事也*。清談移漏。
 (九条家から)退下し、束帯(そくたい、貴族の正装)に着替えて、未(ひつじ)の刻(午後2時前後)くらいに六条中納言(公継卿)のもとに向かった。少々報告して説明しなければならない事案があったからだ。そんなわけで清談(せいだん、世俗を離れた芸術や学問などの高尚な話、中国の竹林の七賢人の哲学的談義にちなむ)に時を費やすことになった。
 *聊(いささ)か示し申す事有るによるなり。

 六条中納言とは藤原公継(きんつぐ)のことです。次の「定家と徳大寺家の関係」の図をご覧ください。公継は徳大寺家の4代目当主です。御子左家と特に親しい親戚付き合いはありませんが、祖母が俊成の異母妹です。つまり、公継から見ると俊成は大伯父にあたり、定家は遠縁の叔父にあたります。また特筆すべきは、慈円の少年時代からの友人である実快(じっかい)が公継の叔父だということです。
 公継の官職は正確には権中納言(ごんのちゅうなごん)です。中納言は、大臣、大納言に次ぐ身分で、朝政に参議し国政に関与します。また、天皇と臣下の間の意志伝達を行います。
 定家は、正装して公継を訪問し、3時間ほど話し込んでいます。 

同日、9月21日
 日入之程、参西六角〔入道殿御座〕。能州来会。大臣殿御歌事等委申也。秉燭以下参内、~(略)
 日が暮れる頃に、西六角(俊成の娘の祇王御前*の邸)におわします入道殿(俊成のこと)のもとに参上した。能州*が訪ねてきたところだった。午前中に大臣殿(九条良経)から(入道殿にお渡しするように)頼まれていた百首歌を、(俊成に)お見せしながら詳しいことを申し上げた。灯りをともす頃合い以降に内裏に参上した。
*祇王御前(ぎおうごぜ)は、俊成の娘(定家の12歳年上の同母姉)で六角尼上(ろっかくのあまうえ)とも言われる。藤原家通(いえみち)室で、若い頃に高松院姝子内親王に仕えて高松院新大納言と呼ばれた。
*能州は能登守(のとのかみ)を指す。当時の能登守は藤原具親(ともちか)で定家の友人ではあるが、ここに登場する意味が不明である。身近な人物を探すと藤原能季(よしすえ)がいる。彼は伊予守で予州(よしゅう)と表記されることも多い。能季と予州を合体させて、能州と誤記したのではないかと思われる。定家は9月11日にも能季のことを余州と誤記している。あるいは、悪意のある詮索(せんさく)などを避けるために、わざと間違いを装って本名がわからないようにしているのかもしれない。

 定家が、九条良経の使いで祇王御前の邸(やしき)に滞在中の俊成(当時87歳)を訪問しました。そこに能季が加わっています。能季は、九条兼実の北の方(正室)兼子の兄弟で、九条家に仕えていますが、優秀な兄の定能が建久5年(1195)に正二位、権大納言という異例の昇進をしたのに引き換え、なかなか昇進が進まず従四位上の伊予守(いよのかみ)にとどまっていました。九条家の中でも昇進が停滞していた定家と気が合い、二人は兼実や良経のお供をしたり、情報を交換したり、常に一緒に行動することが多かったのです。杲云の暴行事件の時も、慈円が間に入ってくれた話や、定家を中傷する者達を強く非難しながら、病気で臥せっている定家を励ましに来てくれたこともありました。能季は、九条家における定家の数少ない友人の一人でした。
 その能季が祇王御前の邸(やしき)にいる俊成のもとにやってきたというのは、どういうことでしょうか。
 能季と祇王御前と俊成の関係を説明すると、祇王御前は高松院新大納言として宮仕えしていたという経歴を持っています。また、能季、定能、兼子(兼実北の方)の母は高松院姝子内親王の乳母(めのと)で御匣殿(みくしげどの)と呼ばれて重用(ちょうよう)された人です。次の相関図をご覧ください。能季の母も、祇王御前も、高松院姝子に仕えていました。二人の宮仕えが重なる時期は、能季が11歳から23歳までの12年間になります。能季と祇王御前が(4歳違いで祇王御前が年上です)昔なじみだとすれば、能季の登場はそれほど唐突なものではないでしょう。
 また、能季は俊成の御子左家と縁続きです。相関図2に示してあるとおり、俊成の母が能季の祖父の妹です。
 定家が、俊成、能季と話し合ったのは、夕方2時間ほどです。そのうち半分は良経の百首歌の話で、あとの半分くらいは、能季を交えた三人で何かしらの打ち合わせをしたと思われます。
 会合の場所が、祇王御前の六角邸だったことは、俊成の居所である三条亭では内密な話ができないなど何かしら不都合な理由があって、信頼できる娘の祇王御前の邸(やしき)が選ばれたのかもしれません。
 

