式子内親王と慈円の恋 19(3)

繰り返す人生の困難と、その突然の終わり

建久七年の政変 2

●式子内親王の追放処分の位置づけ

 建久七年の政変は、九条任子(後鳥羽天皇中宮)が内裏を去った11月24日にクライマックスを迎えましたが、その序盤戦は、園城寺の衆徒蜂起をきっかけとして、5月の真手結(まてつがい)事件、最勝講事件へと展開しています。最初から兼実の劣勢は明らかでした。兼実は、九条家の存亡をかけて見えない敵(実は源通親)と戦わなければなりませんでしたが、通親を倒すのに何よりも必要だったのは、後鳥羽天皇を自分の側に引き込むことでした。娘の任子が入内した文治6年(建久元年)、あれほど近い場所にいた後鳥羽天皇が、今や通親に取り込まれて通親の言うがままに自分を失脚させようとしているのかもしれないのです。一族以外に頼みとなる有力な貴族もすでになく、家臣達に対する統率力さえも失いつつある苛(いら)立ちと焦(あせ)りが、兼実をさらに追い込んでいきました。6月10日、定家は兼実から出仕しないことを厳しく責められました。ところがその6日後、今度はねぎらいの言葉と共に荘園を賜(たま)わっています。定家に対する譴責(けんせき、過失をとがめること)と懐柔(かいじゅう、手なずけること)からも、兼実の動揺が伝わってくるようです。そして、この夜、式子内親王御所で鶏鳴事件が発生しました。

 ここからは、私の想像です。
 今や、関白といっても形だけの権威しか持たない兼実が、一挙に情勢を逆転させるためにできることは謀略しかありませんでした。後鳥羽天皇を味方につけ、通親を失脚させるために、怨霊やお告げや呪いの噂を意図的にばら撒(ま)くことです。この手法は、保元の乱の前夜、兼実の父親である藤原忠通(ただみち)が待賢門院を失脚させるために使っただろうと言われています。兼実自身も、おそらく八条院殿から式子内親王を追放するために使ったのではないかと推測されます。そして、これが成功して式子内親王は八条院殿から退出しています。

 折しも世間では、後白河院のお告げが人々の噂になっていました。兼実は、これを式子内親王が仕組んだ陰謀として新たな噂を流しました。その内容は、式子内親王の、大炊御門殿に対する執着と中宮任子に対する嫉妬でした。式子内親王は呪詛事件で一度嫌疑がかけられた過去がありますから、この噂は信憑性(しんぴょうせい、確からしさ)を帯びて世の中に喧伝(けんでん)されたことでしょう。
 
 兼実はそれから、式子内親王の背後には源通親がいる、という噂を流した、あるいは流そうとしました。通親が式子内親王と結託したのは、中宮任子の内裏での立場を落とすこと、つまり、後鳥羽天皇の寵愛が薄れることを狙(ねら)ったから、という筋書きです。
 通親は、後妻の源範子の連れ子である在子(後の承明門院)を、後鳥羽天皇の女房として宮仕えをさせていましたが、その在子が後鳥羽天皇の第一皇子(為仁、後の土御門天皇)を前年の12月に出産していました。為仁の皇位継承を望んでいた通親にとって、中宮任子は確かに邪魔な存在でした。中宮任子は、前年の8月に第一皇女(昇子内親王)を出産していましたが、次に、任子に男子が誕生すれば、皇位継承者は為仁ではなく任子所生の皇子となるだろうからです。通親がこれを妨害しようとして、後白河院と式子内親王の名前を利用して中宮任子を脅(おど)そうとした、というストーリーを、兼実は考え出したのではないでしょうか。 
 
 古風で手の込んだ展開ですが、後鳥羽天皇を味方に引き込んで、通親の機先を制さなければあとがない兼実としては、手っ取り早く一番都合のよい選択肢だったのかもしれません。しかも、証拠が残らず兼実の姿は誰からも見えません。
 これが、なぜ兼実が式子内親王を洛外追放処分にしなければならなかったのか、という問いに対する私の答えです。式子内親王は、ただ便利な手段として利用されたにすぎません。鶏鳴事件、洛外追放処分を調べれば調べるほど、そこには隠された真実や、どろどろの確執(かくしつ)などはなく、偽りの噂によって無実の人間が簡単に犯罪の加害者となる、あっけないほどの軽さがあるだけでした。
 

