式子内親王と慈円の恋 12

千載和歌集

千載和歌集に見る和歌と仏道との関わり

千載集は、その配列、詞書(ことばがき)、文脈が、歌人達の人間関係、事件、人生の、歴史の証言として読み取れるような細心の工夫をもって編纂(へんさん)された和歌集です。季節の推移や、繰り返される人間の営みが、移り行くテーマに沿って、時代ごとの意識の変遷を見せながら、なだらかに展開していますが、とりわけ当代(同時代)の歌人達の歌からは、戦乱に明け暮れ末世(まっせ)と言われた平安末期に生きた人々の、死生観や、美意識といったものを見てとることができます。

阿弥陀如来に救いを求めて、極楽浄土に往生することを願う浄土教の広まりが、この時代の人々の主潮であったと言ってよいと思いますが、それが和歌と結びつくことによって、和歌の世界に新たな動きが生まれました。

それは、歌人であり僧侶でもある歌僧(かそう)の台頭です。それまでは、僧侶でありながら恋の歌を詠むのは、仏の道に背(そむ)く不謹慎なことだという批判的見方がありましたから、僧侶が恋の歌を詠む例は少なかったのですが、千載集には多くの僧による恋の歌が並んでいます。

● そのことを可能にしたのは、一つには歌合等において、題詠が行われるようになったことです。題詠では、私的で直接的な感慨を和歌にするのではなく、提示された題で詠むことが求められます。必ずしも事実や実際の心情に即していなくとも、虚構を設定し言葉によって、美を、あるいは情趣を追求することが、和歌の創作法として認められるようになっていったのです。
実体験を踏まえた詠法では、もはや新たな情趣を見出すことが困難でマンネリ化しつつあった和歌が、実体験から離れた芸術作品としてみなされるようになったことで、詠み手の側の自由度も、詠まれる歌の自由度も格段に拡がりました。
たとえ事実を伴わなくとも、言葉によって、自然の美しさや、豊かな情感、あるいは人生に対する洞察といったものを、より深く表現できるならば、それは虚偽ではなく、言葉による真実の追求であり、和歌の果たすべき役割であると考える人々も現れました。千載和歌集を編んだ藤原俊成もその一人です。慈円もまた、その長い人生の折に触れて、同じ和歌観を表明しています。そして、俊成にとっても慈円にとっても、言葉による真実の追求とは、仏道とりわけ浄土教(阿弥陀仏のいる極楽浄土に往生することを願う教え)の思想と深く関わるものでした。


● もう一つは、仏教の思想にある煩悩即菩提(ぼだい)という考え方です。これは、現世において煩悩を断ち切ることは不可能だが、煩悩は菩提(仏の悟りの境地)を得るための重要な機縁である、煩悩と菩提は表裏一体の関係にある、という達観(たっかん、真理や道理を悟ること)です。
 煩悩の只中にありながら、煩悩を厭(いと)うべきものとして常に浄土を選択する、という生き方を実践するために、貴族や武士達の中には、官位を返上して、出家して山里に庵(いおり)を結び、孤独に耐えながら仏に仕えて経を読み、時には巡礼者となって、修行の日々を送る人々もいました。
 彼らは、自己の内面的葛藤や浄化の願いを述懐(じゅっかい、心中の思いを述べること)するために和歌を詠み、またその和歌によって仏法と縁を結び、同じ隠遁(いんとん)の志を持つ者と未来成仏の縁を結ぶことを求めました。

 こうして、仏の教えを、恋や自然になぞらえて和歌に詠みこむ法文歌(ほうもんか)、信仰の表白(ひょうびゃく、敬いの気持ちを持って思いを述べ表すこと)や経典の内容を和歌の言葉づかいと形式で表現した釈教歌(しゃっきょうか)が、歌僧たちによって、また世俗にいる人々によっても、盛んに詠まれるようになりました。

西行と慈円

 その中でも、最も大きな存在だったのが西行です。恋に焦がれ、花や月を愛(いと)おしみつつ、自在に詠んでいるように見える西行の和歌ですが、平明な和歌の調(しら)べに込められているのは、仏教の思想への深い理解と洞察です。現世に執着する自己の内面を見つめることと、それらの執着を浄化し、浄土への憧れへと変容させることは、西行にとって、生涯をかけた仏道の修行そのものであったように思います。
 長い修行と遍歴の日々の中で、浄土(死後の世界)という視点から、厭(いと)うべきこの世にあって、なお忘れがたく愛しい人や、花や月に浮かれる心に光を当てて詠みだされた歌には、聞く者の心を揺さぶらずにはおかない哀切さと、人間存在への寛容な肯定がありました。
 単調なペシミズム(悲観主義、この世界は悪と悲惨に満ちたものだという人生観)を脱して、西方浄土に往生する機縁(きえん、きっかけ)として現世にも確かに存在するはずの、浄土的なるものを追い求めようとする西行の和歌は、多くの共感を呼び支持されました。俊成もその理解者の一人であり、寂蓮もまた、西行の同士、仲間でした。定家は、自身が和歌の道を志(こころざ)したのは、西行との出会いがきっかけであると告白しています。
 慈円も、22歳で比叡山無動寺に登り、千日入堂の荒行を始めた頃から、既に西行の和歌に感化されていました。その頃、兄兼実に何度も隠棲と籠居を願い出ていたのは、西行の生き方に自分の理想を見出していたからかもしれません。遁世僧(とんせいそう、官僧の世界から離れて仏道修行に努める僧)になることは、若い頃からの慈円の願いでした。しかし、九条家が宗教界でも勢力を拡大することを望んだ兄兼実がそれを許しませんでした。ようやく自分の意志で遁世僧になることが可能になった壮年期には、今度は慈円を側近として手放したくない後鳥羽院によってそれを阻(はば)まれました。何度か逐電(ちくでん、姿をくらますこと)を試み、あるいは比叡山座主(ざす)の地位を辞退して西山善峯寺(せいざんよしみねでら)に隠棲しましたが、結局、慈円は生涯官僧*という立場を離れることはできませんでした。
*僧位、僧官を有して、国家的な法会(ほうえ)に参加することのできた僧
 しかし、高位の官僧という不自由な身分に縛(しば)られながらも、慈円はあたかも西行の同行者(どうぎょうしゃ、連れ立っていく人)のように、西行の和歌に問いかけ、応(こた)える和歌を、老年に至るまで詠み続けました。