 
 時系列で、定家の正治2年(1200)9月の動向を述べましたが、これだけでは脈絡(みゃくらく)もつかめず、定家の意図は謎のままです。しかし、式子内親王と慈円を再会させるための準備の行動ではないかと考えると、次第に筋道(すじみち)が明らかになってきます。もう少しお付き合いください。
 次は、10月からの定家の行動です。

10月2日
 日入之程、向宰相中将亭。歌事可示合有命。仍所向也。謁談之後帰蘆。次入備州宅訪之。
  蓬蒿霜深、似昔物語、□相公騎馬、院参了。   (□は不明文字)

 日の入りの程に、宰相中将(さいしょうちゅうじょう、西園寺公経①)の邸(やしき)に向かう。和歌についての意見や判断を聞かせてくれとのことだったので訪問したのである。お目にかかり話し合った後、家に帰った。次いで、備州(びしゅう)②の所に出掛けて行って、彼に会った。
 秋深い夜の庭は荒れて蓬(よもぎ)が高く茂り、真っ白な霜が一面に降(お)りている。どこか昔物語③で見たような景色に似ている。(そして)相公④は騎馬にて、院のもとに参上するために走り去ったのだ。
①宰相中将は、参議で左近衛中将の西園寺公経(定家の妻の異母弟)のこと
②備州は、古代の吉備国(きびのくに)、またはそこから分かれた備前、備中、備後(びんご)の国を指す地名。現在の岡山県、広島県の一部。人名としては、備前守、備中守、備後守などの通称として使う。
③昔物語は、「源氏物語」蓬生(よもぎう)などか。
④相公も、宰相と同様に参議の唐名。

 馬上にある相公が備州のことだとすると、備州は参議の官職にも就(つ)いている人物のようです。正治2年(1200)に、備前守、備中守、備後守のいずれかで、同時に参議も務めていて、定家とも交流のある人物がいるかどうかを調べてみました。 
正治2年(1200)に備前守、備中守、備後守と呼ばれた国司、受領(ずりょう)が実在していたか。
<備前守>不明。ただし、文治6年(1190)1月に藤原公時が備前権守に任じられている。
<備中守>不明。ただし、建久2年(1191)2月に徳大寺公継が備中権守に任じられている。
<備後守>不明。
 該当者を見つけることができませんでした。これは、いったいどういうことでしょうか。
 備前、備中、備後などの瀬戸内海沿岸の地域は、平氏の交通や貿易の拠点だったため、平氏の荘園、知行国(ちぎょうこく)が多く存在していました。平氏が敗北した後にそれらの所領は朝廷によって没収され、平家没官領(へいけもっかんりょう)として大部分が源頼朝に与えられました。これらは頼朝の私的直轄地として関東御領(かんとうごりょう)と呼ばれ、年貢の徴収も治安維持も、幕府が任命した御家人の地頭が行い、年貢は幕府に納められました。つまり、朝廷が貴族の官吏(かんり)を国司、受領として派遣できない地域があったということです。もしかしたら、このような事情で、該当者を見つけることができなかったのかもしれません。

