式子内親王と慈円の恋 1  

幼年時代

 式子内親王は久安5年(1149)後白河天皇の第三皇女として、慈円は久寿2年(1155)関白藤原忠通(ただみち)の子として生まれました。6歳違いで式子内親王が年上です。二人はある時期、意外にも近くに住んでいました。

 式子内親王の母は、藤原成子(せいし、しげこ)。周りから高倉三位(たかくらのさんみ)と呼ばれたように、京都の三条高倉第(さんじょうたかくらだい、邸)に住んでいました。式子内親王は、11歳で賀茂斎院(かものさいいん)になるために母親のもとを離れるまで、他の姉妹たちと一緒にここで暮らしていました。

 慈円は、2歳の時に母が亡くなったので、山井禅尼(やまのいのぜんに)のもとに預けられました。彼も11歳の時、僧侶になるために覚快法親王(かくかいほっしんのう、鳥羽上皇の第七皇子)がいる青蓮院(しょうれんいん)に入るのですが、幼少時は山井殿(やまのいでん、邸)で育てられました。

 地図をご覧ください。三条高倉第は現在のイノダコーヒー本店のあたりに、山井殿はセブン-イレブン京都御幸町御池店のあたりにあったと考えられます。もちろんピンポイントではありません。三条高倉第も山井殿も広い敷地の中にあったので、おおよその位置ということでご理解ください。だいたい歩いて8分の近い距離です。共に小さな子供を抱えたいとこ同士に、交流があったことは、十分考えられます。
 成子が住んでいた三条高倉第の場所は諸説ありますが、保延4年(1138年)頃、閑院流の藤原実行が、異母妹である待賢門院(鳥羽上皇中宮)のために提供した三条高倉第(三条高倉の辻の東南の地)ではないかと推測されます。ここは、鳥羽天皇と待賢門院の第四皇子、後白河天皇がまだ雅仁親王と呼ばれていた頃、元服した地であり、雅仁親王の最初の妃である懿子(いし、よしこ)が二条天皇を産んだ場所です。懿子もまた、成子や山井禅尼のいとこにあたる閑院流の女性です。待賢門院が逝去したのもこの三条高倉第でした。代々、閑院流の高貴な女性が居所としたこの場所に、雅仁親王(後白河天皇)から十数年間も寵愛を得て5人もの子を産んだ成子も住んでいたと思われます。成子は実行の姪にあたります。

三条高倉第と山井殿

 保元の乱と平治の乱にはさまれた、激動の3年近くの期間、式子内親王と慈円には接点がありました。成子と山井禅尼は、父親同士が兄弟で、保元の乱が起きた保元元年(1156年)の山井禅尼の推定年齢は、父親の通季(みちすえ)が太治3年(1128年)39歳で亡くなったことや、兄弟の公通(きんみち)が永久5年(1117年)の生まれであることから逆算して考えると、29~40歳くらいです。一方の成子は安元3年(1177年)に52歳で亡くなったことがわかっているので、保元元年(1156年)には31歳です。つまり、二人は同年代か山井禅尼の方が年上でその差は10歳に満たないと考えられます。


 山井禅尼の夫であった藤原経定(つねさだ)には、異母妹の懿子(いし、よしこ)がいました。彼女は保延5年(1139年)に雅仁親王(まさひとしんのう)、のちの後白河天皇の妃となっています。そしてまた懿子は、山井禅尼と成子のいとこでもあるのです。この辺は、下の山井禅尼相関図をご覧ください。閑院流と後白河天皇との関係がいかに深かったかがわかります。成子はおそらく14歳か15歳の若い頃に播磨局(はりまのつぼね)として雅仁親王に出仕し、その後寵愛を得て雅仁親王との間に、亮子内親王、好子内親王、式子内親王、守覚法親王、以仁王を産みました。久安3年(1147年)から仁平元年(1151年)にかけてのことです。雅仁親王が後白河天皇になる以前の21歳から25歳の時期です。