千載和歌集に隠された式子内親王と慈円の恋

 千載和歌集には、この慈円と式子内親王の恋の物語が、ひそかに採録されています。しかし、俊成が仕掛けたその解読は後世に託されたと思います。
 式子内親王と慈円の恋にまつわる和歌は、三首収められています。

❀第一首

第一首は、巻(まき)第三夏歌の、ある人から二葉葵を贈られた時の、式子内親王の返歌です。
 賀茂のいつきおりたまひてのち、まつりのみあれの日人のあふひをたてまつりて侍(はべり)けるに、かきつけられて侍ける
147* 神山のふもとになれしあふひぐさ
   ひきわかれてもとしぞへにける

     前斎院式子内親王
*番号は、「千載和歌集」の新編国歌大観歌番号による。

校注の上條彰次氏は、補注として次のように述べています。
 詞書(ことばがき)に見える献上の葵にも「逢ふ日」が掛けられていよう。それを受けての詠嘆であり、とするとこの「人」は往昔(おうじゃく、昔)の知人となる。また、長秋詠草(為秀本)*に載ることを勘合すると、俊成の知人でもあった人物ということになるが、具体的には未詳。なお、錦仁『式子内親王全歌集』によると、参考歌として「引き別れ年は経(ふ)れども鶯(うぐいす)の巣立ちし松の根を忘れめや」(源氏物語・初音)を挙げる。
 *長秋詠草(ちょうしゅうえいそう)は、藤原俊成が、治承2年(1178)3月に、守覚法親王の命を受けて、自らの和歌を自撰してまとめた家集。「長秋」は、皇后の唐名「長秋宮」に因(ちな)んでいる。俊成が、嘉暦(かりゃく)2年(1170)から承安(じょうあん)2年(1172)まで皇后宮大夫(たいふ)に任じられ、後白河院の皇后藤原忻子(きんし)に仕えたことから名付けられた。忻子が皇太后となってからは、皇太后宮大夫へと異動したが、これが俊成の極官(ごっかん、一生のうちで到達した最高の官職)となった。

「人」が、慈円ではないか、という推測は、これまで述べてきたとおりです。献上の双葉葵に添えられていたと考えられるのは、慈円の御裳濯百首の中にある葵(あふひ)の歌です。

 宮居せし昔にかかる心かな
   そのかみ山のあふひならねど


 しかし、この歌は式子内親王の歌と一対のものとして千載集に収録されることはありませんでした。しかも、式子内親王の歌は、恋の部ではなく夏の部での採歌、「人のあふひをたてまつりて」とあえて匿名にしながらも相聞歌である含みを持たせた詞書き、返しの歌だけの収録になっています。
 詳しくは、当ブログ4をご覧ください。

❀第二首

 第二首は巻第十二恋歌二の、次の歌です。

750 ちぎりおく そのことのは(言の葉、ことば)に身をかへて のちの世にだにあひみてしかな
          よみ人しらず

 なぜ、この和歌が式子内親王と慈円の恋にまつわる和歌と言えるのか、その理由をこれから述べます。

二つの問題点がある

 この5首前からは、式子内親王、京極良経、成家(定家の兄)、藤原家実、藤原家隆など当代の歌人達の「待つ恋」、恋人を待ちわびる歌、あるいは会えない嘆きを詠んだ歌などが並んでいます。
 それに続くのが次の3首です。

750 ちぎりおく そのことのはに身をかへて のちの世にだにあひみてしかな
     よみ人しらず
 この世で恋を成就できないならば、逢おうと約束したその言葉を命と引き換えにして、せめて来世でめぐり逢いたいのだ。

751 たれゆゑ(え)に あくがれにけむ くもまより 見し月かげは ひとりならじを
殷富門院尾張(いんぷもんいんのおわり)

 いったいどなたを見かけて、心が身から離れてさまよい出てしまったとおっしゃっているのでしょう。月の光であなたがご覧になった人影は、私一人ではなかったはずですよ。
 

752 こえやらで こひじにまよふ あふさかや 世をいではてぬ せきとなるらん
    藤原家基(ふじわらのいえもと)

 私は、人に逢えるというおおさか(逢う坂)山を越えられないまま、恋の道で迷ってしまった。恋への執着は、逢う坂の関所のように、極楽往生を妨げる堰(せき、障害)となってしまうのだろうか。

 ここには、二つの問題点があります。一つは、配列の問題、もう一つは、作者の問題です。
①配列の問題
 この三つの和歌には、隣接する和歌同士に、情趣の点でも、モチーフの点でも、相互の関連がありません。配列に細心の工夫をこらした千載集の中で、この箇所は、なだらかにつながっていく織物のように読む者を引き込んでいく、人々の思いの連綿とした流れというものが感じられないばかりか、むしろ不協和音のような、違和感さえ覚えるような配列となっています。

 750についての上條彰次氏の補注を、参照します。 
 前歌まで新古今時代歌人歌五首を配列し、次々歌からは一世代前の歌林苑*関係歌人歌を多く配列する構成となっているが、その媒体となる位置に、この読人不知歌と次の殷富門院尾張歌を配列している。撰者俊成の何らかの配列構成意識が考慮されなければならないかも知れない。
 *歌林苑(かりんえん)は、源俊恵(しゅんえ、1113~1191頃)が京都白川にあった自分の僧房を歌林苑と名付け、月例歌会を催したことに始まる。俊恵の元に集まった多くの歌人が、歌会、歌合に参加し、当時衰退していた歌壇に大きな影響を与えたといわれる。保元の乱(1156)の頃から20年余り、和歌サロンとしての役割を果たした。