 では、備州とはいったい誰を指しているのでしょうか。私は、文治6年(1190)に備前権守(びぜんのごんのかみ)に補された藤原公時(きんとき)が有力な候補であると考えます。公時は、建久6年(1195)に近江権守(おうみのごんのかみ)になっていて、この時に備前権守も引き続き兼任したのか、それとも辞めたのかは判然としません。いずれにしても文治6年から建久6年までの5年間は備前権守だったといえます。また、文治5年には参議にも任命されています。
 彼は、式子内親王の後見人を長年にわたり務めた藤原経房の娘婿(むすめむこ)だったことから、若い頃から経房と親交があり、経房が老年になってからは式子内親王の後見人補佐のような立場で式子内親王家の実務を担当している様子が、明月記にしばしば描かれている人物です。定家との関係は、公時が式子内親王の御所に詰めている時に度々(たびたび)顔を合わせて、世間話や式子内親王家の内情について談義をしたりする間柄(あいだがら)でした。
 公時の岳父(がくふ、妻の父)経房は、正治2年(1200)閏(うるう)2月11日に病死しました。建仁元年(1201)1月25日に式子内親王が亡くなった時に、葬式を奉行(ぶぎょう、上からの命令を受けて執り行うこと)したのは公時でした。
 この時、葬式一切を取り仕切ったのは、三条家の当主、三条実房だったと推測されます。なぜなら、翌年、式子内親王の一周忌の法要を行ったのは三条実房である、と定家が明月記で述べているからです。閑院流の中で、式子内親王の後見役を担(にな)っていたのは三条家だったようです。その昔、式子内親王や母成子が住んでいた三条高倉弟は三条家の邸(やしき)で、もともとは待賢門院の兄三条実行が、待賢門院のために用意した御所だったのです。そして、公時はこの三条家の支流である滋野井家の2代目当主にあたります。

 
 公時は建久6年(1195)2月までは、参議と左近衛中将、また近江権守だったのですが、長男の実宣(さねのぶ)のために参議、中将を辞して、その替わりとして実宣を左近衛少将に任じてもらったようです。そして、建久9年(1198)に従二位に叙されています。正治2年(1200)の時点で近江権守だったとすると江州と呼ぶべきところですが、定家はそれ以前の備前権守だった時代の備州としています。また、参議を辞退したにもかかわらず、相公(しょうこう)と呼んでいます。備州とは公時のことだと結論づけるためには、これらの疑問点について明らかにしなければなりません。
 明月記の中で公時を表記する際に定家が通常用いているのは、「公時卿」「前(さきの)宰相中将」「前参議公時」「二位公時」「二品(にほん、二位に同じ)」「前相公(さきのしょうこう)」です。定家は、公時が現在は官位を持たず相公(参議)でも備州でもないことを承知しています。では、その上で敢(あ)えて使っているとは考えられないでしょうか。
 その理由としては、二つ挙げることができます。
 第一は、 蓬蒿霜深、似昔物語(ソウコウハ シモフカク、ムカシモノガタリニ ニタリ)から感じ取れるように、これは作りかけの漢詩だと思われます。定家は、漢詩の創作の世界に浸(ひた)っているのです。そこに騎馬で登場するのは、官職から引退して身分だけが高くなった公時(当時44歳)ではなく、参議と左近衛中将と備前権守を兼任する颯爽(さっそう)とした30代の公時でなければならなかったのではないかということです。詩の創作という観点からの脚色、言ってみれば定家の遊び心ということになります。 
 第二は、実際に誰であるか容易に特定されないように、噓(うそ)とまではいかないが、わざと実像をぼかして情報を攪乱(かくらん)した、ということです。当時の日記は子孫に残すため、家の存続のために書き残すものでしたから、後世に読まれることを前提としていました。明月記の記事を見ると、他人の目を意識していると思われるような、あえての誤記、省略などを感じることがあります。この場合も、公時という協力者の氏素性(うじすじょう)を明らかにしたくないという事情があって、昔の通称を使ったのではないかとも考えられます。

