式子内親王と慈円の恋 19(4)

繰り返す人生の困難と、その突然の終わり

建久七年の政変 3

任子が内裏から八条院殿へ行啓

 建久7年(1196)11月24日(西暦では12月15日)午前3時頃、中宮任子が内裏から去り、暁鐘(ぎょうしょう、夜明け前の鐘)の後、八条院殿へ行啓という形で渡御(とぎょ、お移りになる)したことによって、政変が世の中に明らかになりました。なぜ、このことが政変の露見(ろけん、秘密が人に知られてしまう)を意味するのか、を考えながら状況を説明すると次のようになります。
 行啓はこの場合、中宮の外出のことで、方違え行啓などの時は通常亥の刻(いのこく、午後10時頃)に出御し、暁鐘(夜明け前の鐘、午前3時頃)に元の御所へと還御します。ところが、この日は九条兼実から指示が入りました。「内裏(だいり、閑院御所)から見ると八条院殿が太白(たいはく、宵の明星、金星のこと)の方向に当たるのでよろしくないという文書(ぶんしょ)が陰陽頭(おんようのかみ)から届きました。暁鐘以後であればよろしいでしょうから、そのように取り計らって外出してください。」
 行啓は異例の次の日の暁(あかつき)に変更されました。これは、通常有り得ない人目をはばかった行動です。そして、還御(かんぎょ)することのない退出を暗示していました。5人の公卿が供奉(ぐぶ)、そして近衛中将、少将(藤原定家)、その他の家司(けいし)たち、この記録「三長記」を残した藤原長兼も供奉の中にいました。長兼は、次のように記しています。「巷説嗷々、事已露顕」世間の噂はごうごうと喧(かまびす)しい、事はすでに暴露(ばくろ)され人が皆知るところとなった。

 同じ時、後鳥羽天皇が方違え行幸として白河押小路殿に渡御(とぎょ)、暁(あかつき、夜明け前)に、そのまま大内裏へ行幸しました。これで、任子と後鳥羽天皇との夫婦関係は終わりました。任子が内裏に戻ることは二度とありませんでした。そして、大内裏に滞在する後鳥羽天皇によって、11月25日、九条兼実が関白を罷免(ひめん、解任)され、前摂政(さきのせっしょう)近衛基通に関白宣下が行われました。

運命の反転、式子内親王が大炊御門殿へ移御(いぎょ)する

大炊御門殿への移御(いぎょ)

 それからほぼひと月後の、建久7年(1196)12月20日(西暦では1月10日になる)に、兼実から明け渡された大炊御門殿に式子内親王が移御(いぎょ)しました。
 式子内親王は、6月19日に世間の目を避けるように経房の勘解由小路殿から、龍樹御前の旧宅に移り住んで、そのままずっとそこに隠れ住んでいたのではないかと思われますが、史料が残されていないので確証はありません。洛外追放処分が正式に朝廷から下(くだ)されたのかどうかも史料を見つけることができませんが、陣定(じんのさだめ、右近衛府の陣にて公卿、参議たちが行う審議)という摂関期の朝議(ちょうぎ、朝廷の評議)の議題になったのは間違いないと思われます。少なくともその話を伝え聞いた式子内親王の驚きと不安は大変なものだったでしょう。しかし、おそらくその20日後くらいには政変が勃発(ぼっぱつ)して、*追放処分の裁定は取り消されたと推測します。
*当ブログ19章(1)の年表 建久3年(1192)から建久8年(1197)3月まで、をご覧ください。

 それから事態は急変して、式子内親王の大炊御門殿への移御(いぎょ)とその準備が慌(あわ)ただしく進められました。式子内親王は、ただ単に、嵐に翻弄(ほんろう)された木の葉のように漂(ただよ)いながら、運よく大炊御門殿にたどり着いたわけではありません。大炊御門殿を最後まで放棄しなかった式子内親王の反兼実という立場表明は、後白河院旧近臣派および兼実に批判的な貴族達の中に、確かにその意志が伝わっていたものと考えられます。そうでなければ、それまで式子内親王と関わりを持たなかった貴族達が、式子内親王の大炊御門殿への移御に意気揚々と参列することはなかったでしょう。そして、式子内親王自身も自らの闘いの成果を手にして、安堵(あんど)と喜びを感じたのではないでしょうか。 

●華やかな移御の様子が記録されている

「平戸記」(へいこき) 建久七年十二月廿日
諸院宮御移徒部類記(しょいんみや おんわたまし ぶるいき)より

 建久七年十二月二十日、乙丑(きのとうし)、朝の間、雪が降っていたが、午後になって晴れてきた。申の刻(さるのこく、午後3時から午後5時)、雪がまた散らついたけれども、そのあとすぐまた晴れた。衣冠(いかん)を整えて、まず六条殿、覲子(きんし)内親王(宣陽門院)御所に参り、お仕えしている女房にご挨拶して退出した。次に大炊御門宮、昇子内親王の御所(八条院殿)に参り、戌(いぬ、午後7時から午後9時)の終わり頃に退出した。次に前斎院(さきのさいいん)式子内親王の勘解由小路(かでのこうじ)殿に参った。今夜は大炊御門殿への御移徒(わたまし、転居)が予定されているからである。