●後鳥羽天皇が通親のクーデターに賛同した

ここで、後鳥羽天皇が、なぜ源通親が主導した建久7年の政変に賛同したか、その理由について詳しく述べたいと思います。

兼実との訣別(けつべつ)

 まず、感情的な問題として、後鳥羽天皇が兼実に不快感を抱いたある事件が考えられます、建久6年(1195)元日に、後鳥羽天皇の母である七条院殖子(しょくし)のもとに左大臣以下の公卿たちが拝礼のために参入した時に、関白である兼実が、あえて七条院への拝礼を拒(こば)んだという出来事がありました。兼実はその日の日記「玉葉」に、二つの理由を記しています。一つ目は七条院殖子が諸大夫(しょだいぶ、家司・家令として摂関家に奉仕する家格の者)の娘であり、兼実の父忠通も51年前に諸大夫の娘である美福門院に拝礼を拒否したからというもので、二つ目は、七条院殖子が夫である高倉上皇と生前同居していなかったことが、慣例として、国母としての資格を欠くから、というものでした。16歳の後鳥羽天皇は、生母七条院を見下した兼実の無礼にさぞかし憤激したことでしょう。
 兼実は、翌建久七年の元日には、さすがにまずいと思ったのか、息子の良経と共に七条院に拝礼していますが、一度失った信頼を取り戻すことはできませんでした。

八条院皇室領の保全

 次に、後鳥羽天皇が、兼実失脚に賛同したことの大きな理由としてもう一つ考えられるのは、財政的な問題です。それは、亡き後白河院も気にかけ、兼実も執着していた八条院暲子所領の相続、とりわけ皇室領の相続に関わることです。後鳥羽天皇が若年(じゃくねん)ながら、それまでの八条院所領の相続についての経緯(けいい)を認識していたことは、驚くべきことですが、もしかしたら通親が後鳥羽天皇の指南役(しなんやく、教え導く役割の人)を務めていたのかもしれません。

 兼実の娘、任子所生の昇子内親王についての年表をご覧ください。

 後白河院が皇室領としての長講堂領を護(まも)るために、高階栄子所生の覲子(きんし)内親王(宣陽門院)を不婚内親王としたうえで、12歳の覲子(きんし)にすべて譲渡したことは、19章(1)の高階栄子のところで説明したとおりです。それと全く同じことがここでも行われています。

 昇子の場合は、1歳(年齢の表記は数え年です。)で内親王宣下、そして八条院暲子との猶子(ゆうし)の取り決め、翌年1月の八条院暲子の病気危急に合わせたように、わずか2歳での准三后宣下、これだけでもすでに不婚内親王への皇室領譲渡の条件が満たされている状態です。さらに、昇子内親王14歳の時の、守成親王(当時、皇太弟だった順徳天皇)の准母(じゅんぼ、天皇の母に準ずる地位)皇后の立后(りっこう)は、その皇室領を次に相続するのは守成親王(順徳天皇)であること*を示しています。翌年15歳での女院宣下は、皇室領相続のための不婚内親王の基盤が完成したことを意味するものでしょう。 
 そして、建暦元年(1211)の八条院暲子死去に際しては、計画通りにその所領のうち皇室領に関しては、すべて昇子内親王に譲渡されました。
 *実際には天皇は荘園を所有することができないので、その後院領(ごいんのあずかり)は院領として上皇(後鳥羽院)が管理することになったと考えられます。

 この昇子内親王に伝領された八条院皇室領は、昇子内親王の死後、順徳天皇へ相続され、承久の乱を経て、後高倉院(高倉天皇第二皇子、後鳥羽天皇同母兄)、安嘉門院(あんかもんいん、後高倉院皇女)、亀山院へと伝領され、その後、後醍醐天皇に至るまで大覚寺統(だいかくじとう、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて、皇位についた皇室の系統で、持明院統と交互に天皇を立てた)の経済基盤になりました。