 「相公は院参し了(おわ)んぬ。」を言葉通り受け取ると、公時は後鳥羽院御所に参上した、ということになります。つまり、定家の申し入れを聞いて了承し、後鳥羽院に何事かを報告するために院御所に出発したのでしょう。この場合、公時の立場は、式子内親王の後見人あるいは後見人代理になります。

10月18日
 秉燭之程向宰相中将許、聊有示合事*。子夜退帰。
 灯りをともす頃に、少々示し合わす要件があったので、宰相中将(さいしょうちゅうじょう、西園寺公経)のもとに向かった。子の刻(ねのこく、午前零時前後)に帰路についた。
 *聊(いささ)か示し合わす事有り。

 定家はこれまで、徳大寺家の公継と三条家の支流である滋野井家の公時に、挨拶し頼み事をしています。閑院流には、もう一つ重要な一族として西園寺家が存在します。西園寺家の3代目当主は藤原(西園寺)実宗ですが、公経はその嫡流(ちゃくりゅう)ですから、次期当主になる人物です。しかも、定家の妻(後妻)は実宗の娘で、公経の異母姉にあたります。この閑院流の西園寺家という上流貴族と縁戚関係を結べたことは、御子左家の定家にとっては大きな後押しとなりました。ある意味で定家一家の庇護者でもあった西園寺家に対して、定家は礼節を尽くして接しています。その西園寺家に対して、関係者でありながら情報や事情を知らせないという失礼な扱いをすることはできなかったものと思われます。
 10月2日に定家は、和歌に関して西園寺公経から要請があったため、公経を訪問しました。今回は、定家が自分の要件で公経を訪ねています。その内容は、徳大寺家や三条家(支流の滋野井家)と同様に、西園寺家にも、これから起こそうとする式子内親王に捧げる祈禱(きとう)の計画について、挨拶と説明をしておこうということだったと推測します。定家は、公経邸に7時間余りも滞在して話し込んでいます。

御悩(ごのう)の御祈り

 定家が二人の再会のために事前準備を開始したのは、正治2年(1200)9月18日の円能律師への訪問からです。式子内親王が百首歌を完成させた9月5日から程なくして、和歌は定家に託されたと考えてよいのではないでしょうか。なぜなら、9月5日以前には何の動きもなく、9月5日以降に定家の動きが活発になっているからです。しかも、定家はかなり慌(あわ)ただしく動いています。それは、式子内親王の病状が重くなっていて、決断を早くしなければ再会が間に合わなくなるかもしれないとの判断があったためだと思われます。 

定家と俊成の話し合い

9月7日、定家と俊成の話し合いが俊成の三条亭で行われました。ここで話されたのは次のようなことだと推測されます。
①慈円に速やかに和歌を届けて、彼の意向を確認する。
②慈円が再会を望むならば、御子左家は協力する。
③再会の表向きの目的は、御悩(ごのう、貴人のご病気)の御祈り。
④スケジュールの調整をする。

定家と慈円の話し合い

 9月8日~9月10日、明月記からは読み取ることができない定家の行動が不明の日時があります。8日の半日(午前か午後、どちらか)と10日の夜です。この時、定家が慈円の白川房を訪ねた可能性があります。

