式子内親王と慈円の恋 21

げになつかしき いもがことのは

御悩(ごのう)の御祈り

 正治2年(1200)12月8日の明月記です。
 天晴。辰時参大炊殿。実快法眼、二品参会。御有様大略同事云々。午終許退出。給御願書進日吉。
 晴天である。辰(たつ、午前8時前後)の時に、大炊御門殿(式子内親王御所)に参上した。実快法眼(ほうげん)と二品(にほん、藤原公時のこと)が既に来ていて顔を合わせた。(式子内親王の)ご容態は、おおよそ変わらずということだった。午(うま、正午の前後)の終わり頃(午後1時過ぎ)に退出した。日吉(ひえ)神社への御願書(前座主の慈円からか)を給(たま)わったので奉(たてまつ)ることとした。

 予定通りに、御悩の御祈りが始まりました。実快法眼(ほうげん)の名前だけが記(しる)してあって、円能律師と慈円の名はありませんが、定家はこの計画を一貫して故意にぼかして記載しているので、ここでも肝心な列席者については明記していないと考えられます。藤原公時が、この日の修法の立会いのために同席しています。公時は、前章(20章1-3)で、備州という肩書きで登場していた人物です。
 午前8時から午後1時過ぎまで、約5時間が経過しています。最後に布施を受け取って僧侶が退席しますが、その際に、日吉(ひえ)神社に奉納(ほうのう)する御願書(ごがんしょ)を前天台座主の慈円から、公時がいただいて、定家に渡したということでしょう。

 ここからは私の想像になります。同じ大炊御門殿で、後鳥羽天皇中宮の九条任子のために建久6年(1195)に行われた七仏薬師法の修法(しゅほう、ずほう)などを参考にしました。

 寝殿西方の加持所に、祭壇が設けられ本尊(ほんぞん)が安置されています。薬師法であれば薬師如来、不動法であれば不動明王(みょうおう)です。慈円が、後白河院の護持僧として最後に行なった「御悩の御祈り」が、文治5年(1189)2月11日の不動法の修法なので、式子内親王の御悩の御祈りも、不動法だったかもしれません。病気平癒の祈禱ですが、病が重篤(じゅうとく)なため延命や息災(そくさい)というよりも、苦痛の軽減や、浄土に往生するための準備という意味合いが大きかったのではないかと思われます。

 祭壇の前で祈禱が始まります。供物(くもつ)を捧げ、護摩(ごま、護摩木や札)を聖なる火で焚き上げて、煩悩を焼き尽 くします。
 ①印契(いんげい、手指の形などで仏の誓願や功徳を象徴的に表わすもの)を結びます。
 ②真言(しんごん、サンスクリット語マントラの訳で「真実の言葉」を意味する)を規定回数唱えます。
 ③心を本尊(仏)の境地に至るまで集中して、行者と本尊が一体化するまで祈りを続けます。
 これが、身(しん)口(く)意(い)の三密の行です。こうして本尊と一体化した行者(ぎょうじゃ、僧侶)は、仏の慈悲(大悲)を身を持って体現していますから、その慈悲が行者を通して衆生(しゅじょう、願主、ここでは式子内親王)に加わり(加護)、衆生がこれを受け取る(受持)ことによって、双方の働きが感応し結ばれて、仏が衆生を護(まも)ることが実現するというのが、加持祈禱の儀式になります。 

  想像図を作成するにあたって、溝口正人氏の「大炊御門殿の殿舎構成とその特質」から「図-1 建久6年頃における大炊御門殿寝殿を中心とした殿舎構成の復元案」を参考にいたしました。

 祭壇での祈りのあと、僧侶達は式子内親王の御座間(ござのま)近くに移ります。上に挙げた「御悩(ごのう)の御祈り 想像図」をご覧ください。寝殿母屋(おもや)の西第1間(けん)を式子内親王の御座間としていますが、これは、大炊御門殿が九条家の邸(やしき)だった頃に、この母屋の西第1間に、中宮任子の御座間が設けられていたことを参考にしました。私の推測では、御座間(ござのま)は間口1間、奥行2間で、東の仕切り部分には御簾(みす、上から吊り下げて目隠しの役目をする、平絹などで縁どりしたすだれ)あるいは几帳(きちょう、布を使った移動式の間仕切り)が置かれています。式子内親王は、当時の貴人の慣習で東の方角を枕にして臥(ふ)せっています。

