式子内親王と慈円の恋 19(2)

繰り返す人生の困難と、その突然の終わり

兼実と大炊御門殿

●大炊御門殿の役割

 時間が前後しますが、兼実と大炊御門殿の関わりをもう少し掘り下げてみたいと思います。
(溝口正人氏の「平安末期貴顕の住まいの様相-藤原兼実と冷泉万里小路殿をめぐって-」「大炊御門殿の殿舎構成とその特質-平安末期貴顕の住まいの諸相-その2-」を参考資料とさせていただきました。)

 後白河院領大炊御門殿は、大内裏を東西に横切る大炊御門大路(おおじ)に面して幾つもの里内裏、院御所、貴族の大邸宅が立ち並ぶ由緒ある地域にあり、後鳥羽天皇の里内裏*である閑院御所からも近く、摂政兼実の主要な邸宅となっていました。また、兼実の娘である任子(にんし、後鳥羽天皇の中宮)の里邸⁑としても使用されていました。
*里内裏(さとだいり)は、平安京の内裏である大内裏に対して、それ以外の邸宅を天皇の在所(皇居)として用いたものを指す。
⁑里邸(りてい)は、私邸のことで、特に公卿(くぎょう)が自身の私邸を指して言う。里は内裏に対する語として用いられる。

 大炊御門殿があった場所は、平安末期には後白河院の皇太后藤原忻子(きんし)の冷泉高倉御所となっており、これは安元3年(1177)の太郎焼亡によって焼失しました。藤原経宗邸になったと確認されるのは文治元年(1185)頃だそうです。経宗は後白河院の従兄弟(いとこ)にあたります。この、新築後それほど経っていないと思われる左大臣経宗邸を後白河院が取得して、文治4年(1188)8月4日に、九条兼実に居所として貸与しました。
 ところで、兼実に貸与する以前に、後白河院と後鳥羽天皇が大炊御門殿をどのように使用したのかをご覧ください。

 が後鳥羽天皇、が後白河院の使用を表しています。✕印は小の月で29日までしかない月です。
 使用の目的は、当時7歳の後鳥羽天皇の場合、4回が方違え行幸ですが、文治3年8月から11月までの長期使用は、後鳥羽天皇の里内裏として使われていた閑院御所の改修時に、大炊御門殿を代わりの里内裏として使ったものです。後白河院の場合は、文治2年7月7日だけが単発の訪問で、それ以外は院御所としての使用です。
 後白河院は、居住に不都合がないように殿舎を造り加えたということですが、使用の空白期間が続いているところは、そうした増築工事にあてられた期間かもしれません。

 この使用状況を見ると、大炊御門殿はかなり利用価値の高い邸宅として評価されたようです。評価しているのは、もちろん後白河院の方です。文永2年4月、まだ7歳(現在の6歳にあたる)だった後鳥羽天皇に、方違えの行き先として、左大臣経宗邸だった大炊御門殿を勧(すす)めたのは、おそらく後白河院ではなかったかということ、また、文治3年6月に、大炊御門殿に長期滞在中だった後白河院が今熊野神社に参籠したわずかな留守の合間を縫って、後鳥羽天皇の3日間の方違え行幸が行なわれたのも、文治3年8月から始まった閑院御所の改修の際の仮皇居として、後鳥羽天皇が3ヶ月にわたって使用したのも、その背後には後白河院の采配(さいはい)があったのではないかということを想像させます。
 大炊御門殿は当初、後白河院が後鳥羽天皇のために用意した方違え用の御所、あるいは閑院御所に何か不測の事態が生じた際の予備の御所という位置づけを持った邸宅だったのではないでしょうか。

 では、そのお気に入りの大炊御門殿を、後白河院が文治4年8月に九条兼実にあっさり提供したのはなぜでしょう。

●後白河院の構想

 後白河院と九条兼実は不和であったと言われていますが、文治3年から5年にかけては関係性が比較的良好でした。後白河院は、文治2年まで後鳥羽天皇の摂政だった近衛基通に代えて、鎌倉幕府が推奨する九条兼実を摂政として重用する方針に切り替えました。そこには、後鳥羽朝を安定させることと貴族階級の没落を食い止めるために、鎌倉幕府と協調をはかろうとする後白河院の意志が感じ取れます。

 兼実は、文治4年2月に長男の良通(よしみち)を亡くしました。夜間の原因不明の急死だったため世間は騒然としました。内大臣の座にあって将来を嘱望(しょくぼう、期待されること)された22歳の良通の死が、兼実に与えた衝撃と悲しみには計り知れないものがありました。しかも、それまで居住と儀式双方をまかなえる摂政公邸として兼実が使用していた冷泉万里小路殿(れいぜいまでのこうじでん)は、死者が出たために使用が不可能となってしまいました。その期間は、最短でも喪(も)が明けるまでの1年間だと推測されます。
 兼実は、洛中(らくちゅう、京都中心部)に冷泉万里小路殿の他に九条殿、角小路(かくこうじ)西邸など複数の邸宅を所有していましたが、後鳥羽天皇の里内裏である閑院御所からも近く、摂政公邸として改修整備してきた冷泉万里小路殿に匹敵(ひってき)する邸宅を短期間で探すのは、なかなか難しかったようです。その兼実に朗報が訪れました。後白河院が、何と大炊御門殿を提供してくれたのです。