 ♦後鳥羽天皇が建久7年の政変で獲得したものの一つは、八条院皇室領でした。後白河院が式子内親王を相続候補として八条院殿に送り込んだものの、呪詛事件によって撤退を余儀なくされた、あの八条院皇室領です。
 余談ですが、その当時の式子内親王と11歳の後鳥羽天皇が会っていたのではないか、もしかしたら互いによく知っていたのではないかという可能性を、ここで述べておこうと思います。
 後鳥羽天皇が白河押小路殿に方違え行幸をした日付です。
①建久元年(1190)3月18日
②建久元年(1190)9月30日
③建久3年(1192)1月30日
 天皇の方違え行幸は、夜、亥の刻(いのこく、午後10時前後)頃に出御(しゅつぎょ、お出かけになる)し、暁鐘(ぎょうしょう、夜明け前の鐘)と共に還御(かんぎょ、お帰りになる)するのが慣例です。方違え先には、あらかじめ連絡をしてあります。方違え先の御所や寺、貴族の邸(やしき)に到着すると、主人役の役人や住職、当主などが出迎えます。
 白河押小路殿には、八条院殿から退出した式子内親王が仮住まいをしていました。式子内親王は、後鳥羽天皇の伯母(おば)にあたりますから、当然主人役として出迎えたはずです。日付に注目してください。①の建久元年(1190)3月18日は、式子内親王が出家して後白河院を激怒させた3月15日のわずか3日後です。(当ブログ題18章をご覧ください。)
 元服を終えたばかりの好奇心旺盛(おうせい)な後鳥羽天皇は、出家したばかりの伯母の内親王に会って話を聞くために、わざわざ白河押小路殿を方違え先に選んだのかもしれません。その後2回、後鳥羽天皇は白河押小路殿を方違え先として訪問しています。二人が何を話したのかはわかりませんが、ともかく遠い存在ではなかったということ、もしかしたら親しみを感じるような関係だったとしたら、後鳥羽天皇は、式子内親王が洛外追放処分という危(あや)うい立場に追い込まれたことを不愉快に思ったのではないでしょうか。
 

九条家から切り離された昇子内親王

 九条兼実にとって、孫娘の昇子内親王が八条院の猶子(ゆうし)となることは、八条院領を相続するための大きな切り札になるはずでした。しかし、後鳥羽天皇にとってもそれは同様で、将来、八条院皇室領の相続者となるはずの昇子内親王は、決して九条家に渡すわけにはいかない特別な役目を負った皇女でした。
 後鳥羽天皇は、母親の九条任子と祖父の九条兼実から、昇子内親王を切り離す必要がありました。それまで大炊御門殿と後鳥羽天皇の住む閑院内裏を行き来していた昇子内親王は、八条院暲子の猶子(ゆうし)となった建久6年12月5日に八条院殿に居所を移しました。しかし、八条院暲子の病気を理由に同日のうちに閑院内裏に移御しています。その後も昇子内親王は閑院内裏を御所としており、建久7年6月22日の行啓(大炊御門殿か)も突然中止になっています。承元(じょうげん)2年(1208)8月8日の准母立后からは、後鳥羽院御所の高陽院(かやいん)で後鳥羽院と同居していることが確認されています。
 後鳥羽天皇(譲位してからは後鳥羽院)と同居しているということは、昇子内親王が母親の任子(宜秋門院、ぎしゅうもんいん)と隔絶した環境で成長したということを意味します。折節(おりふし)に昇子内親王が任子の御所に行啓(ぎょうけい、外出)することはあったものの、任子が昇子内親王に会うために内裏に行くことはありえなかったのですから、この別居は双方にとって決して幸福なことではありませんでした。
 

 ♦この時代は、内親王という身分の高い女性であっても、所領保全の方策の犠牲となって、幼少期から不婚という運命を定められ一生を送ることを強いられることがありました。昇子内親王が17歳の短い生涯を終えた後、九条任子(宜秋門院、ぎしゅうもんいん)は、自らの院号、年官、年爵*を朝廷に返還しています。 
 これが何を意味しているのか想像の域を出ませんが、私には後鳥羽院に対する九条任子の怒りと絶望の表明のように感じられます。

 女院の称号を持つ任子には年官や年爵の権利が与えられていましたが、兼実が失脚した後は、任子の関与がないまま名義だけが闇の中で不当に使用されて、実際には何の収入にもならないことがあったという記述が、定家の「明月記」に書かれています。
 *年官は、皇族・貴族が保有していた官職推薦権。任官希望者から任料をもらい、希望者を斡旋(あっせん)した。また、親族や家司を任官させて経済的な恩恵を与える方法としても使われた。
 *年爵は、特定の人物に位階(主に五位)を与える権利で、希望者は叙料を納めることで位階を得ることができた。推薦者(皇族、院、公卿など)は、この叙料を自身の収入とした。