 御簾(みす)の中に僧侶が入ります。導師(どうし、法要などで中心となる僧侶、ここでは慈円のこと)が1名だけ入ると推測しました。導師は、仏(ほとけ)の慈悲を願主に手渡す役割を持っています。願主(式子内親王)がそれを受け取りやすいように、気持ちが穏やかになるような環境を作らなければならないのです。
 伴僧(ばんそう、導師に付き従いその所作を補佐しつつ読経にも加わる僧、実快と円能)2名は御簾の外に控えて、読経(どきょう)を始めます。御簾の奥にいる病者の容態を考慮して読経の声は通常よりも低くしめやかなものだったと思われます。

慈円が携(たずさ)えたのは、法華経を和歌で表(あらわ)したものだったか

詠百首和歌

 慈円の私家集である拾玉集(しゅうぎょくしゅう)の第2巻に、「詠百首和歌 法門妙経八巻之中取百句」があります。法華経八巻の二十八品(ほん)の中から百句を選び、それを百個の題として和歌を詠む、という趣向です。一題に一首とは限らず二首や三首の場合もあるので、全体では147首で構成されています。
 これは、法華経の内容を、お経という漢文の音読みではなく、日本語で、和歌という形で表現したものでした。

 「詠百首和歌 法門妙経八巻之中取百句」が詠まれた年代は不明ですが、後書きに、
 依暮秋初冬之候入二諦一如之観、忽詠四五之拙歌法楽三所之権現、
 暮秋(旧暦9月、現代の暦では10月)から初冬(旧暦10月)の候に、二諦一如*の悟(さと)りの境地に入ることによって、たちまち幾つかの拙(つたな)き歌を詠み、これを三所の権現(さんしょのごんげん、熊野三社の主祭神、本宮、新宮、那智の三所に分かれている)⁑の法楽(ほうらく)⁂とした。
と記されています。
*二諦一如(にたいいちにょ)は、天台宗においては、俗諦(ぞくたい、日常で見ている普通の世界)と真諦(しんたい、空や涅槃などの究極の真理の世界)は、別々にあるのではなく、本当は一つの真実の二つの見え方である、ということを意味する言葉です。
⁑三所の権現は、熊野大社本宮の家都美御子神(けつみみこのかみ、スサノオ)、新宮の熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ、イザナギ)、那智の熊野牟須美神(くまのむすみのかみ、イザナミ)です。神仏習合の考え方では、この神々は、それぞれ阿弥陀如来、薬師如来、千手観音が、神の形をとって現れたものとされています。
⁂法楽(ほうらく)は、仏の教え(法)を信じ行うことによって得られる喜びや楽しみのことで、また、読経(どきょう)や芸能を神仏に奉納して神仏や人々を楽しませる、という意味でも使われます。

 後書きによると、この「詠百首和歌 法門妙経八巻之中取百句」は、9月から10月にかけて詠まれました。そして、この和歌をもって熊野権現の法楽としたとされています。
 正治2年(1200)の9月から10月にかけて、慈円は式子内親王の御悩の御祈りの準備をしました。また、御悩の御祈りは12月8日に行われましたが、それはちょうど後鳥羽院が熊野詣(もう)で(11月28日~12月15日)をしていた時期にあたっています。
 年代が不明ですから断言はできませんが、このように二つの事柄が符合(ふごう)することから、「詠百首和歌 法門妙経八巻之中取百句」が式子内親王の御悩(ごのう)の御祈りのために作られたものではないかと想定して、考えを進めたいと思います。