 兼実は、文治4年8月4日、大炊御門殿に転居した日の日記「玉葉」に次のように書いています。
「転居先探しに難渋(なんじゅう)して、遠くて不便な九条殿にたまたま住んでいたところ、法皇(後白河院)が気の毒がって大炊御門殿に住むがよいとおっしゃってくださったのだ。誠に過分の恩をいただいたのである。」
 後白河院の「過分の恩」はそれだけではありませんでした。翌文治5年4月3日には、娘の任子に入内(じゅだい)の院宣がおりました。
「今日、戌の刻(いぬのこく、午後8時頃)定能(さだよし)卿が院宣を伝えてきた。余(よ、自分のこと)の娘の入内の事を後白河院が承知してくださったのだ。~中略~歓喜の思い、千迴(かい、回る、めぐる)萬迴(まんかい)なり。」

 文治5年3月25日、後白河院は権大納言(ごんのだいなごん)藤原実家(さねいえ)を伊勢神宮に遣(つか)わして「天下の静謐(せいひつ、静かで穏やかなこと)と、国土の豊稔(ほうじん、豊かで満たされていること)」を祈らせました。公卿勅使(くぎょうちょくし)として伊勢神宮に向かった実家(さねいえ)が、その役目を終えて京に帰って来たのが文治5年4月3日です。
 後白河院は、その間ずっと大阪の四天王寺に参籠(さんろう)していましたから、京に戻った実家(さねいえ)の報告を聞いてはいないものの、その日の夜8時頃に藤原定能(さだよし)を使者として、任子入内の院宣が兼実の住む大炊御門殿にもたらされたのです。

 この時期、後白河院は九条兼実に対して非常に好意的です。邸宅を貸与し、翌年の後鳥羽天皇の元服に合わせて兼実の娘の入内まで承諾しています。任子は摂関家の娘ですから、これは単なる女御(にょうご)としての入内にとどまらず正式に中宮となることを意味しています。将来的には、男子が誕生すれば九条家が天皇家の外戚(がいせき)になることまで視野に入っていたといってよいでしょう。

 こうして、大炊御門殿は摂政公邸としてだけでなく、任子入内の出立所(しゅったつじょ)、立后(りっこう)の儀など様々な儀式の場となり、また任子が内裏から方違え行啓(ぎょうけい、皇后、皇太后、皇太子、皇太子妃などが外出すること)などで退下する際の里邸として使われました。中宮任子の里邸としての役割は、時に兼実の摂政公邸としての役割を超えて重要視され、中宮御所としての施設の整備が重ねられていきました。建久6年の懐妊(かいにん)の際には出産にまつわる着帯(ちゃくたい)などの儀式や、安産祈願の御修法(みしほ)が執(と)り行われ、8月13日の皇女昇子(しょうし)出産の産所となりました。昇子内親王誕生後は、12月5日に昇子内親王が八条院の猶子(ゆうし)となって八条院殿を居所とするまでは、大炊御門殿が内親王御所としても用いられています。

 大炊御門殿が、当面は中宮御所として、将来的には後鳥羽天皇の里内裏として使用可能であると、後白河院が考えたのではないか、その結果、皇室と摂関家の関係が強まり、また九条家を通じて鎌倉幕府と皇室の関係も円滑になるのではないかという期待を持ったのではないでしょうか。その将来の布石として、後白河院が九条兼実に対して大炊御門殿を提供し、兼実娘の入内を促(うなが)したのではないだろうかというのが私の推測です。 

●兼実は後白河院の意図を汲(く)み取れなかった

 兼実は、後白河院の「過分の恩」に歓喜しましたが、その根底にある後白河院の真意を推し量ることができませんでした。後白河院には、戦乱の世が余りにも長く続いたことへの反省と、敗者となって無惨(むざん)な最期を遂げた怨霊(おんりょう)に対する恐れ、武家政権に取って代わられる危機感がありました。後白河院が兼実を優遇する行動の裏には、「天下の静謐と(せいひつ、静かで穏やかなこと)と、国土の豊稔(ほうじん、豊かで満たされていること)」への願いがあったはずです。
 しかし、兼実は知ってか知らずか、この後白河院の意図に応えることはなかったように見えます。大炊御門殿を貸与された文治4年8月から後白河院が亡くなる建久3年3月に至るまで、兼実にとっては、娘の任子に皇子が誕生すること、そして外戚(がいせき)となって藤原道長のような栄華を実現するということが人生最大の目的へ変貌していました。また一方では、八条院暲子の膨大な所領の相続を視野に入れて、潜在的に後白河院に対抗していました。