 山井禅尼と慈円の関係についても、ざっと紹介します。この人は慈円の父藤原忠通のはとこです。忠通の祖父は、師通(もろみち)、山井禅尼の祖父は忠教(ただのり)で、ともに藤原北家御堂流の嫡流の師実(もろざね)の息子です。彼女は、夫の藤原経定に久寿3年(1156年)に死に別れました。定雅という息子が一人いたのですが、この子も元服後すぐに亡くなったのかもしれず消息をたどることはできません。忠通がなぜ慈円を山井禅尼に預けたのか、その理由は一つには、将来この2歳の幼児を僧侶にすることを考えていたので、手放した、もう一つは、兼実や慈円の亡くなった母親が藤原仲光の娘で、仲光は忠教の一族と縁戚関係にあったからということでしょう。忠教の息子教長(のりなが)は、忠通の12歳年下でありながら、忠通の書の師範でした。仲光の娘が、家の女房加賀として忠通家に出仕したのも、こうした縁からと思われます。仲光の娘は、教長や、山井禅尼の母親の、はとこにあたります。つまり、慈円は母方の親戚に預けられたというわけです。

山井禅尼相関図

 式子内親王が賀茂斎院として家を離れた11歳の時、慈円は5歳です。もし出会っていたとしたなら、式子内親王は慈円のことを覚えているはずです。慈円は5歳ですから、断片的な記憶しかないかもしれません。でも、山井禅尼が時折、賀茂斎院になった式子内親王の思い出を、語り聞かせたでしょうから、その名前は慈円にとっても親しみをもって刻み込まれたのではないでしょうか。

年表

久安5年(1149)
 式子内親王誕生
久寿2年(1155) 
 慈円誕生
 雅仁親王、天皇即位 後白河天皇(29歳)
保元元年(1156)
 慈円母(藤原仲光の娘、女房加賀)没
 保元の乱
 慈円(2歳)、山井禅尼に養育される
保元3年(1158)
 後白河天皇譲位(31歳)、二条天皇即位  
平治元年(1159)
 式子内親王(11歳)、賀茂斎院となる
 平治の乱
長寛2年(1164)
 慈円父、藤原忠通(68歳)没
永万元年(1165)
 慈円(11歳)、覚快法親王に入室
仁安2年(1167)
 慈円(13歳)、出家
嘉応元年(1169)
 式子内親王(21歳)、斎院退下

山井殿の由来

 10世紀、藤原定方の邸があり、山井殿として子孫に伝領されました。11世紀前半に藤原道長が買い取り、小一条院と道長の三女寛子の御所としました。その後、代々北家御堂流の所領として伝わっています。
 山井禅尼は、北家御堂流の忠教の孫ですから、この山井殿の一画に住んでいたと推測されます。ちなみに、慈円の兄である九条兼実の晩年の愛妾は山井殿(やまのいどの)と呼ばれましたが、この女性は忠教の四男頼輔の娘で、兼実や慈円の姉である皇嘉門院に仕えて大弐と呼ばれた人で、山井禅尼の歳の離れたいとこであると考えられます。
 

式子・in・Wonderland

 春もまづしるくみゆるは音羽山
       峯の雪よりいづる日の色
  前斎院御百首(さきのさいいんのおんひゃくしゅ)

 立春の頃でしょうか。清少納言の「春はあけぼの」は、ほのぼのと紫の雲がたなびいていますが、こちらは真っ白な峯の稜線から最初の陽の光が射したところです。冴え冴えとした冷気も伝わってきます。「日の色」という簡素で断定的な表現には、漢詩の影響が感じられます。おそらく式子内親王は、和歌の師であった藤原俊成から、貴族の教養として親しまれていた唐代の詩人たちの作品を学んでいたのでしょう。表現の潔さが、清新で風格のある印象を歌に与えています。音羽山は、京都市山科区と滋賀県大津市の境にある標高593mのなだらかな山で、古くから歌枕として和歌に詠みこまれてきました。式子内親王が住まいとした三条高倉や、斎院のあった現在の櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)辺りからも、東の方角に見はるかすことができる親しみ深い山だったと思われます。