慈円が、式子内親王に手渡したかったこと

 慈円は、死を目前にした式子内親王に仏の慈悲(大悲)を伝えるのが、僧侶としての自分に与えられた役割だと考えていたと思います。大悲とはすべての衆生(しゅじょう)から苦しみを取り除くことで、大慈とはすべての衆生に楽を与えることです。式子内親王が、長い年月、内面に閉じ込めていた恋の苦しみを癒(いや)して安らかな境地になってもらいたいと、慈円は願っていたはずです。
 しかし、それは大変難しいことでした。まず、二人は幾つもの誤解を解かなければなりませんでした。式子内親王の妊娠と出産が慈円には知らされていなかったこと、慈円の失踪は後白河院による強制的な引き離しによるものだったこと、そのために双方が傷つき互いに不信感を持ったこと、式子内親王が九条兼実から2度にわたり政争の一環として攻撃を受けたこと、などです。
 そのうえで、慈円は自分の偽(いつわ)らざる心情を式子内親王に告げなければなりませんでした。慈円が、式子内親王への愛とその断念、そして苦悩と修行の日々を語ることで初めて、式子内親王は慈円を理解し自分の人生の真実を知ることになるのです。式子内親王の苦しみを取り除くために、これは避けては通れない道でした。式子内親王から贈られた和歌の哀切な問いかけに、真摯(しんし)に応える覚悟が慈円にはありました。たとえそうすることが、他人から見れば、僧侶としてふさわしくないと見なされるかもしれない道であっても、自分の仏への帰依は揺るがないという自負が慈円にはあったのです。

 26年の断絶の後にようやく巡り会った恋人と、言葉を交わすことができるのは4時間に満たない短い時間でした。まして、重病人なので長時間の会話はできません。慈円は積もる話を語り尽くすのではなく、和歌という芸術の力を借りて、自分の様々な思いを伝えようとしました。
 式子内親王と同様に、慈円の人生も恋の苦しみと共にあったわけですが、式子内親王への愛を成就することは不可能という絶望の中で、慈円がようやく見出した一条(ひとすじ)の光がありました。それは法華経です。法華経の中に、慈円は、自身の迷いと苦悩に対する答えを見出しました。その法華経が見せてくれる景色とドラマティックな展開を和歌によって表現し、式子内親王の枕辺で読み上げることを慈円は選びました。病床の式子内親王にも、仏に帰依することと恋を追い求めることにどのような接点があるのか、わかりやすく説き知らせることになるような最善の方法を、慈円は和歌に見出したのです。そして、この法華経の「詠百首和歌」に、式子内親王に対する呼びかけと、自分の述懐(じゅっかい、心情や思いを述べること)を織り込みました。 

 法華経から選んだ百句の簡単な説明を付け加えながら、そのうちの幾つかを、慈円は声に出して式子内親王に読んで聞かせたのではないでしょうか。文字はあとあとまで繰り返し読むことができます。また、お付きの女房に読んでもらうこともできますから、すべてを読み上げたわけではないと思います。
 御簾の外で実快法眼と円能律師の読経が続く中、御簾の内側では長い断絶の時を埋めるような穏やかな時間が流れ、昔語りをする二人のかすかな話し声と、和歌を読み上げる慈円の低い声が漏れ聞こえてきたのではないかと想像します。 
 このようにして、二人の再会は無事に終わりました。この後、式子内親王の病状が事の外(ほか)良い状態になったとの医者の意見を聞いた定家は、12月26日と28日の明月記に、喜悦極(きわ)まりなし、承悦極まりなし、と喜びの感想を述べています。 

詠百首和歌、その内容の紹介

 この「詠百首和歌」には、次のような特徴があります。
①日本語なので耳で聞いただけで、経典を知らない者や病床にある者にも、法華経の内容や意味が直接伝わる。
②和歌に親しんでいる人間にとって、興味を引きやすい。
③女人往生(にょにんおうじょう)について、述べている。
④手紙のように相手に呼びかけ、知性と感情に働きかけながら、仏に帰依する道を示している。
⑤慈円自身の述懐も、和歌の中に表現されている。

 このうち、①、②は、一般論として考えられたのではなく、式子内親王の個性というものを熟知したうえで、式子内親王のためにこの形が考案されたものではないのかと私は考えています。それは、この章の次の節(せつ)で説明します。その前に、③、④、⑤についての和歌を紹介したいと思います。
「法華経現代語訳」 (著者 三枝充悳 第三文明社レグルス文庫)を参照しています。
③ 女人往生
♢提婆品(だいばぼん)〈竜女成仏〉
玉ゆらに出でぬと見えし海の月の やがて南にさしのぼるかな