 後白河院が、頼朝の推挙を受け入れて九条兼実に摂政宣下を下した文治2年(1186)3月当初、兼実が目指したのは「政(まつりごと)を淳素(じゅんそ、素直で飾りけがないこと)に反(かえ)す*」ことでした。
*政道を、古(いにしえ)の聖代(優れた天子や皇帝が国を治める、めでたい時代)のような民に恵みをもたらす真心のこもった治世へと回帰させること
 理想を掲(かか)げ政務に邁進(まいしん)していたはずの兼実には、一方で摂関家としての正当性を保障するために外戚(がいせき、天皇の外祖父)になることを望む気持ち、そして栄華を我が物にしたいという個人的な野望もあり、結局は政治の理想を追求することよりも外戚という名誉と栄華の欲望に呑み込まれてしまったのでしょう。大炊御門殿は、その目的を保障する後白河院の証文であり、中宮任子を介して後鳥羽天皇すなわち皇室に繋(つな)がる広く真っ直ぐな道に他なりませんでした。

●兼実が失ったもの

 文治6年(1190)に八条院殿で起きた呪詛事件の容疑が式子内親王に向けられたこと、その結果、式子内親王が八条院殿から退出したこと、建久元年(1190)3月に式子内親王が白河押小路殿で出家したこと、については、当ブログ18章で詳しく説明したとおりです。この呪詛事件が起きてから後白河院は、兼実に対して不信感と疑惑を抱(いだ)くようになったのではないでしょうか。

 加えて、建久2年(1191)11月5日の臨時除目(じもく、大臣以外の官職を任命する朝廷の儀式)で、後白河院が一条能保(よしやす)*の息子高能(たかよし)の中将補任(ぶにん)を再三要請したのに対し、兼実が頑(かたく)なにこれを拒否し昇進を中止させたという事件があり、これが後白河院を激怒させました。
*一条能保は、頼朝の同母姉である坊門姫を妻にしていた縁によって、頼朝の信頼を得て元暦3年(1186)京都守護に就任した。朝廷においても右兵衛督(うひょうえのかみ)を務めながら、文治4年(1188)従三位に叙せられ公卿(くぎょう)に列した。 

 有職故実(ゆうそくこじつ、古来の先例に基づいた朝廷や公家の行事、法令、儀式、装束などの知識)に詳しいという兼実の長所は皮肉なことに、形式や前例に囚(とら)われた政策、身分制度への執着、狭量な人事構想となって、貴族社会の反発や恨みをかうようになっていました。兼実には、鎌倉幕府との仲介役を果たしていた一条家との不和、初代関東申次(もうしつぎ)に任ぜられていた吉田経房との関係悪化など、鎌倉幕府との今後の関係において危惧すべき要素も多々ありました。
 生死を左右するような刻々と移り変わる政情と動乱の世を、40年近く生き抜いてきた後白河院の現実主義的な政治観と、兼実の教条主義的な政治観とは、真っ向から対立するものでした。後白河院の兼実への期待はたちまち消え去り、兼実は信望を失いました。後白河院は遺言という形で、兼実支持の方針を兼実不支持へと変更しましたが、そのことにさえ兼実は気づきませんでした。それどころか、後白河院の死去は、兼実にとって長い圧迫からの解放と政権の獲得を意味していました。

●遺言を軽視した兼実の不覚

 建久3年(1192)3月13日の後白河院の死去に伴(ともな)って遺言が発表され、式子内親王に、大炊御門殿が譲渡されました。後白河院から貸与され、すでに関白家公邸としてのみならず、後鳥羽天皇の中宮任子の里邸としても用いられている大炊御門殿を、事前の通告なしに遺言という形で明け渡しを求められたのですから、兼実もうろたえたことでしょう。兼実は、朝廷に問い合わせました。右大臣兼雅の回答を、兼実が自身の日記「玉葉」に記しているので、第8章1でも記載していますが、もう一度ご覧ください。

「玉葉」建久3年(1192)5月1日
右大臣云、公家御沙汰、法住寺萱御所、若西八条泉御所等、斎院暫御座、尤可然、但彼宮事不能進退、可被觸仰戸部云々、

 右大臣(花山院兼雅)が言うには、「朝廷の意見として、斎院(式子内親王)は法住寺萱御所または西八条泉御所等に、しばらくお住みなさるのが、もっともよろしいのではないでしょうか。ただし、彼(か)の宮(式子内親王)は、ご自分では何も決められないでしょうから、後見人である戸部(こぶ、民部卿の唐名、ここでは藤原経房を指す)に命じて取り計らうのがよろしいでしょう。」ということだった。