 9月11日、慈円は、後鳥羽院妃の藤原重子(じゅうし、藤原範季女、順徳天皇母、修明門院)のために、産所となった卿局(きょうのつぼね、後鳥羽天皇乳母、重子は従姉妹にあたる)の大炊殿(大炊御門京極)で午前10時から、皇子降誕のための薬師法を修しています。驚くべきことに、慈円はすでに再会のための準備が完了していました。
 まず、11日から18日までの宿所は自身の白川房ではなく、大炊御門京極にある旧友の実快法眼(ほうげん)の坊(ぼう、僧の住まい)としています。12日から18日の7日間、御湯加持(おゆかじ、密教において、熱湯を用いて心身を清め病気平癒や厄除けを祈願する儀式)を行い、修法結願(しゅうほうけちがん)の後、白川房に戻ります。それからさらに百か日間、下北面(しもほくめん)の武士がお使いとなって白川房に届ける御湯を使って、毎日、弟子の僧と共に御湯加持を続けます。12月28日に修法結願(しゅうほうけちがん)です。12日29日(小の月)の大晦日(おおみそか)には、鞍馬山(くらまやま)に参籠(さんろう)するというスケジュールです。その後、鞍馬山に7日間、参籠すると仮定して、これを後鳥羽院のスケジュールと重ねてみましょう。

 
 後鳥羽院が予定している熊野神社への御幸(ごこう)が、11月28日から12月15日です。それに合わせて、慈円と式子内親王の再会がセッティングされています。実際に二人が再会したのは、私の考えでは12月8日のことですが、それについてはこの時点でまだ確定していません。慈円は皇子(雅成親王)のための御湯加持を続けながら、再会の日にちをある程度、流動的に設定することができるようにしています。9月11日から翌年1月7日までの慈円のスケジュールからは誰にも邪魔されたくないという慈円の本音が聞こえてくるようです。そして、慈円が後鳥羽院と顔を合わせるのは、1月7日以降ですから、それまでは、この件について後鳥羽院が介入する余地はありません。
 定家も同様に、再会の願いが無事かなうように、また、自分は黒子(くろこ)に徹(てっ)するために、11月30日から12月7日暁(あかつき)まで日吉神社(ひえじんじゃ、滋賀県大津市)への参籠を予定しています。 

慈円の考えた計画は、「御修法(みしほ)一壇を申し行う事」だったか

 御修法(みしほ)とは、国家安泰、天皇の安泰などを祈る格式の高い法要のことです。ですから、内親王の病気平癒(へいゆ)の祈願のために薬師法や不動法などの修法が行われる場合は、それが御修法(みしほ)となることはありません。ただし、中宮のお産のお祈りは将来、天皇となる皇子が誕生する可能性があるので、御修法とすることができたようです。10月1日の明月記によると、式子内親王が、皇太弟の守成(もりなり)親王(後の順徳天皇)を猶子(ゆうし)とすることがほぼ決まったという女房の言葉が記されているので、もし確定したら式子内親王が皇太弟の准母(じゅんぼ)となったと考えられます。しかし、これは病のため実現しませんでした。皇太弟の母であるという方向で、慈円が御修法の可能性ありとしたのかどうか、はっきりしませんが、12月7日の明月記に次のような文章があることから、何かしらの画策(かくさく)があったと思われます。

 此御辺本自無御信受、惣無御祈。今日人々依申、如形被(行*)御祈等。~(中略)~ 又御修法一壇事、□□申行事未定。(明月記」)
 こちらの御方(おかた、式子内親王のこと)は、もともと信仰心がなく、だいたいお祈りもなさらない。今日は周(まわ)りの人々が申し上げたから、形(かた)どおりお祈りをされたにすぎない。~(中略)~ それから、御修法(みしほ)一壇の事を、□□申し上げて行うようにしているのだが、こちらはまだ決まっていない。

 実際に、式子内親王のために御修法が行われたという記録はどこにもないので、この申し入れは立ち消えになり、御悩(ごのう)の御祈りは普通の修法で行われたと推測されます。