 ほんの一瞬だけ、月が海から出てきたように見えたが、そのまま月は(雲に隠れることなく)南の空高く昇っていった。それは、生まれつき賢かった竜女(竜王の娘)が八歳にして、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)が海中で法華経を説くのを聞いて、一瞬の間に悟りへの菩提心(ぼだいしん)を起こし、ついには、一切平等の正しい悟りを得て仏となった姿を見るようである。竜女が成仏するまでの経過は、まず、その身体を忽然(こつぜん、にわかに)として男子へと変じ、菩薩行(ぼさつぎょう)を修めてから、南方のけがれのない世界に往(い)き、宝蓮華(ほうれんげ)の上に坐って、すべての生あるものたちのために優れた教えを説いたことにある。竜女が述べることは広大で慈悲があり、心はおだやかで優雅であった。

わたつみや やがてみなみにさす光 玉をうけしにかねて見えにき

 大海原(おおうなばら)から昇って、そのまま南の空に照り映える月のように、竜女は速やかに悟りを開いて仏と成った。すべての生あるものたちのために法(のり)を説(と)いた。それを聞くものすべてが歓喜して、竜女をはるかに敬い礼拝(らいはい)した。女が仏となることは、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)に対して竜女が敬意をもって捧げた宝珠(ほうじゅ)を、釈迦牟尼仏が快(こころよ)く受け取った時に、すでにわかっていたことです。

♢勧発品(かんぼつほん)〈成就四法>
法(のり)の水を仏のみ子につかふとて 四(よつ)の心にむすび入れけり

 釈迦牟尼仏は、まるで、仏の教えの清らかな水(香水、こうずい)を、仏に帰依する弟子たちに注(そそ)ぐようにして、四つの法(のり)を守り達成しなさいと、おっしゃいました。そして、それを成就したものは、男であっても女であっても等しく法華経を自分のものとして受け取ることができるだろうと、普賢菩薩(ふげんぼさつ)に告げられたのです。

 釈迦牟尼仏は、善男子・善女人がいて、四つの法を成就したならば、自分(釈迦牟尼仏)が入滅(にゅうめつ)した後でも、それらの善男子・善女人は法華経を得ることができるだろうと、普賢菩薩(ふげんぼさつ)に告げた。
四つの法
第一は、多くの仏から護(まも)られ念ぜられる(思われる)こと、第二は、多くの徳の本(もと)を植えること、第三は、解脱(げだつ)を得るに至る修行がなされていること、第四は、すべての生あるものたちを救う心をおこすことである。 

④ 式子内親王への呼びかけ
♢薬王品(やくおうほん)〈於此命終即往安楽世界〉
夕づくよ さすやをかべに露きえて にしにひらくるをみなえしかな

 夕月の光が射(さ)している岡辺には、もう露(涙)が結ぶことはなくて、おみなえしが西の空(阿弥陀如来のいる極楽浄土)の方を向いて花開いていますよ。
 (もし女人がいて、この薬王品を聞いてその教えを信じて忘れずに保(たも)つならば、その女人の身体が尽きた後に、次の世でまた女人の身体を受けることはないだろう。)

*本歌 夕月夜さすや岡べの松の葉のいつともわかぬ恋もするかな(古今和歌集、よみ人知らず)
 夕月の光が射している岡辺であなたを待ちながら、松の葉が一年中緑色なので季節がわからないように、わたしの恋も今がいつともわからないような長い時をかけた恋となってしまいました。  

わぎもこも をしふるままにおこなへば をはりうれしき道とこそきけ

 愛しいあなたも、仏の教える通りに修行されているので、寿命が終わった時に、阿弥陀如来の住む安楽な世界の蓮華の座に生まれることができると聞いております。そこでは、欲望に悩むことなく、怒りと憎しみ、愚かさにも悩まされず、驕(おご)りや嫉妬(しっと)に悩むこともありません。