 右大臣兼雅が、大炊御門殿を式子内親王に明け渡すように九条兼実に勧(すす)めなかったのは、もっともです。なぜなら、明け渡しということは、後鳥羽天皇の中宮任子に対して里邸から去るよう促(うなが)すことに他ならないからです。兼雅は、後鳥羽天皇の朝廷における右大臣という政治的立場ですから、後鳥羽天皇の中宮(任子)を故院の皇女(式子内親王)より優先したのです。

 兼実もこれで安心しました。朝廷から明け渡さなくてよいという回答があったのですから、これ以上何を心配する必要があるでしょうか。兼実の考えは、大炊御門殿は任子が後鳥羽天皇の中宮となった建久元年(1190)4月以来、任子の里邸となった、今後は後鳥羽天皇の、あるいは次期天皇の里内裏になる可能性もある、大炊御門殿は、元来皇室の所領なのだから、天皇の意向が最も優先されるべきである、ということだったと思います。これは、右大臣兼雅の意見と一致するものでした。

 同日の「玉葉」には、式子内親王側が藤原経房を交渉役に立てて、九条兼実に大炊御門殿を返還するように申し入れたことも記されています。兼実は、朝廷の回答をそのまま経房に伝えたようです。

「玉葉」同日条
経房云、日来可申事由旨、頗有仰、然而依無心不申出、今有此仰、早申彼宮可申御返事、若可渡御者、五月有忌、六月可渡給云々、

 経房が言うには、(式子内親王から)日頃よりこの件について(兼実に対して)事情を説明してこちらの要望を申し入れるように、ずいぶんと仰せがありました。そうは言いましても、無遠慮なお願いであるように思いまして申し出るのをためらっておりました。只今、殿下(兼実)からご返事をいただきましたので、早速、彼(か)の宮(式子内親王)に、殿下にお返事なさるように申し上げるつもりです。もし、(式子内親王が)代替え案のいずれかの御所にお渡りしたいと望まれた場合は、五月はまだ忌中(きちゅう、葬式から四十九日間)ですから、六月になってからお渡りできるようにしていただくのがよろしいかと存じます、ということだった。

 兼実の回答を受けて、経房は、代替え案の法住寺萱御所や西八条泉御所を視野に入れて「できれば6月中には内親王がお渡りできるようにお願い申し上げます。」と申し入れています。経房としても、大炊御門殿が中宮の里邸であることを承知していますから、これ以上強くは要求できなかったのです。
 次の日(5月2日)は、後白河院の中陰(ちゅういん、故人の命日から四十九日までの期間)が明けて、内親王たちが後白河院臨終の地である六条殿を去りそれぞれの御所あるいは別邸に戻る日でした。式子内親王は、それまで使用していた白河押小路殿が姉の亮子内親王に譲渡されたことで帰る場所を失ったため、一時的に経房の吉田亭に移りました。

 しかし、その後、式子内親王が、法住寺萱御所や西八条泉御所への移転を選ぶことはなかったと推察されます。そう考える理由は、経房が、自分の別邸である吉田南亭を内親王の居所にふさわしく造り変えて、式子内親王の新しい御所、勘解由小路殿(かでのこうじでん)としているからです。式子内親王が勘解由小路殿に移り住んだのは、経房が兼実と会談した2ゕ月後の7月21日のことでした。経房は、式子内親王を説得できなかったのです。
 なぜ、式子内親王は朝廷が提案した別の御所に転居することを拒(こば)んだのでしょうか。それは、式子内親王が後白河院の遺言の意図を理解していた、そして後白河院の遺志を尊重したからではないかと私は考えます。

 式子内親王は、当時44歳です。動乱の時代を生き延びるために度(たび)重なる避難を経験し、呪詛の嫌疑をかけられて居場所である八条院殿から退出させられるという苦(にが)い目にもあっています。将来的な没落の危機から自分を守るために、父後白河院の意向に背(そむ)いて出家するという行動さえ選び取っています。もはや深窓(しんそう、世間知らずで純真な上流階級の女性が住む部屋)の姫宮という無垢(むく)な存在ではありません。呪詛事件の首謀者が兼実であること、彼の目的は、八条院所領の相続権を有する人間を一人ずつ排除することだ、と式子内親王は気づいていたはずです。

 もし、式子内親王が大炊御門殿の伝領を放棄して、朝廷(=兼実)の提案を受け入れ別の御所に転居していたならば、後白河院が遺言という形で自分の近臣達に投げかけた「兼実を大炊御門殿から追放せよ」という遺恨のメッセージは骨抜きにされ無意味なものになっていたでしょう。けれども、式子内親王が選んだのは、兼実の提案を拒否して経房亭にとどまり、兼実が大炊御門殿の明け渡しをするまで、沈黙という形で後白河院の遺言が執行されるのを待つことでした。