定家が、会った人々の役割

①藤原俊成
 親族との交流がほとんどない式子内親王のために、長年の和歌の師また人生の先達(せんだつ)として、式子内親王が安らかな終末を迎えられるように、関係者たちに助言と知恵を与える立場にありました。
②円能律師
 東寺出身の阿闍梨(あじゃり)でもある円能律師は、内親王の病気平癒の法要に参列するのに相応(ふさわ)しい高僧といえるでしょう。式子内親王家とは関わりがありませんでしたが、慈円の実家である九条家と関わり*を持っています。俊成の古くからの知己(ちき、知り合い)なので、俊成の推薦で参列を依頼したと考えられます。
*九条良経の正室が亡くなった時、五七日(ごしちにち)供養の最後に行われた一品経(いっぽんきょう)供養で導師(どうし)を務めています。
③藤原(徳大寺)公継
 中納言は、大臣、大納言に次ぐ身分で、朝政に参議し国政に関与します。また、天皇と臣下の間の意志伝達を行います。つまり、上申書(申状、申文など)の窓口となり、それを官吏を通して天皇に奏状することもできるし、逆に天皇から審議を要請されれば、陣定(じんのさだめ)という公卿会議で審議も行います。審議の内容は天皇に奏状され、天皇から下(くだ)された命令が申請者に下達(かたつ)されるわけです。
 皇族の加持祈禱について、通常、朝廷の許可を取る必要があるのかどうかわかりませんが、式子内親王の御悩の御祈りの法要を営むにあたって前天台座主(ざす)の慈円が導師を務めるであろうこと、などが異例の出来事なので、不審に思われないよう、式子内親王と同じく閑院流の一族である公継を通して慎重に手続きを踏もうとしたのかもしれません。公継は当時25歳で将来を嘱望(しょくぼう、期待される)されている、朝廷からの信任も厚い青年で、権中納言に任命されていました。定家が衣冠束帯姿で公継を訪問したのには、おそらく、こうした理由があったと思います。  
④藤原能季(よしすえ)
 九条兼実の北の方(兼子)の同母弟と推測される人物で、九条家で兼実や息子の良経に仕えています。心情的には定家の味方で、自分と同様に昇進が停滞している定家に同情しています。慈円は歌合の席で仮名(かめい、本名ではなく仮の名前)をたびたび使うのですが、能季という名前を借りて使うこともありました。慈円にとって一歳年上の親しみのある義兄弟だったのでしょう。九条家の中で唯一、仲間として事情を打ち明けられたと思われます。
⑤藤原(滋野井)公時
 経房の後継者として、式子内親王の後見人の役割を担(にな)っています。明月記では、すぐさま騎馬で後鳥羽院御所に向けて出発しています。これは脚色かもしれませんが、関係者の中で従二位という一番高い位階を持っているので、後鳥羽院に直接、ものを申し上げることが可能な立場であるようです。御悩の御祈りの当日には立会人の役目を務めています。 
⑥藤原(西園寺)公経
 公経は、定家の妻の実家として、定家が式子内親王の和歌の師であることも、式子内親王の病が重いことも知っています。病気平癒(へいゆ)の加持祈禱(かじきとう)を行うことを、定家が事前に相談してきたのですから、事情を聞いた上で、了承したのではないでしょうか。この訪問で定家は親族の協力を取り付けることに成功しました。

 また、実際に会っていませんが、慈円を介して間接的に話を伝えている人物として、実快がいます。
⑦藤原(徳大寺)実快
 実快については、第5章2で詳しく説明していますのでご覧ください。慈円と実快は少年時代に覚快法親王のもとで学び合った兄弟弟子でした。実快が2歳上になります。徳大寺家の出身で、公継の叔父にあたります。また、式子内親王とは、はとこの関係で、御悩の御祈りでは同じ閑院流一族の僧として、欠くべからざる重要な役割を果たしています。実快は、式子内親王と慈円の恋の事情も、尾張局の存在もすべて知っている人物で、慈円の最大の協力者、友人です。