♢観音品(かんのんぼん)〈便得離欲〉

さよ衣うらにも夢をさとるかな かさねしつまを思ひかへして
 夜の衣を裏返して寝ると恋しい人に夢の中で逢えるという言い伝えがありますが、日頃から観世音菩薩を敬い念じていれば、その夢の中でも悟ることができるのです。重ねた褄(つま、着物のすその左右の両端)を裏に反(かえ)すように、逢瀬を重ねた自分たちのことを考え直して、愛への執着から離れることができるのですよ。

ねにおふる つみとききしも君がため はなるとするもうれしかりけり

 根づいている柘(つみ、ヤマグワのこと、万葉集には美しい仙女が変身したものという伝説がある)のようなあなたと契りを結ぶことが、音(ね)に負(お)ふる(うわさになるほどの)罪でもあるとわかっていました。あなたが、観世音菩薩を敬い念じて、私(慈円)に対する怒りや憎しみから離れていくのであれば、あなたのためにどんなに嬉しいことでしょう。

つねに思ふ 心のままによしなやと かさねしつまは思ひかへしつ

 どうしようもなく報われない恋だといつも思いながら、心が求めるままに逢瀬(おうせ)を重ねました。しかし、私(慈円)は観世音菩薩を敬い念じているうちに、その重ねた褄(つま、着物の左右のすそ)を裏に反(かえ)して、自分の愚かさを知り、考え直しました。(あなたも、観世音菩薩を敬い念じて、考え直してください。)

♢観音品(かんのんぼん)<心念不空過>
たのみてもなほたのむかな 思ふこと むなしく過ぎぬ人のちかひを

 この世に生を受けた者が、多くの苦しみに悩む時に、この観世音菩薩の名を一心に称(とな)えたならば、観世音菩薩はその音声を観(かん)じて、神通力によって、苦悩から解放されるようにしてくださいます。観世音菩薩は種々の形に姿を変え、多くの国土に遊行(ゆぎょう)して、生ある者たちを救ってくださる菩薩です。観世音菩薩の大いなる誓いは海のように深いので、その名号を聞き、その身を見て、心に念じて空しく過ごすことがないならば、必ずや苦しみを減じ滅ぼしてくれることでしょう。

♢陀羅尼品(だらにほん)〈羅刹女等〉
十(とお)の名を法(のり)のむしろにききしより げになつかしき いもがことのは

 羅刹女(らせつにょ*)たちが十人、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のところにやってきて申し上げた。「わたしたちも、薬王(やくおう)菩薩や勇施(ゆぜ)菩薩、毘沙門(びしゃもんてん)や持国天(じこくてん)と同様に、法華経を読み受持する法師を護(まも)り、彼らに安らぎと穏やかさをもたらし、彼らからその衰(おとろ)えと患(わずら)いを除こうと思います。そのために、陀羅尼(だらに)の呪文を唱(とな)えて、法師たちを攻撃したり非難したりするものから守護することにいたしましょう。」
 釈迦牟尼仏は、これらの羅刹女たちに「よいかな、よいかな、クンティー(羅刹女の一人の名前)よ。汝(なんじ)たち、およびその仲間は、経巻に花と香、音楽や灯火を供養する法師たちを守護するがよい。」 と告げられた。

 この話を、私(慈円)が仏法の修行の場で聞いた時、愛するあなたの詠んだ和歌が、思わず記憶によみがえりました。その時、あなたの言葉を何と懐かしく思ったことでしょう。

 故郷(ふるさと)をひとりわかるゝゆふべにも おくるは月のかげとこそきけ(「千載和歌集」式子内親王
 住み慣れたふるさと(この世)から、ひとり別れて去っていく夕暮れ時にも、月の光のように最後まで寄り添って送ってくれるのは、普賢菩薩の尊いお姿だけと聞いております。