 この時、式子内親王は反兼実という立場を無言のうちに表明したといえるでしょう。式子内親王の拒否は、おそらく人生で初めての政治的な自己主張であり、周囲が意識するとしないにかかわらず、後白河院旧近臣派側に立った、ということを意味するものです。

 一方の兼実は、朝廷の回答を得て安心しきって大炊御門殿に住み続けていました。式子内親王の拒否と沈黙に対してかすかな疑念と不安を感じたとしても、兼実がそれを振り払い無視することができたのは、朝廷の、公家の御沙汰(こうけのおんさた)があったからです。

建久七年の政変

●兼実の凋落(ちょうらく)

園城寺衆徒が四天王寺別当職を求めて蜂起した

 兼実の硬直した政治姿勢に対して、貴族社会の反発が次第に高まってきた建久7年(1196)の4月に、一つの事件が勃発(ぼっぱつ)しました。園城寺(おんじょうじ)衆徒(しゅと)の蜂起(ほうき、一斉に行動を起こすこと)です。
 (以下は大日本史料第四編之五、建久七年四月十八日の条、「寺門高僧記」等を参照しています。)

 園城寺長吏(ちょうり、大寺院の統括者)と四天王寺別当の両方の役職を担(にな)っていた定恵(じょうえ)法親王(ほっしんのう)(後白河院第五皇子)が、この年の4月18日に死去しました。それに伴って、園城寺長吏には静恵(じょうえ)法親王(後白河院第八皇子)が、四天王寺別当には権少僧都(ごんのしょうそうず)法円(後の桜井僧正、父は以仁王)が補されました。

 これに異を唱えたのが兼実です。兼実は関白という権力を行使して、四天王寺別当に実弟の慈円を任命するべく内々に取り決め、園城寺において長年守られてきた慣例を断ち切ってしまったのです。その慣例というのは、四天王寺別当は、園城寺の三門跡(さんもんぜき)の一つである円満院(別名、平等院とも言う)の出身者から選ぶ、というものでした。過去に鳥羽上皇と後白河院、二代の院宣が出されて、これを保障していましたが、関白兼実がそれを黙殺して、九条家一族の出世と名誉のため延暦寺の慈円を任命したとして、園城寺の衆徒が抗議の声を挙げて蜂起したのです。兼実を非難し罵倒(ばとう、ののしること)する、園城寺の衆徒を説得できないまま、兼実は、同年7月、当面の措置として、八十歳という高齢の法務前大僧正(ほうむさきのだいそうじょう)実慶(じっけい、桂園院または常光院の出身。三門跡のうちの聖護院派か)を四天王寺別当とするとしました。これが、園城寺の衆徒をさらに激怒させました。
「四天王寺別当職を園城寺の平等院(円満院のこと)に付(ふ)せしむ、という二代の院宣に背(そむ)かないでくれ、と要求しているのに、なぜ度(たび)重ねて我々を怒らせるようなことをするのか」と天を仰(あお)ぎ地を叩(たた)いて号泣し、散り散りになってその場から引き揚げ、寺の扉を閉ざして、鐘を撞(つ)かず、学窓に人無く、時世に従うことなく空しく廃(すた)れるまま、という事態に至ったということです。

 その後の顚末(てんまつ)を述べますと、まず、この事態を収拾するために、鎌倉の源頼朝が動きました。
 頼朝は、寿永元年(1182)、鶴岡八幡宮の初代別当として園城寺の円暁(えんぎょう)を京から呼び寄せていました。円暁は、頼朝の従兄弟にあたる僧侶です。この円暁が、園城寺の衆徒に向けて、
「皆様のお嘆きはもっともですが、時節を待てば良い知らせもあるでしょうから、ともかく散り散りになった方々を集めて皆が寺に帰り、天下の泰平(たいへい)を祈り奉(たてまつ)っていただきたい、」と敬意を込めた書状を何度も書き送って丁重に諫(いさ)めたので、園城寺の衆徒は仕方なく怒(いか)りを収(おさ)めて寺に帰り住みました。

延暦寺衆徒が四天王寺別当職を要求する奏状を提出した

 しかし、兼実と園城寺のトラブルが解決したわけではなく、高齢の実慶が四天王寺別当に就任するのもまだ実現していない10月28日に、またもや難問が持ち上がります。
 今度は、四天王寺別当職に一度は延暦寺の慈円を任じたにもかかわらず、園城寺の抗議にあって、あえなく話が立ち消えになったことを不満に思う延暦寺の衆徒が、四天王寺の本山は元来、延暦寺なのだから、別当職は延暦寺から出すのが筋である、延暦寺の末寺である園城寺の僧を任命するのを取りやめ、延暦寺の高僧を任命するように申し入れる、との奏状を提出してきたのです。