 また、751について、上條氏は「機知的に相手をはぐらかす答歌」という注をつけています。
 なぜ、この場所に、宮仕えする女房が男から恋文をもらった時に詠んだと思われる、社交的な、いわば典型的な女房歌が、唐突に配置されているのかがよくわからないのです。

 

②作者の問題
 作者はそれぞれ、よみ人しらず、殷富門院尾張、藤原家基です。

 ●”よみ人しらず”は、文字通り作者不詳の場合もありますが、あえて作者名を伏せている場合も多く、貴人の秘められた恋の相手、あるいは戦乱の敗者、政争で没落した皇族などに用いられます。作者名が、周知の事実として伝わっている和歌はともかく、隠されたまま不明である和歌は、かえって読者の興味と想像力をかきたて、後世まで謎解きが続いているものもあります。”よみ人知らず”は、作者名が露見することによって起きるかもしれない不穏な事態を招かぬように配慮した表記であると同時に、撰者が、読者にその解読をゆだねた仕掛けとも言えます。

 ●殷富門院尾張は、千載集(和泉書院、上條彰次校注)の作者略伝では、賀茂在憲(かものあきのり)女(むすめ)とされていますが、九条兼実の日記「玉葉」では、在憲の息子宣憲(のぶのり、あるいはよしのり)の女子となっており、文治2年(1186)の賀茂祭の女人列(にょにんれつ)において女使(じょし、か)命婦(みょうぶ)の役に選ばれたことが記されています。
 また、明月記には、文治4年(1188)9月29日に、当時、文芸サロンとなっていた殷富門院(いんぷもんいん、式子内親王の姉、亮子内親王)御所を訪れた定家が、殷富門院大輔(たいふ)、新中納言、尾張らの女房達と、秋の末日が去りゆくのを惜しんで、連歌、和歌、狂言(冗談)などで終夜、王朝風の遊びをしたという記事があります。
 殷富門院尾張は、定家や慈円と同時代の、いわば当代の歌人ですが、尾張の同僚には、歌林苑の主要な歌人として活躍した殷富門院大輔(たいふ)がいることを考えると、尾張もまた歌林苑と何らかの関わりがあったのかもしれません。

 ●藤原家基は、祖父が、藤原頼道の次男で橘(たちばな)家の養子となった橘俊綱です。父は藤原家光。家光もまた花山院(かさのいん)家の祖である左大臣藤原家忠の養子となっています。藤原道長の北家御堂流(ほっけみどうりゅう)の流れを汲みながらも、こうした複雑な出自を背景に持つ家基は、官位にもあまり恵まれないまま、1160年代には出家して素覚(そかく)という法名を名乗り、素覚法師として、新古今和歌集にも入集しています。彼は歌林苑会衆の一人でした。
 家基には娘がいて、崇徳天皇の皇后であった皇嘉門院(こうかもんいん)に仕えて皇嘉門院尾張と呼ばれました。皇嘉門院尾張も、父家基と同様に千載集、新古今和歌集に入集しています。この当時の女性としては珍しく、思索的、自省的な歌を詠んだ歌人です。
 家基は一世代前の歌林苑歌人として、この後に続く歌林苑関係歌人達の最初の位置に収録されていますが、それだけではなく、この家基という名前から、尾張の父であるというメッセージを読み取ることが可能です。

俊成の仕掛け

 つまり、750、751、752 は、
 よみ人しらず、
 尾張
 尾張の父

という並び方をしているわけですが、これは、「よみ人しらずの作者は尾張と深い関係があり、実は尾張の父である。」という、俊成が仕掛けた謎解きのヒントである、と私は受け取りました。
 ”尾張”は、式子内親王と慈円の間に生まれた娘と思われる顕清女(けんせいむすめ、後鳥羽院尾張)を想起させるキーワードです。
 配列の問題で述べた千載集らしからぬ配列の乱れも、そこに違和感をもった後世の読者がいずれ解読してくれるきっかけとなるのではないかという意図で、俊成があえて乱調としたとも考えられます。
 そして、よみ人しらずの作者が尾張の父であると、俊成が指し示しているのであるならば、私の推測が正しければ、それは他ならぬ慈円であるはずです。
 では、750番の歌が、本当に慈円が詠んだ和歌であるのかどうかを検証してみようと思います。

“よみ人しらず”の歌の特異性

  叶わぬ恋、あるいは、わりなき恋(世の中の道理に反した無分別な恋、どうしようもなくつらい恋)を詠んだ歌群が、この和歌の20首前から並んでいますので、それをまず見ていただきたいと思います。

 730 こひしなむ身はをしからず あふ事に かへむほどまでと おもふばかりぞ
          道因法師

 わたしは、このままでは恋の苦しみのために死んでしまうだろうが、この身は少しも惜しくない。もし命と引き替えにあなたに逢うことができるのなら、喜んでそうしよう。それだけが私の願いなのだから。
 731 いまはさは あひみむまではかたくとも いのちとならむ ことのはもがな
          左京大夫顕輔

 もはや今となっては、あなたと結ばれることは難しいだろうが、これから先、生きていくための心の支えになるような言葉を、あなたが言ってくれたら、どんなにうれしいことだろう。
 732 略
 733 略
 734 いのちをば あふにかへむとおもひしを こひしぬとだに しらせてしかな
          寂超法師*

 あなたに逢えるのなら命と引き替えにしてもよいと、今まで思ってきたが、もう耐えきれそうにない。せめて、恋のつらさのあまり死んでしまったとだけ、最後に知らせたいのです。
 *寂超は後述するように、俊成室(五条局)の最初の夫です。

 これらに共通しているのは、「生きているうちに、恋しいあなたと結ばれたい、そうでなければ恋のつらさで死んでしまいそうだ。」という発想です。
 それに対して、750の和歌「ちぎりおくそのことのはに身をかへて のちの世にだにあひみてしかな」は、言葉も、また恋の深刻さにおいても、これらの歌と似通っているものの、「現世で逢うことは無理なことだ、それならせめて生まれ変わって来世で逢いたい。その約束の言葉に自分は命を捧げよう」という真逆の内容となっています。