 この式子内親王の和歌は、普賢経の「唯此願王不相捨離」(ただ、この普賢菩薩だけが最後まで衆生を見捨てない)の心を詠んだ法文歌(ほうもんか)です。
 普賢菩薩は法華経の第一の守護者で、釈迦牟尼仏の右の脇侍(きょうじ、本尊に付き従いその悟りや救いを補佐する仏や菩薩)です。羅刹女はこの普賢菩薩の眷族(けんぞく、弟子などとして付き従い支える者)で、普賢菩薩と同様に、法華経を護持する行者を守ることを使命としています。平安、鎌倉期の仏画(ぶつが)では、普賢菩薩が乗る六牙(ろくげ、六本のきば)の白象(びゃくぞう)の周りに、十人の羅刹女が左右に五人ずつ描かれています。羅刹女は、日本では天女や宮廷に仕える女性の装束で描かれることもありました。
 羅刹女は元来、人の精気を奪う鬼女でしたが、鬼子母神(きしぼじん)らとともに仏の教えに接して改心し、神女となりました。これが女人往生と見なされて、竜女成仏と十羅刹女(じゅう らせつにょ)が登場する法華経は、当時の女性たちから大きな支持を得ていたそうです。慈円は、もしかしたら式子内親王を、白象に乗った普賢菩薩に付き従っている十人の羅刹女の一人になぞらえて、この 十(とお)の名を法(のり)のむしろにききしより げになつかしき いもがことのは という和歌を詠んだのではないでしょうか。
 参考までに、式子内親王は、建久3年(1192)4月29日に亡き後白河院の仏事法要を主催していますが、この時の本尊も普賢菩薩で、式子内親王は自筆の金泥(きんでい、金色の絵具)普賢十願の写経を捧げています。

わぎもこも けうときさまに思ひしに ふかくみ法(のり)の花をながめて

 愛しいあなたも、仏の教えにはあまり関心がないように思っておりましたが、実はそんなことはなくて、深く思いをめぐらして、決して散ることのないみ法(のり)の花をながめておられたのですね。
 
⑤ 慈円の述懐
♢安楽行品(あんらくぎょうほん)〈常有是好夢〉
思ふべし わがうつつこそかなしけれ 御法(みのり)のやどにみる夢ぞそれ

 自戒しなければなりません。私の現状ときたら情けないものです。仏に仕える僧として常に見る夢は、まことをもって正直の行を行い、慈悲の心をもって法(のり)を説くことです。仏の神通力(じんつうりき)によって護られているこの法華経を、忍耐と智慧(ちえ)の力、慈悲の心で、世の中に説き広めることこそが私の願いです。

♢寿量品(じゅりょうぼん)〈如医善方便>
風になやむ まくずが原にあさ日影 のどけきかたのたよりなりけり

 風が吹きすさぶ真葛が原に、朝の光が射し込んできた。どこからともなく、ほのぼのと穏やかな空気が流れてきたような気がするよ。
 それまでずっと恋の苦しみから逃れることができないまま、自分の不幸を恨んでいました。私の心は、風が吹きすさぶ真葛が原(京都東山のふもとに広がっていた原野)そのものだったといってよいでしょう。わたしを救ってくれるはずの仏(釈迦牟尼仏のこと)が、真実には生きているのに、もう死んだも同然だと思い込んで、わたしは、絶望し途方に暮れていました。ところが、そう思わせていたのは仏の深い計(はか)らいで、仏はいつどのようにしたら、私が苦しみから救われ悟りへと導かれるかを知っていて、それにふさわしい時を待って、ふさわしい方法で教えを説いてくださったのです。仏の智慧の力は自在であり量(はか)りしれません。

♢法師功徳品(ほっしくどくほん)<唯独自明了>
よそにしらぬ人のけしきはさもあらばあれ ひとり心の月を見るかな

 法華経を受持する者は、その身体が浄(きよ)らかでまるで瑠璃(るり、青色の美しい宝石、ラピスラズリ)のようです。そして、浄(きよ)らかで明るい鏡に多くのものの形が映るように、浄(きよ)らかな身体には世界中のあらゆるものが映ります。そして、他の人々が見る景色がどんなものであれ、法華経を受持する者は、迷いのない悟りを開いた心のような明るい月を見ることができるのです。

作礼而去(さらいにこ、礼をして立ち去る)

 「作礼而去」とは、仏の説法を聞き終えた人々が、礼拝(らいはい)してその場を去る場面を表す言葉で、多くの経典の末尾におかれる慣用句となっています。法華経の「作礼而去」は、次のような文章です。「法華経現代語訳」 (著者 三枝充悳 第三文明社レグルス文庫)より引用しました。