後鳥羽天皇の勅定(ちょくじょう、天皇が自ら定める決定)

 園城寺と延暦寺の両方から責められて兼実は窮地に陥(おちい)りました。元はと言えば兼実が、鳥羽上皇と後白河院という歴代の院宣があるのを無視して、一族の権益を優先した人事を強行したのが原因です。しかも、弟の慈円は比叡山座主の立場にあるのですから、これ以上両寺の争いが紛糾すれば、慈円もまた責任を問われることになります。鎌倉幕府も事態を憂慮して、円暁の書状をもって善後策に介入してきていました。
 追い詰められた兼実の窮余の策が、後鳥羽天皇の勅裁(ちょくさい、天皇の裁決)を仰ぐことでした。後鳥羽天皇の蔵人(くろうど、天皇の秘書的な役割を果たしていた)を務(つと)めていた藤原長兼は、同時に九条家の家司(けいし)でもあったのですが、その日記「三長記」に、次のように記(しる)しています。 

 11月2日、丁丑(ひのとうし)、(天皇より)お召があったので内裏に参じた。殿下(兼実)が(天皇に)申し上げてくれとおっしゃっている衆徒の件について次のように申し上げた。
「(延暦寺の)衆徒が、四天王寺の別当職を延暦寺の僧の中から任命してくれと訴えております。しかし、この訴えを聞き入れるのは大変難しいことだと殿下は申しております。なぜなら、園城寺の衆徒が、(代々園城寺の僧が任じられているではないかという)不満と非難で騒ぎ立てる恐れがあるからです。この問題を収めるためには、勅定(ちょくじょう)をいただくしかない、と殿下は申しております。」
 「四天王寺は、これからもずっと三井寺(みいでら、園城寺のこと)の末寺(まつじ)とするがよい、」と後鳥羽天皇が仰せられた。
 「すべての寺が一つだけの寺(延暦寺のことか)に属するのはよくないと、この前の園城寺の訴訟の時に言いおいたことだ。今また、(四天王寺を)延暦寺の末寺にせよとの重ねての奏状は謂(い)われのない(理由がない)ことではないか」との仰せだった。
 次に、殿下(兼実)の許(もと)に参じて、殿下に、この趣旨をもって延暦寺に申し伝えよ、との後鳥羽天皇のお言葉を申し上げた。山門(さんもん、延暦寺のこと)の所司(しょし、ここでは寺務をつかさどる役僧)が後から加わった。殿下は、(天皇のご命令であるとして)その勅定を山門(延暦寺)の所司に言い渡したのである。

 この一連の事件によって、兼実の関白としての権威は失墜(しっつい)しました。天皇の政治を助けるはずの関白が、逆に17歳の若い天皇に助けられたのです。
 建久七年の政変の原因は、摂関家と旧院近臣派との権力抗争に、後鳥羽天皇の皇子誕生による皇位継承の問題や、頼朝の娘の入内計画などが複雑にからんだものと言われています。そこに勃発(ぼっぱつ)したこの園城寺の衆徒蜂起は、兼実の失態が白日の下(もと)に晒(さら)された事件であり、また僧侶社会のヒエラルキー(階層構造)を形成しているのは、大多数が貴族社会の子弟達であることから、上流、下流を問わず貴族達にとって関心の高い社会的な事件でした。その意味で、兼実から政治的に圧迫を受けてきた源通親らが、この機を逃さず、兼実の関白罷免(ひめん)を企てる反撃をじわじわと始めたきっかけとなった出来事と考えてよいと思います。

 参考までに、八十歳の実慶は、建久七年の政変が収束した同年12月16日に、四天王寺に入り別当に就任したことが「三長記」に記されています。彼はその後11年間、長寿を保ち、別当として四天王寺を治めたということです。(「法家相承次第」による)

●建久7年4月から6月までの九条家にまつわる微妙な動き

左近衛府の真手結(まてつがい)

 5月5日に定家が、左近衛府(さこのえふ)の真手結(まてつがい)を奉行(ぶぎょう、担当して執り行う)しました。真手結は、射手(いて)を左右一人ずつ番(つが)わせて競わせる近衛府の行事で、この時の左近衛大将が九条良経(兼実の息子)、左近衛少将が定家でした。この行事が成り立たなかったのです。
 まず、射手が一人も来ていない、急いで参るように命じたが、姿を見せても言い逃れをして誰も競技に参加するしない、さらに強く命じるも、騎馬で進むだけ。あるいは馬を馳(は)せて通り過ぎる、あるいは行方をくらます。饗応(きょうおう、他人を酒食でもてなす)の酒に手をつけるものも誰一人いない、という奇怪なありさまでした。
 翌日は、右近衛府(うこのえふ)の真手結(まてつがい)が催(もよお)されたので、定家が密(ひそ)かに見に行くと、こちらはとりたてて異変がなかったようです。
 左近衛の真手結が失敗したのは、何者かによる九条家一門に対する嫌がらせとも考えられます。