 上條彰次氏は、750の注で「命と引き替えに言葉の通り実現させたいという発想には、言霊(ことだま)思想の背景も考えられるか。珍しい趣向。」と書いています。
 言霊(ことだま)思想とは、言葉には霊力が宿っていて、ある言葉を口に出すとその内容が現実のものとなる、という日本古来からの信仰で、言葉を積極的に使って言霊を働かせようとする場合と、言葉を慎(つつ)しんだり避けたりすることで、災いを招かないようにする場合とがあります。
 750の和歌は、前者です。結ばれぬ運命を受け入れようとする決意と、恋を全うしたいという思い、矛盾する願いを共に実現するには、言葉の持つ霊力に頼って死を選ぶしかない、その霊力によってこの願いは叶うはずだ、とするこの歌は、確かに他の人々の恋の嘆きの歌と比べると、異色のものです。

慈円にも同じ発想の和歌がある

 この、逢うのは来世である、という同じ発想を持つ歌を、慈円が詠んでいます。

 ●一つは、建久元年(1190)「宇治山百首」の中の不逢恋(逢はざる恋)の題を持つ次の歌です。 

  よしさらば のちの世とただ契りをけ
   それに命をやがてかへてん

 私たちはこの世で結ばれることはないだろう、それならそれでよい。それならば、来世で必ずめぐり逢うと、ただ約束してくれ。私は、自分の命を、そのままあなたの言葉とひき代えにして死んでいこう。(死ねば来世で逢えるから)

 この和歌には、本歌があります。藤原俊成とその妻(五条局、定家母)*が、互いに求め合いながら、やむを得ない事情によって結婚できなかった頃に交わされた贈答歌です。

 よしさらば 後(のち)の世とだに憑(たの)みおけ つらさにたへぬ身ともこそなれ
             藤原俊成

 あなたがこれ以上逢えないと言うのならば、仕方がない。それならせめて来世で逢おうと約束してほしい。そうでもしなければ私は、もうこのつらい恋には耐えられずに死んでしまうだろうから。

 憑(たの)めおかん たださばかりを契りにて うきよの中の夢になしてよ
       藤原定家朝臣(あそん)母

 来世でお逢いしましょう。ただそれだけを二人の約束として、今までのことは、つらくはかないこの世の夢であったと思ってください。
 
 *定家の母は、前章の定家の系図で示したように、藤原親忠女(むすめ)五条局です。最初に結婚したのは、藤原為経(ためつね、のち出家して寂超と名乗った、歌人。*千載集734として前出)で、為経との間に藤原隆信を産んでいます。同じ時期に、俊成は、この為経の妹を室としていました。俊成の五条局に対する恋は、自分の妻ばかりか、妻の兄に対しても責めを負わなければならないような、禁断の恋でした。当時、俊成は30代前半、五条局は10代後半と推測されます。その後、どのような経緯があったのかわかりませんが、為経が出家して、五条局を離縁した結果、その数年後に、五条局は隆信を連れて俊成と再婚しました。隆信は、歌人、また似絵(にせえ)の名手でもあり、定家の20歳年長の義兄として、明月記にもたびたび登場しています。

 治承2年(1178)3月に、守覚法親王の求めによって俊成が自撰した「長秋詠草(ちょうしゅうえいそう)」に収められたこの贈答歌を、慈円は本歌取りしています。本歌とされた俊成の歌は、決して自分たちの死を願っているわけではありません。来世で逢おうという約束は、恋の苦しみを緩和してくれる一縷(いちる)の慰めであり、それだけを心の支えにして、二人はつらい現実に戻っていこうという歌です。                  
 しかし、この俊成と五条局の贈答歌を本歌として慈円が詠んだ歌は、恋の苦しみから自由になって再び逢うという祈りを実現するために、来世に行く(自分が死ぬ)ことを言挙げ(ことあげ、言葉の霊力を信じて、あえて自分の願いをはっきりと言葉にして発すること)する、”言霊(ことだま)思想”を背景としたものと言ってよいと思います。

 ここで注意しなければならないのは、慈円にとって来世とは、輪廻転生(りんねてんしょう)して、再び人間界に生まれ変わることではないということです。千日入堂の荒行や断食行という厳しい仏道の修行を経て、三部伝法阿闍梨(さんぶでんぽうあじゃり)*の灌頂(かんじょう)*を受けた、天台宗の僧侶(そうりょ)である慈円にとって、来世(らいせ)、来む世(こんよ)とは、阿弥陀如来のいる浄土すなわち西方極楽浄土に生まれ変わることを意味しています。来世で逢う(のちの世を契る)とは、恋の逢う瀬(おうせ)ではなく、一緒に極楽浄土に往生し、同じ蓮(はす)の花の台(うてな)の上に生まれ変わって、共に仏と成る(成仏、じょうぶつ)ための修行をしようということであると思います。
*阿闍梨は、弟子を教え指導することを許された師範の位を持つ高僧のこと。
*伝法灌頂は、密教で、定められた厳しい修行を終えた僧に阿闍梨としての位を授ける儀式で、頭頂に香水(こうずい)を注ぎ、悟りの境地に進んだことを証明するもの。

 ●もう一つは、この4年後の建久5年(1194)に、慈円が甥(おい)の京極良経と詠んだ、南海漁夫(なんかいぎょふ)北山樵客(ほくざんしょうかく)*百首歌合の六十五番です。
 *南海漁夫は甥の良経、北山樵客は慈円のこと。

 こひといふ心は四方(よも)にかよへども 一(ひと)すじにこそ身をばかふなれ
 私の恋の思いは、どこにいても何をするにつけても、この世の至る所にまで渡って、果てしなく広がっていく。けれども、自分の願いは、恋の苦しみという煩悩に苛(さいな)まれるこの世を捨てて、ただひとすじに来世に行く(阿弥陀仏のいる極楽浄土に往生する)ことなのだ。 