 仏がこの経を説かれたときに、普賢などの多くのボサツと、舎利弗(しゃりぶつ)などの多くの声聞(しょうもん)と、および多くの天、竜、人間、人間以外のものなどのすべての大勢の集まりは、みな大いに歓喜し、仏のことばを受持して、礼拝をして、去って行った。 

 慈円が、「作礼而去」の題で三首、詠んでいます。
なれなれて涙の雨やくもるらむ かへる空なきわしのみやま路
 釈迦牟尼仏が霊鷲山(りょうじゅせん)での最後の説法を終える日、釈迦の教えをずっと拝聴して慣れ親しんできた人々は、雨のような涙でさぞ前が見えなくなっていることだろう。もうわしの山(霊鷲山)に釈迦牟尼仏が帰ってくることは、二度とないのだから。

いかばかり露けかりけん わしの山 苔(こけ)のむしろの跡の暮(くれ)がた

 釈迦牟尼仏の説法を聴くために慣れ親しんだ苔(こけ)の莚(むしろ、ワラやイグサなどを編んで作った敷物)も、今は空しくなってしまった夕暮れどきどんなにか釈迦との別れを惜しむ涙で、わしの山は露が降りたように濡れそぼっていたことだろう。 

八年(やとせ)まで苔のむしろになれなれて つゆ分けわぶるわしのみやまぢ

 八年もの間、苔の莚(むしろ)に座(すわ)って釈迦の教えを聴くことにすっかり慣れきっていたのに、もう二度とそこに戻ることはできないのだ。涙と露で濡れている草を難儀(なんぎ)してかき分けながら、わしの山の山路を進んで行くのは、何とつらいことだろう。

 慈円の和歌を、法華経の本文と比較すると、内容的にかなり違いがあります。
 本文に即して言うと、釈迦牟尼仏はこの日、世界中から集まった聴衆に向けて、大乗経を説いた後、座禅を組んで深い瞑想(めいそう)に入り、眉間(みけん)から仏の国土を照らす光明を放ち、偉大な法である妙法蓮華経を説きました。聴衆は合掌(がっしょう)し歓喜して仏のことばを受持しました。釈迦牟尼仏は、この後、入滅(にゅうめつ)し、ニルヴァーナ(涅槃、ねはん、生死を超えた悟りの境地)に入るとされています。ニルヴァーナに入るということは、解脱(げだつ)が完了して、生と死の繰り返しである輪廻(りんね)から解放されることです。
 本文の「作礼而去」(さらいにこ)では、釈迦の入滅には触れずに霊鷲山(りょうじゅせん)の20万近い聴衆が、「みな大いに歓喜し、仏のことばを受持して、礼拝をして、去って行った。」と書かれています。

 一方、慈円は、釈迦の入滅を取り上げ、もう二度と釈迦牟尼仏に会えないことへの落胆と悲しみを詠んでいます。それまでは忠実に、時には私的事情を加味しながら、法華経を和歌に翻訳してきた慈円ですが、最後の「作礼而去」(さらいにこ、礼をして立ち去る)では、釈迦牟尼仏を、未来永劫(えいごう)にわたって存在する人類の救済者としてではなく、自分の友人、家族、隣人でもあるかのように、生々しい哀惜(あいせき)の感情で悼(いた)んでいます。
 ここには、式子内親王に向けた別れの言葉と、哀悼(あいとう)の気持ちが隠されているように、私には感じられるのですが、皆様はどのようにお考えでしょうか。慈円が、式子内親王に仏の教えを説いたのは、これが最初で最後のことでした。その、たった4時間の巡り会いで、死期を間近にした式子内親王に別れを告げなければならないのです。釈迦牟尼仏の入滅を悼む三首の和歌のその裏に、式子内親王への絶唱が込められているように、私には思えてなりません。