慈円は天台宗の代表者としての立場で、御悩の御祈りに参列する

 閑院流の出身である実快と、俊成の推薦する円能律師が、それぞれの理由によって、御悩の御祈りに参列することになりました。では慈円はどういう大義名分で、前天台座主(さきのてんだいざす)としてこの法要の導師を務めるのかを考えてみたいと思います。
 式子内親王が出家したのは、建久元年(1190)3月のことでした。(第18章2-4) 戒師(かいし、出家を望む者に戒を授ける法師)は、待賢門院のいとこである阿闍梨(あじゃり)実命です。実命は、尊卑分脈(そんぴぶんみゃく、南北朝時代に編纂された諸氏の系図の集成)によると、山の記載があるので天台宗の僧侶です。戒師が天台宗なのですから、式子内親王は天台宗の尼僧(にそう)になります。したがって、天台宗に帰依(きえ)した尼僧である内親王の御悩の御祈りは、天台宗を代表して前天台座主が修法して当然ということになります。
 こうして御悩の御祈りは、世間から不要な詮索(せんさく)をされることなく、12月8日にひっそりと行われることになったと考えられます。

 以上が、私が、明月記から読み取った、式子内親王と慈円を再会させるために、定家が奔走(ほんそう)した行動の記録です。

式子内親王の法号について

 ここで、式子内親王の法号から私が推測することを述べようと思います。
 式子内親王が出家して授(さず)かった法号(戒名、法名とも言う)は、「承如法(しょうにょほう)」です。当時の女性の皇族で、法号に「承」の字が付くのは大変珍しいことです。
 参考までに、これまで当ブログに登場した皇族の女性達の法号をまとめてみました。

 女性の法号に、あまり「承」の字が用いられていないことが、おわかりいただけたと思います。男性の法号としては普通に使われるので、おそらく当時の人々が優美さや清新さを感じる、女性用の法号の文字というものがあって、そうした文字が好んで使われたのでしょう。では、なぜ式子内親王の法号に、女性にはあまり使わない「承」の字が用いられたのでしょうか。
 これは、式子内親王が天台宗山門派の円融院(梶井門跡)の僧侶が戒師となって出家した、という証(あかし)として用いられたのではないかと私は思います。
 円融院は、梶井門跡、梨本門跡とも呼ばれ、明治4年以降は三千院と改称しています。天台三門跡の中で最も歴史が古い寺院です。特に元永元年(1118)に入寺した堀河天皇第三皇子の最雲(鳥羽天皇の異母弟)が、大治5年(1130)に梶井門跡(この門跡は住職の意味)、保元元年(1156)に比叡山座主に任命され、保元3年(1158)には親王宣下を受けて法親王となり、天台宗の法親王の始めとなりました。以後、皇室や摂関家の子弟達が入寺して歴代の住職となっています。
 この円融院(梶井門跡)を最初に樹立したのが、承雲(じょううん)です。承雲は、貞観(じょうがん)2年(860)に、最澄が自ら彫った薬師如来像を安置した伽藍(がらん)を建立(こんりゅう)し、円融院と名付けました。また、比叡山山麓(さんろく)の東坂本(大津市坂本)梶井に円融院の里坊(りぼう、僧が人里に設ける住まい)を作りました。

 式子内親王に法号を授(さず)けたのは、戒師である実命です。実命が円融院(梶井門跡)の出身者で、円融院の祖ともいえる承雲和尚(かしょう)の名前の一文字をもらって、式子内親王の法号につけたのではないかというのが私の意見です。それをこれから説明します。

実命は、円融院(梶井門跡)の出身である

 天台宗には、二つの派が存在します。比叡山延暦寺を本山とする山門派と、園城寺(三井寺)を本山とする寺門派です。両派には、それぞれ主要な三つの門跡(もんぜき)寺院があります。門跡寺院とは、皇族、または摂関家の出身者が住職を務める、特別な格式を持つ寺院のことです。
 山門派の門跡寺院は、円融院(梶井)、青蓮院、妙法院です。
 寺門派の門跡寺院は、円満院(平等院)、実相院、聖護院です。