 この歌も、現世での恋の成就と極楽往生を対比させて、極楽浄土への往生を選ぶというという自分の意思表明を強く言い放っている点で、前歌と同様の言霊(ことだま)思想が感じ取れます。

 この当時の和歌には、類歌、あるいは酷似(こくじ)歌が珍しくなく、先行する他人の和歌に触発されて、同じ発想、同じモチーフ、で習作を試みたものもあり、また、よく知られた和歌を想起させることによって、歌に重層的な奥行きを持たせる本歌取りという技法もありました。情報の錯綜(さくそう)や、忘却によって、同じ和歌であってもその中の言葉が違う言葉に置き換えられて、別の作者の歌として流布することも時には起こりました。
 この時代においては、似ていることは、欠点や非難されるべきものではなく、むしろ同様の趣向で新たな技巧と表現を目論(もくろ)んだ和歌と見なされ、それらの類歌の中で、よりイメージを喚起し人を感動させるものが選ばれ、優れた歌、優れた歌人として、評価されたと言ってよいのではないかと思います。
 その意味では、千載集750番の“言霊(ことだま)思想を背景に持つ”よみ人しらずの歌と、慈円が詠んだ”言霊(ことだま)思想を背景に持つ”歌は、類歌であるという可能性も否定できません。

慈円の内面的な意識の変化

 しかし、遡(さかのぼ)れば、慈円には、承安4年(1174)頃の百首和歌十題の「恋」に、
 命こそ恋する人のかぎりなれ あふてふことをいつとしらねば
 この先いつ逢えるのかどうかもわからないし、生きているうちに逢えるとも限らない。命の尽きる時まで、恋の苦しみが続いて、そして死んでいくのだろう。(その時、恋も死ぬ。しかし、そこに来世はない。) 

 千日入堂の荒行の最中(さなか)に詠まれた、安元2年から治承3年(1176~1179)の百首述懐に、
 しなばやといふぞはかなき 後(のち)の世もたのみあるべき我が身ならぬに
 死んでしまいたいと言うのもむなしく頼りないことだ、死んで浄土に往生できるとは限らない、輪廻(りんね)から抜け出せず、またこの憂き世に戻ってくるかもしれない。悟りにも達していない我が身であるというのに。
 後(のち)の世にそむる心を よそにては あらぬ色にや思ひなすらむ
 来世(極楽往生)を願って日々修行に精進している私を、傍(はた)から見る者たちは、叶わぬ恋に紅涙(こうるい、涙が枯れた後に出る血の涙)を流すほど嘆き悲しんで、生きることに絶望してしまったのだろうと思って見ているのではないだろうか

 養和元年(1181)以降に詠まれたと思われる堀川院題百首の中の、不逢恋(逢わざる恋)として、
 身にかへて思ひけりとはしらるとも さてこひしなば、かひやなからむ
 自分の命と引き替えにするほど、激しい恋をしてしまったのか、と人からは感嘆されたとしても、浄土に往生することなく恋にとらわれたまま死ぬのであれば、死んだ意味がないのではないだろうか。輪廻(りんね)の因縁を断ち切ることができずに、永遠に煩悩に苦しんで転生する身であることに変わりはないのだから。
 

 会不会恋(会いて会わざる恋)として、
 なれてのち かはるけしきに恋ひしなば あふにかへつる名をやとどめむ
 愛し合っていたのに、恋人の心変わりにあって、そのつらさのあまり死んでしまったとしたら、恋のために命を捨てた男として、名前ばかりは後々までも語り伝えられることだろうか。(だが、それは、来世において浄土への往生を願う自分にとっては不本意なことだ。)
 
など、恋を起点として死に傾斜していく幾つもの和歌を見出すことができます。
 20代から30代前半の慈円の歌は、恋にとらわれながらも、解脱(げだつ、煩悩からの解放)を願い、この世と来世(こむよ、らいせ、僧である慈円にとっては浄土のこと)の間を惑(まど)いながら行きつ戻りつしています。
 恋の相手と来世で逢う、つまり共に極楽浄土に往生することが可能であるのか、またそれを求めることは果たして仏道にかなった選択であるのか、この疑惑と逡巡(しゅんじゅん、ためらい)が、肯定的な確信に変わるのが、先に挙げた慈円30代後半に詠まれた二首です。

 よしさらば のちの世とただ契りをけ それに命をやがてかへてん

 こひといふ心は四方(よも)にかよへども 一(ひと)すじにこそ身をばかふなれ

 ここに至った経緯には、慈円に何らかの信仰上の体験、解脱(げだつ)についての悟りがあったのかもしれない、ということと、恋の対象である女性、式子内親王との「契り」が、「この世の契り」ではなく、来世で逢う、つまり「共に極楽浄土への往生を願う契り」へと深まっていったという確信を、慈円が得た、ということがあったのではないかと推測されます。そこには、式子内親王の出家という重い事実が関係していたのかもしれません。
 こうした慈円の内面的な意識の変化に対して、式子内親王が、この慈円の宗教的な決意をどう受け止めたかということは、また別の章で改めて述べようと思います。

 俊成が千載集の編纂をほぼ完了したのは、文治3年(1187)10月です。
千載集750の「よみ人しらず」が慈円であるなら、慈円はこの時点で33歳ですから、33歳以前に詠んだ歌ということになります。この歌には、この世を捨てて恋人と来世(浄土)で逢うことへの、迷いのない願望、祈りを見ることができます。それは、30代後半の肯定的確信につながっていくもので、疑惑と逡巡の果てに慈円が辿(たど)りついた、内面的な意識の変化に沿った内容となっています。750の作者は、やはり、慈円であると、私は考えます。

俊成の意図
慈円と御子左家との交流と、俊成の慈円に対する評価

 千載集には、慈円の歌が9首、入集していますが、その中に恋の題で詠まれた歌は含まれていません。俊成は、よみ人しらず、尾張、尾張の父、と並べたうえで、ようやく慈円の恋の和歌を忍び込ませました。
 