最勝講の法会(ほうえ)

 5月23日から27日まで、宮中(閑院内裏)の清涼殿で最勝講の法会(ほうえ)が催(もよお)されました。最勝講は、毎年5月に吉日を選んで5日間、開かれる法会(ほうえ)です。東大寺、興福寺、延暦寺、園城寺の四大寺の僧を召して、朝夕二座、金光明(こんこうみょう)最勝王経を講じさせて、天下泰平、国家安穏(あんのん)を祈りました。
 この最勝講初日の朝座と夕座、2日目の夕座にも、園城寺の僧が、講師の僧を問い詰める役の問者(もんじゃ)に割り当てられていました。兼実は、これについて、「(園城寺に)二度も続けて問者を割り当てた後に、(三度目にも)園城寺を問者として、ことさらに愚痴や恨み言を言わせるとは、まったく悪意があるとしか思えない。」と、彼の日記「玉葉」に怒(いか)りをつづっています。
 4月18日の園城寺の衆徒蜂起があってその熱も冷めやらぬ時期に催された清涼殿での法会で、園城寺の問者はここぞとばかり参列している上級、中級貴族達に向かって、今回の蜂起における園城寺の正当性を訴えるデモンストレーションをしたのかもしれません。

 そして、初日の夕座が終わった後に、おかしな事件が起こりました。定家の明月記によると、ある人からの伝聞としてこう書かれています。
 ある相公(しょうこう、参議の唐名)が座(公卿の座か)から立ち上がらなかった。上の身分の者が立つように促(うなが)しても何事かわからないような態度で、しばらく立とうとしない。出居の座(いでいのざ、接客時に臨時に設けられる)の世話役から教え諭(さと)されて立ち上がったということだ。
 2日目の夕座が終わった後も、初日と同様のことが繰り返された。今度は二人の相公が立ち上がらなかった。上の身分の者が促(うなが)して立つことは立ったが、二人は立つ時の作法としての礼さえもしなかった。同日、参列していた公継(きんつぐ)卿は、ちゃんと始めに礼をして立ち上がったそうだ。

 2日目に、もう一人、問題を起こした人物がいます。
 ある亜相(あそう、大納言の唐名)が笏(しゃく、貴族が正装した際に威儀をただすために右手に持った細長い板)を床(ゆか)に落とした。それから、座に敷いてある畳の上を(ずかずかと)歩いて、北に向かって座ったということだ。
 両手で笏を持ち深々と礼をしたが、(余りにも腰を折りすぎたので)冠(かんむり)の巾子(こじ、まげを入れるための高く伸びている部分)が、長押(なげし、柱と柱の間に水平に取り付けられた横木、ここでは下長押)にぶつかってしまったそうだ。(「明月記」より)

 定家は、この話をある人から聞いて不審に思い、最勝講を奉行(ぶぎょう)した平知範(たいらのとものり)に問い合わせて、5日間の記録を取り寄せています。しかし、定家はその記録について感想や意見を何も記(しる)していません。
 ここからは、定家の記述と知範の報告書を読んでの私の考えを述べたいと思います。

 知範の報告書によると、初日に最勝講に参列した相公(しょうこう、参議)は2名、藤原雅長と花山院忠経です2日目に参列した相公は5名、花山院忠経、源兼忠、藤原実明、中山兼宗、徳大寺公継です。両日共、参列した相公は花山院忠経だけですから、初日と2日目に立たなかった相公は忠経であることは明白です。忠経は、右大臣兼雅の長男で参議になってから3年目ですから、最勝講での作法を知らなかったはずがありません。忠経の行動は、あえて意図的になされたものと考えられます。
 2日目に立たなかったもう一人の相公は、作法通りに立った徳大寺公継(きんつぐ)を除くと、源兼忠、藤原実明、中山兼宗の3名のうちの誰かですが、この中で最も可能性があるのが中山兼宗です。中山兼宗は、右大臣兼雅の年下の従兄弟で、忠経の10歳上の叔父にあたります。ただし、昇進が遅かったので参議として清涼殿の最勝講に参列したのは、この時が初めてです。花山院兼雅は、元後白河院の近臣で建久七年の政変後は右大臣から左大臣へと昇進していますから、源通親寄りの人物と考えられます。この最勝講には、右大臣として初日と最終日に参列しています。自分の息子と年下の従兄弟に反兼実の示威行為をさせたと考えられなくもありません。ちなみに政変後は、忠経が権中納言に昇進し、兼宗は従三位(じゅさんみ)に叙せられています。