 式子内親王の出家の戒師となった実命は、尊卑分脈の記載から天台宗山門派であることがわかります。次の、実命の相関図2を見ていただくと、実命の周辺には二人の天台座主がいます。待賢門院の兄、仁実(にんじつ)と、鳥羽天皇の弟、最雲法親王です。二人とも円融院(梶井門跡)出身で、最雲法親王は仁実の弟子にあたります。
 実命が、幼少期に天台宗山門派の僧侶になるために入室した先は、待賢門院の兄で梶井門跡(住職)にして天台座主という偉大な行跡(ぎょうせき)を持つ仁実と、仁実の弟子で梶井門跡を務め後に天台座主にもなった最雲法親王(鳥羽天皇の異母弟)の二人がいる円融院(梶井門跡)だと考えてよいのではないでしょうか。


 建久元年(1190)3月に、実命が、式子内親王の出家の戒師を引き受けるにあたり、内親王の出家として正式な手続きを経ていないこと、儀式の体裁が整っていないこと、罪に問われるかもしれないことを考えて、引き受けるのをためらったということは、あり得ることです。しかし、実命は熟考の上、覚悟して引き受けました。その境地を想像すると、式子内親王の置かれた立場に対する同情と、迷い苦しむ衆生(しゅじょう、命あるもの)の救済を見過ごすことへの僧侶としての葛藤があったと思います。
 実命は、誇り高い梶井門跡の阿闍梨(あじゃり、修行の指導者の役割をする高僧)として、式子内親王の戒師を引き受けました。そして、梶井門跡の創始者である承雲の一文字「承」と、天台宗の代表的なお経の法華経を意味する「如法」を組み合わせて、式子内親王の法号を「承如法」としたのではないでしょうか。
 
 これは、式子内親王のためであるばかりでなく、実命のためでもありました。7年前の寿永2年(1183)に、安徳天皇と後白河院を擁(よう)して西国に落ち延びようとした平氏一族の手を逃れて、7月25日未明に辛くも脱出した後白河院が逃げ込んだのは、比叡山東塔の円融院でした。26日には公卿、殿上人が続々と後白河院のもとに集まり円融院は、一時的に院御所のような役目を果たしたということです。その円融院に対して、後白河院が非難し責任を追及する強行手段に出るということは考えにくいことです。後白河院が、最終的に式子内親王の出家を不問に付したというのも、式子内親王の法号が意味するところが大きかったのではないかと思います。

承仁法親王のこと
 建久7年(1196)の政変で比叡山天台座主を辞退した慈円の後に天台座主となったのは、承仁法親王(後白河天皇第十皇子)です。建久8年(1197)4月に29歳で亡くなりましたが、この承仁法親王も梶井門跡で、法号に「承」が用いられています。これも、梶井門跡の創始者である承雲(じょううん)の名からもらったものではないでしょうか。同じく「仁」の字は、承仁法親王の祖母待賢門院璋子の兄、つまり大伯父でもある第45代比叡山座主の仁実(にんじつ)から一字もらっているものと思われます。
 承仁法親王がいつから承仁と名乗っているのかは不明ですが、初名は最恵でした。改名した時期はわかりませんが、可能性があるのは法親王となった建久7年(1196)10月です。梶井門跡(住職)としても、「承」の字がついた住職は初めての例になります。うがち過ぎかもしれませんが、これは建久元年(1190)の式子内親王の出家と法号が、円融院(梶井門跡)でも繰り返し語られ、インパクトをを与える文字として承仁法親王の改名のきっかけとなったのではないかと思われます。
 承仁法親王以後、「承」は、梶井門跡の通字(つうじ、一族や家系の中で世代を超えて共通して用いられる漢字)の一つとなり、承雲以後、江戸時代までの56代の梶井門跡のうち、「承」の字が法号に入っている門跡は10名に及び、そのうち8名が天台座主に任命されています。