 俊成が、式子内親王と慈円の恋の顛末(てんまつ、事の一部始終)を知り得たのは、次のような事情からだったと推測されます。
●二人の娘、前斎院女別当(定家異母姉)と前斎院大納言(定家姉、竜寿御前)が、式子内親王の側(そば)近く仕えていたこと
●俊成の甥(おい)である実快が、慈円の兄弟子として少年時より親交があったと推測されること、また式子内親王のはとこでもあること
●同じく俊成の甥である経房が、式子内親王の後見人であり、後白河院の実務派の側近でもあって、この事件に深く関わっていたこと

 俊成は、式子内親王と慈円の恋について、おおよその成り行きを見守る立場にあり、娘たちや甥からその詳しい事情を聴き、人生の先達(せんだつ)として助言を与えた可能性さえあると、私は考えています。

 承安4年(1174)から、俊成は慈円(当時は道快)の名前だけは知っていたと考えられますが、歌人としての交流は、元暦(げんりゃく)元年(1184)の暮れに、慈円が兄兼実を介して、俊成に自歌歌合の判を依頼した(「玉葉」元暦元年12月28日)ことに始まるようです。慈円が30歳の時です。
 治承2年(1178)に、九条兼実から歌の師として招かれて以来、九条家と親交があった俊成は、元暦元年(1184)頃には、九条家で催(もよお)される歌合で、兼実の弟である慈円ともたびたび同席し、互いにその人となりに親しむ機会があったのでしょう。
 俊成の甥で元来、御子左家の後継者となるべく養子となったものの、その後、出家して、実子の定家にその道を譲(ゆず)った寂蓮も、九条家の歌合の常連で、慈円と親しく歌を詠み合う仲でした。その寂蓮の仲立ちで、九条家への出仕間もない定家も、慈円と出会い、創作意欲の旺盛な青年期にあった二人は意気投合し、度々、和歌の速詠を競うほどの親密な関係を結んでいます。

 こうした御子左家の人々と慈円との親しい交流の根底には、慈円が詠む和歌から感じ取れる、飾らない人柄と仏道に向かう真摯(しんし)な姿勢、そして和歌に対する情熱と歌才に、御子左家の人々が一目(いちもく)置くべきものを見ていたということがあったと思います。
 千載和歌集には、慈円の和歌が9首採られていますが、これは、俊成がいかに慈円を評価していたかということを表(あらわ)しているのではないでしょうか。

俊成が千載集につけ加えたかったこと

  勅撰和歌集は天皇、院の命を受けて、その治世(じせい)を象徴する文化的プロジェクトとして編纂(へんさん)されるもので、政変や戦乱、その他様々な事件、難局の後で、和歌によって怨霊を鎮(しず)め、人心を和らげその一新を図(はか)って、天皇の統治を讃(たた)えるという役割を持つものです。千載和歌集も、保元の乱の敗者とりわけ崇徳院の霊の鎮撫(ちんぶ)、あるいは西海に散った平氏の人々の歌をよみ人知らずとして採首するなど、歌人達にまつわる数々のドラマを内包しています。

 俊成は、千載和歌集を編むにあたって、古今和歌集を範としましたが、その古今和歌集の恋の部には、在原業平(平城天皇の孫)の歌と共に、彼のエピソードにまつわる二条の后(藤原高子、たかいこ)や斎宮の恬子(やすこ)内親王などの歌が収められています。それらは、華やかな王朝期の雅(みや)びを伝える意味で、大きな役割を果たしています。
 和歌の中で一つの主要な柱である恋の部立てにおいて、280年前の古今和歌集に対して、千載和歌集はどのような王朝の雅びというものを、後世に伝えることができるのかということを、編者として俊成は考えたと思います。
 末世(まっせ)といわれたこの時代に、過去の、色好みの貴公子が浮名を流す恋はもうふさわしくありませんでした。俊成が選んだのは、摂関家の御曹司(おんぞうし)である青年僧慈円と、前(さきの)斎院式子内親王との恋です。世に知られることなく深く秘められた二人の恋は、仏教思想の色濃い千載和歌集の中でこそ、ひそやかに光彩を放つはずの王朝の物語でした。

❀第三首

実快の和歌

 千載集に仕掛けられた三首目は、巻第三夏歌にある次の和歌です。
 泉辺納涼(せんぺんのうりょう)といへる心をよめる
 214 せきとむる山したみづに みがくれてすみけるものを 秋のけしきは

    法眼実快(ほうげん じっかい)
 山陰(やまかげ)をたぎり落ちて流れる水が、せき止められて淀(よど)みとなり、ここばかりは夏の暑さを忘れさせるような涼気が漂(ただよ)っている。水の中に隠れるようにその身を隠して、澄み切った水に住んでいるのは、もうすぐやってくる秋の気配だったのだ。

 実快は、右大臣徳大寺公能(きんよし)の息子で、10歳でおそらく覚快法親王が門跡(もんぜき、皇族、公家が住職を勤めること)である青蓮院(しょうれんいん)に入室し、その3年後に入室した2歳下の道快(後の慈円、当時11歳)と、少年時代から親交があったと思われる僧侶です。千載集が編纂された頃には、法眼(ほうげん、法橋、法眼、法印と位が高くなる)でした。その後、法印となり、最勝寺執行(しぎょう)を務めました。
 実快の歌人としての経歴は詳しくはわかりませんが、寿永2年(1183)11月に、賀茂訳雷(かもわけいかづち)神社(上賀茂神社)の神主であり歌林苑の支援者でもあった賀茂重保によって編まれた、月詣(つきもうで)和歌集にその名が見え、正治2年(1120)の石清水(いわしみず)若宮歌合にも出詠(しゅつえい)して藤原公時(きんとき)との組み合わせで勝敗を競った記録が残されています。