 次に、2日目に問題を起こした亜相(大納言)について考えます。この大納言は、4回マナーに反する行為をしています。まず、威儀(いぎ、威厳のある態度)をただすために持っている笏(しゃく)を不用意に床(ゆか)に落としてしまいました。それから、一つずつ並べて敷いてある畳(半畳くらいか)の上を踏みつけて歩きました。また、大納言は身分が高いので、ここでは西向きに座るのが通例なのに、北に向かって座ってしまいました。北に向かって座るのは、相公(参議)の座り方です。最後に、御簾(みす、格式の高いすだれ状の間仕切り)の向こうの天皇に礼をしたのはよいのですが、あまり深く腰を折りすぎて巾子(こじ、冠の上部)を下長押(しもなげし)にぶつけてしまいました。

 この日、参列した大納言ないしは権大納言は二人います。粟田口忠良(あわたぐちただよし)と源通親です。
 粟田口忠良は、兼実が摂政に任じられる前に摂政を務めていた近衛基通(このえもとみち)の異母弟です。兼実が叔父で、基通、忠良の兄弟は甥(おい)にあたります。しかし、親しい交流はなく九条家と近衛家は、藤原氏の氏長者(うじのちょうじゃ)の地位をめぐって睨(にら)み合う複雑な関係にあります。兼実が失脚すれば、近衛基通は次期関白の最有力候補となります。その意味で忠良は反兼実といえるでしょう。ただ、忠良は出仕にあまり積極的ではなかったので大納言の官位を取り上げられそうになったほど、政治的な関心も野心も持っていなかったようで、むしろ歌人として評価の高い人物です。ですから、ここで奇行を演じたのは忠良ではないかもしれません。

 もう一人の亜相(大納言)は、建久七年の政変の主導者であると考えられている源通親です。問題の亜相が通親だとすれば、宮中の清涼殿での儀式の最中に、こんな不作法な態度をとる必要性があるでしょうか。一つだけあるとすれば、有職故実(ゆうそくこじつ、儀礼、作法などの慣例についての学問)をひたすら重んじ、旧来の身分制度に頑(かたく)なにこだわる兼実に対する、公衆の面前での侮辱と嘲(あざけ)りです。この亜相は、兼実を挑発(ちょうはつ)しています。摂関家の権威を恐れることなく、揺さぶりをかけています。もし、この時点で通親が、後鳥羽天皇を味方につけ、右大臣兼雅を始めとする有力な貴族達と連携し、中級下級の貴族達の人心を掌握(しょうあく)していたとしたら、有り得ない話ではありません。

 二人の相公の不作法と一人の亜相の不作法は、源通親と花山院兼雅(実際には忠経と兼宗)が打った芝居だったかもしれません。この時、御簾の向こう側に座っていた後鳥羽天皇も、すべて知った上での見物だったかもしれませんし、この場にいた公卿、貴族達の半分以上が、何が起こっているのかわかっていたのかもしれません。なぜなら、亜相も二人の相公も特に咎(とが)められることなく、最勝講は申の刻(さるのこく、午後4時頃)に何事もなかったかのように終了しているからです。
 そして、御簾の向こう側の天皇の傍(かたわ)らには、兼実が控えていました。もし、この想定が当たっていたとすれば、不意討ちをくらった兼実は、驚きと怒(いか)りで震(ふる)えていたのではないでしょうか。

定家の沈黙

 定家は、5月5日の失敗に終わった左近衛府の真手結(まてづかい)の翌日に、右近衛府の真手結(まてつがい)を密かに偵察(ていさつ)に行きました。また、5月23日から清涼殿で始まった最勝講で起きた不審な動きについて、儀式の実行役である平知範から報告書を取り寄せています。それにもかかわらず、定家は沈黙しています。さらに不思議なことは、定家が九条家への出仕を異常に控えていることです。5月は29日(小の月)のうち、出仕したのは、わずか3日です。6月は29日(小の月)のうち、15日の出仕です。

 定家の沈黙と九条家への出仕自粛の理由は、4月の園城寺の衆徒蜂起から始まった一連の出来事が、武力衝突こそないものの、定家が青年時代に体験した治承・寿永の乱という大きな嵐の、その前兆として起きた数々の小さな事件を彷彿(ほうふつ)とさせるものだったからではないでしょうか。

 「世上乱逆追討、雖満耳不注之、紅旗西戎非吾事」(世上の乱逆とその追討の知らせは日々人々の関心をあおり騒がせているが、それについて私が語ることは何もない、朝廷の紅旗をなびかせて反逆者達を征伐することは、私にはあずかり知らぬことだ。)

 
定家が、後年「白氏文集」(はくしもんじゅう、白居易の詩文集)を典拠として作った漢詩の一節です。人生を和歌の道に捧げることを決意した19歳の時の心境として、「明月記」に補筆されたのではないかと言われています。定家の生涯で何度もその胸中に去来したであろうこの言葉が、この時も彼を政情不安の渦中(かちゅう)から遠ざかるように促(うなが)したのかもしれません。