式子内親王と慈円の恋

式子内親王と慈円の恋 6

承安4年の春-慈円ー  承安4年(1174)の春に時間を戻しましょう。式子内親王が26歳、慈円が20歳です。 この当時の信頼のおける史料の一つに、藤原経房(つねふさ)の日記である「吉記(きっき)」があります。経房は、式子内親王の叔父で後見人...
式子内親王と慈円の恋

式子内親王と慈円の恋 5

三人の僧  日本仏教の貴重な文献が集められた「大日本佛教全書」(明治45年~大正11年に創刊)という書物があります。この書物の64巻138に僧綱補任残闕(そうごうぶにん ざんけつ)が収録されています。僧綱補任とは、推古32年(624)から康...
式子内親王と慈円の恋

式子内親王と慈円の恋 4

逢ふ日  式子内親王が斎院を降りてから何年か後のことです。賀茂祭(4月の吉日、第二の酉の日)に先立って行なわれる御阿礼神事(みあれのしんじ、古来からの神迎え)の日に、ある人が式子内親王に二葉葵(フタバアオイ)を献上しました。そのことが千載集...
式子内親王と慈円の恋

式子内親王と慈円の恋 3

志賀の波路に袖ぞ濡れにし  唐崎の祓えは、28代斎院の統子内親王(式子内親王の叔母)の例を見ると、退下の2年後に行なわれています。式子内親王も斎院を退下した嘉応元年(1169)7月26日からおよそ2年後ぐらいまでには、唐崎の祓えを行なったと...
式子内親王と慈円の恋

式子内親王と慈円の恋 2

唐崎の祓え(からさきのはらえ) 賀茂斎院  式子内親王は、平治元年(1159)10月から嘉応元年(1169)7月まで賀茂斎院(かものさいいん)として、神に仕えました。斎院とは、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ、下鴨神社)と賀茂別雷神社(かも...
式子内親王と慈円の恋

式子内親王と慈円の恋 1  

忍ぶ恋のヒロインとしてその絶唱の数々が今なお多くの人々に愛されている式子内親王は、愚管抄の作者であり新古今和歌集の歌人としても著名な慈円と生涯にわたって数多くの接点を持っている。知られざる二人の恋と、一粒種の娘の存在、その数奇な運命について、歴史を掘り起こします。