式子内親王の知られざる個性

信仰心が希薄(きはく)であること

 「詠百首和歌」の特徴として先に挙げた①、②について、もう少し詳しく説明します。20章1-3-2で引用した明月記の12月7日の記事をもう一度、ご覧ください。
 此御辺本自無御信受、惣無御祈。今日人々依申、如形被(行*)御祈等。
 *行の字が脱字か。(校訂の稲村榮一氏による。)
 こちらの御方(おかた、式子内親王のこと)は、もともと信仰心がなく、だいたいお祈りもなさらない。今日は周(まわ)りの人々が申し上げたので、形(かた)どおりお祈りを行われたのだろう。
 定家が、式子内親王を評して「もともと信仰心がなく、だいたいお祈りもなさらない。」と述べています。式子内親王は、和歌の創作において、仏教に帰依(きえ)するヒロインを作り出し、また、印象深い幾つもの釈教歌を詠んでいます。さらに、建久元年(1190)3月には、自らの意志で出家を敢行(かんこう)しているのです。それなのに、実生活では信仰心が薄くお祈りもしない、というのはどういうことなのでしょうか。

 また、仏教だけでなく神道についても同様のことが言えるようです。正治2年(1200)閏2月13日の明月記には、次のような記述があります。
 路次参大炊殿。此御所本自不被忌穢。仍所参也。
 道すがら大炊殿(式子内親王御所)に参る。この御所(式子内親王のこと)はもとより穢(え、けがれのこと)を不吉として避けたりはなさらない。であるから、こうして参ったのだ。
 仏教にも神道にも、それぞれの穢(え、けがれのこと)がありますが、特に神道では死や出血、出産など生と死の境界に関わる出来事が、けがれ、不浄なものとして忌(い)み避けられます。定家は、この日、嵯峨の別宅から帰京する途中、竹藪の中に人頭があるのに出くわしたために、穢に触れてしまいました。本来ならば、穢に触れた者はその穢が時が経って時効になるまでの一定期間、他人の家に入ることができません。穢が広まるからです。しかし、式子内親王は穢を忌(い)まれないから大炊御門殿に入っても大丈夫だというのです。
 言うまでもなく、式子内親王は11歳から21歳までの10年間、賀茂斎院として神に仕える生活を送りました。神に仕える者は清浄でなければなりませんから、穢を忌むことについては人一倍、熟知しているはずです。その式子内親王が、穢に頓着(とんちゃく、こだわること)していない、ということには、やはり意外な印象を持たざるを得ません。

 これらの記事は、今まで気づかれてはいましたが、あまり重要視されなかった記事のようです。しかし、式子内親王について、数少ない実像、実生活を教えてくれる証言です。
 和歌という作品世界の中では、式子内親王は神道にも仏教にも敬意をはらっており、シンパシー(共感)を持って受け入れています。けれども、和歌の作品世界が、地続きで日常生活に繋(つな)がっているわけではありません。
 式子内親王は、少女時代から成年に至るまで、仏教を表向きは認めない斎院(伊勢の斎宮も同様です)という特殊な環境下で、神道の儀式に明け暮れる生活を送りました。そのため、斎王や斎王に仕える人々は来世に極楽浄土に往生できるようにと仏に願うことが出来ないので罪が深い、と見なされていたようです。
 また、斎院を退下(たいげ)してからは、神に仕えた女性として恋愛や結婚をしてはいけないという暗黙の制約を課されました。仏教寺院へ公然と参詣することも、はばかられるような風潮があったのかもしれません。
 こうした事情が、式子内親王の宗教的な態度を硬化させ、あるいはいびつなものにしてしまったとも考えられます。

 むしろ、式子内親王にとっては、和歌という芸術の世界の中にこそ、神道や仏教の宗教的入口があって、そこでは心のおもむくままに神仏に祈り、真実を求めて問いかけることができたのではないでしょうか。
 式子内親王は、日常生活では「もともと信仰心がない」と定家から決めつけられてしまいましたが、それを一つの個性として受け入れていた慈円は、「詠百首和歌」に次の一首を入れています。

わぎもこも けうときさまに思ひしに ふかくみ法(のり)の花をながめて
 愛しいあなたも、仏の教えにはあまり関心がないように思っておりましたが、実はそんなことはなくて、深く思いをめぐらして、決して散ることのないみ法(のり)の花をながめておられたのですね。

 和歌が、式子内親王にとってどれほど重要な意味を持っているかを知っている慈円だからこそ、和歌を通して、和歌の言葉で語りかけようとしたのでしょう。
 これが、「詠百首和歌」が、いかに式子内親王への深い理解から考え出されたか、前節①、②の説明となります。