●式子内親王と慈円の娘と推測される顕清女(けんせいむすめ、後鳥羽院尾張)が、出産のために里下がりしたのが、実快邸であったこと
●後鳥羽院皇子(のちの順徳天皇)の誕生の際に、後鳥羽院から安産の祈祷を命じられた慈円のために、7日間宿所を提供したこと
●式子内親王が死去するひと月半前に、式子内親王御所を訪れていること
●実快は、式子内親王の”はとこ”、俊成の甥(おい)、定家の従兄弟(いとこ)、経房の従兄弟でもあること(ブログ5の実快系図、ブログ11の定家系図をご覧ください。)

 実快は、慈円との関わりにおいて、たびたび黒衣(くろこ、役者の演技や、舞台進行の介添えをする人が着る黒い衣装、表に出ないで物事を処理する人)のような役割を果たしています。
 では、なぜこの実快の和歌が、式子内親王と慈円の恋にまつわる歌と言えるのか、その理由を述べます。 

本歌(ほんか、もとうた)は、恋の歌

 この歌には、本歌があります。古今和歌集、巻第十一恋歌一にある読人しらずの次の歌です。

 あしひきの山した水の 木隠(こがく)れてたぎつ心をせきぞかねつる
 山陰(やまかげ)を流れる水が、樹々に隠れて激しく湧(わ)き立っているのに、音だけがして流れは見えないように、私も、人には言えないせつない恋心が、激しく燃え上がるのを、抑えようとしても抑えることができないのだ。

 この本歌を踏まえると、実快の和歌は、次のように読み取ることができます。

 せきとむる山したみづに みがくれてすみけるものを 秋のけしきは
 木の茂みに隠れて激しく流れる山した水のように、誰にも言えず心の中にひそめた恋の思いが、せき止められ積もり積もって深い淵となっている。その淵を覗(のぞ)いてみれば、どうだろう、そこには、冷涼な秋の気配が潜(ひそ)んでいるように、恋の悩みの果てにたどりついた、静かに澄んだ飽(あ)き(もう十分であるとして、執着しないこと)の心がひっそりと住んでいるではないか。

 古今集の本歌は、当時の慈円の心情そのものであったでしょう。恋の激情にかられる若者に対して、冷静さを取り戻すように促(うなが)す実快の和歌は、身分こそ違え、かつての弟弟子(おとうとでし)であった慈円に向けて詠まれたものではないでしょうか。 
 この実快の和歌は、水辺の納涼を収めた5首の最後に配置されています。ちなみにその5首の始めは、慈円の、山かげや いはもる(岩漏る)し水のおとさえて なつのほかなるひぐらしの声 で、山かげと清水で実快の歌と呼応しています。 

もう一つの裏の意味があるのではないか

 澄んだ水の中にひっそりと人目を避けて住んでいるのは、「秋の気配」でもあり、「飽きて心変わりする兆(きざ)し」でもあるのですが、そうした擬人化された比喩ではなく、実際に人目を避けて住んでいる人物のことを言っているのであればどうでしょうか。

 その人物とは、俊成が、よみ人しらず、尾張、尾張の父、と列挙した顕清女(尾張)に他なりません。顕清女は、千載集が編まれた文治3年(1187)には、14歳です。俊成が、尾張という女房名を言っているからには、顕清女は、すでにこの時点で宮仕えをしているはずです。この時代に14歳であれば、宮仕えする年齢として早すぎるということはありません。ブログ10での私の推測では、顕清女は元暦元年(1184)頃に初出仕しています。

 少女がひっそりと住んでいるのは、「秋の景色」です。年若い娘が何かに喩(たと)えられて秋の景色の中にいるとすれば、野に咲く秋の花でしょうか。古来より親しまれ、和歌にも詠まれているものとして、秋の七草があります。萩の花、尾花(おばな、すすきのこと)、葛花(くずばな)、なでしこの花、女郎花(おみなえし)、藤袴(ふじばかま)、朝貌(あさがお)の花(ききょうではないかと言われている)ですが、その中には、和歌において、子どもの比喩*としてよく使われる、萩(小萩の小を子に掛ける)があり、また文字通りのなでしこ(撫でし子)があります。

 *参考までに、萩となでしこが子どもの意味で使われた歌で、後世にも影響を与えた和歌には、次のようなものがあります。
  *あらし吹く風はいかにと 宮木野の小萩がうへを人のとへかし
       赤染衛門(平安時代中期)

 昨夜の嵐はひどいものでした。宮城野の小萩のように可憐な幼い我が娘はどうしているかと、父親らしく、心配して訪ねてきていただきたいものです。
 
 *よそへつつ見れどつゆだに慰(なぐさ)まず いかにかすべきなでしこの花
       恵子女王(平安時代中期)
 撫でて育てた可愛い息子になぞらえて、なでしこ(撫でし子)の花を眺めても、ちっとも心は慰められない。どうしたらよいでしょう。息子よ、たまには、わたしのもとを訪ねてきておくれ。


 ところで、この水辺の納涼の5首の前後をよく見ると、最初の慈円の歌の4首前には、なでしこの歌が2首、最後の実快の歌の4首あとには萩の歌が2首、並んでいます。それをご覧ください。

 206 みるがなほ この世の物とおぼえぬは からなでしこの花にぞありける
         和泉式部

 見れば見るほど、どうしてもこの世の物とも思えないぐらいきれいなのは、やはり唐なでしこの花でしょうね。

 207 とこ夏*のはなもわすれて あき風をまつのかげにて けふはくれぬる
 中務卿(なかつかさきょう)具平(ともひら)親王

 *とこ夏は、撫子の別名です。
 夏から秋にかけて咲きつづけて、まるでいつまでも夏のような、なでしこの花の可憐さも忘れて、待っていた涼しい秋めいた風が吹く松の木蔭(こかげ)で、今日は一日が暮れてしまったことよ。
 

 208、209 氷室(ひむろ)の和歌2首
 210~214 水辺の納涼(慈円~実快)5首
 215~217 夏の月の和歌3首

 218 こはぎ原まだ花さかぬ宮木のの しかやこよひの月になくらむ
        藤原敦仲(あつなか)
 
 萩の花で知られる宮城野は、まだその愛らしい花も咲かないというのに、やがて来る秋を感じさせる澄んだ月に惑(まど)わされて、鹿が、萩の花妻*を求めて鳴いていることだろうか。
*鹿は秋が交尾期で、牡鹿が独特の声で鳴くことから、和歌では、秋に咲く萩と、秋に鳴く鹿が組み合わされて、萩が鹿の花妻とされた。
  
 219 夏ごろもすそののはらをわけゆけば をりたがえたるはぎがはなずり
         顕昭法師

 山裾(やますそ)の野原を分け入って歩いてきたので、夏の衣に、早咲きの萩の赤紫の色が移って、季節違いの萩の花摺り(はなずり)模様になってしまったよ。

 これらの歌では、撫子や萩が、とりたてて子どもの比喩として用いられているわけではありません。
 読み手は、和泉式部や具平(ともひら)親王の歌に、撫子の花を鮮やかに思い浮かべ、また、常夏(とこなつ)の暑さを知り、その残像を持ったまま、冷気漂う氷室(ひむろ)の歌2首を経て、涼しい山陰の清水に導かれます。それから、陽が沈み夜がやってきて、夏の月の歌が3首続いたあとに、秋めいた夏の月夜に、まだ咲かぬ萩を求めて耐えきれずに鳴く鹿の声が聞こえたかと思うと、場面は突然明るくなって、咲き始めたばかりの萩の花で赤紫色にまだらに染まった夏衣を着た人物が現れる、という趣向です。

 絵画的な構成であり、触覚や聴覚にも訴え、ドラマさえも感じさせる配列の妙は、さすが俊成の手腕によるものですが、その絵画の縁取りとして、小萩(子萩)と撫子(撫でし子)が採用されていることに、着目してください。インパクトを持って配された植物が、「我が子」の意味を持つ撫子と萩であるところに、巧妙に隠された俊成の仕掛けがあるのではないかと、私は感じました。
 
 もう一度、実快の歌を読み取ってみましょう。
 せきとむる山したみづに みがくれてすみけるものを 秋のけしきは
 山した水をせき止めて出来た淀みに、秋の気配が潜(ひそ)んでいるように、人目に触れない奥まった場所に、ひっそりと身を隠して住んでいる者がいるのですよ。それは、秋の野に咲く小萩(または撫子)のようにかわいい子どもです。恋に苦しんで我を失っているあなたは気づいていないようですが。

 勅撰集に入集することは、たとえ1首だけの入集であっても歌人として大変な名誉なことでした。歌僧(かそう)として和歌に精進していた実快も、千載集に入集することを切望して、撰者である叔父の俊成に対して、自撰の和歌を提出したと推測されます。そして、俊成によって採られた2首のうちの一つがこの和歌です。
 俊成は、二重、三重に意匠(いしょう)を凝らしたこの和歌が、式子内親王と慈円の恋にまつわる和歌であることを、一目で見抜いたに違いありません。実快の言う「秋の景色」が、秋の野原の景色であることも、そこには、小萩や撫子が咲いていて、それが他ならぬ顕清女であることも、手に取るようにわかったと思います。

 「秋の景色」を直ちに撫子や小萩と結びつけることには、平安・鎌倉時代の感覚と、現代の感覚では、隔たりがあります。現代の私達には、実感として野に咲く撫子(日本古来のカワラナデシコを指す)や自生する萩を思い浮かべるのは、なかなか難しいことです。しかも、俊成は、実快の歌だけを撫子と小萩の和歌で囲むのではなく、実快の歌を含む一連の歌群の両端を、撫子と小萩の和歌で挟んでいます。このことに気づかなければ、実快の和歌の三つ目の解釈は、成り立ちませんでした。

 撫子の和歌と小萩の和歌が、さながらひと時の夢の入り口と出口のように仕立てられた、これら一連の歌群のあとには、また水辺の納涼の歌が再開しています。次に続くのは、崇徳朝に仕えて活躍し、保元の乱後に出家、配流された藤原教長(のりなが)等の、俊成と同世代の歌人達です。 

千載集と定家

定家は俊成の助手を務めていた

 明月記には、定家が、千載集の編集にあたって俊成の助手を務めたことが、記されています。天福元年(1233)7月30日、定家72歳の記事です。定家は、千載集の編集に携(たずさ)わった昔を回想して、俊成に対して、次のような、かなり手厳しい意見を述べています。
● 作者の位署(いしょ、官職・位階・姓名を一定の形式で記すこと)、題の年月等が、正しくない場合が多い。
● 自分(定家)が忠告して誤りを正そうとしても、総じて信用しようとしない。
● 一般的に常識とされていることを、そのまま踏襲して、先例を調べたり根拠になる史料にあたるということを軽んじていたために、こうしたことが起きたのである。
●今見ると、恥じ入るばかりで、もし物事の由来を知りわきまえた人がいたなら、きっと批判することであろう。
 
 定家は22歳から26歳まで、父俊成と共に千載和歌集の編纂に携(たずさ)わり、俊成の仕事をつぶさに見て学び、疑問をぶつけ、意見を述べたようです。

定家は、式子内親王と慈円の恋を、知っていた

 とすれば、定家は、九条家に仕えて慈円と面会する以前に、すでに、二人の恋について、俊成から聞いて知っていたと考えられます。
 上記三首に見られる、部立ての是非、配列の乱れ、よみ人知らずの名称、必ずしもテーマに即しているとはいえない和歌(撫子と小萩の和歌のことです。)の挿入等々について、安易な妥協をしたくない定家は、その理由を俊成に質問したのではないでしょうか。俊成は、有能な助手であり、御子左家の後継者でもある定家の疑問に対して、その真意を説明したと同時に、なぜ千載和歌集という勅撰集に、二人の恋を入れようとするのか、その意義についても説明したと思います。

 その後、定家は和歌のやりとりによって、慈円と急接近していくのですが、二人の関係は常に親しみと共感に満ちたもので、それは、生涯変わることはありませんでした。定家は、慈円の恋について、その身の処し方に敬意を持っていたと思われます。