 後白河院が崩御なさった時に、この御所を前斎院(さきのさいいん)にお譲りになられた。だが、この御所は、これまでずっと前(さきの)関白殿が、後白河院から申し受けられて、しばらく住まわせていただいた所だった。それが前(さきの)関白殿が籠居(ろうきょ、謹慎して自宅に閉じこもること)の身となられたので、このたび(式子内親王に)お返しなさることになったのだ。

 最初に、公卿(くぎょう、朝廷の高官)の方々が少しずつ参上し始めた。治部少輔(じぶしょうすけ)の為季(ためすえ)が雑事の実行役である。彼は、故右中弁の為親(ためちか)朝臣(あそん、五位以上の貴族の敬称)の息子だ。
 子の刻(ねのこく、午前0時)*に御殿の南面に御車が差し寄せられる。御車副(おくるまぞえ、牛車の左右に従って供をする従者)6人と、並びに供奉(ぐぶ、付き従う)する召次(めしつぎ、召使い)らは、宣陽門院(高階栄子娘の覲子内親王)にお願いして、宣陽門院の御方から派遣されてきた者たちである。右近衛大将の藤原頼実卿が束帯(そくたい、天皇以下公家男子の正装)姿で御車横に控えている。
 公卿たちは東上南面に並び立ち、頭亮(とうのりょう)定経朝臣も蔵人頭(くろうどのとう)として、この列の中にいる。侍臣(じしん、主人に直接仕える家来)は東上北面、中門(ちゅうもん、表門より内側にある門)裏に列立する。次に(式子内親王)が御車に乗り終わられて、行列が進み始める。

 

 万里小路(までのこうじ)より出発して、中御門大路(なかのみかどおおじ)を西行し、東洞院(ひがしのとういん)に至り、さらに南に折れ南行する。大炊御門大路(おおいみかどおおじ)に出て東行する。家司、職事(けいし、しきじ、親王家などの家政をつかさどる職員、雑務を行う職員)を務める権中将(ごんのちゅうじょう)伊輔(これすけ)朝臣以下、十有余輩が、騎馬で供奉(ぐぶ)し奉(たてまつ)る。皆それぞれに、束帯(そくたい)あるいは衣冠(いかん)姿である。行列の先頭は、頭亮(とうのりょう)定経朝臣が騎馬で務(つと)めている。

 公卿の方々は、右大将の頼実卿が束帯、民部卿の経房卿、中宮権大夫(ごんのだいぶ)公継(きんつぐ)卿が束帯、宰相(さいしょう)實明卿、皇太后宮大夫(こうたいごうぐうのだいぶ)成経卿、三位(さんみ)経家卿が束帯、大蔵卿の親雅卿、三位中将(さんみのちゅうじょう)公房卿で、御車に乗って付き従う。右大将は毛車(けぐるま)*に乗られている。
*毛車は、ここでは枇榔毛(びろうげ)の車のこと。ヤシ科の植物ビンロウの葉を白く晒(さら)したものを細かく糸状に裂(さ)いて、牛車(ぎっしゃ)の車体の全体を覆(おお)ったもの、位階の高い人が用いた。

●大炊御門殿に到着

 まず門に到着して、御車から牛を外す、それから御車を門内に引き入れ、中央に榻(しぢ)*を立てる。
*榻(しぢ)は、牛車から牛を外したとき、牛車の轅(ながえ)の軛(くびき)を支えたり、乗り降りのときの踏み台とする道具。
 公卿以下全員が、中門(ちゅうもん、回廊の前中央部に設けられて寝殿南庭の入り口となる門)の中に列立している。公卿は西上南面に、侍臣は西上北面である。次に、陰陽師(おんみょうじ)縫殿頭(ぬいどののかみ)の宣平(のりひら、賀茂氏)朝臣が進み出て、反閇(へんばい、呪文を唱えながらすり足で右に左に進む、独特な足運びで地面を踏みしめ、場を清め邪気を祓う歩行法)を奉仕する。反閇がゆっくりと少しずつ進む間に、御車を引き入れる。御車を担当する治部少輔(じぶしょうすけ)の為季(ためすえ)が御車の南側に、勘解由(かげゆ)次官の清長が北側にいて進行を見守っている
秉燭(へいしょく、燈火を手にもつこと)の者たちが御車に先だって進む。
 次いで、御車を御殿の南面の階段に差し寄せる。右大将の頼実卿が同じく御車横に控える。この間に宣平朝臣が退出して、中門のあたりで禄(ろく、報酬)をいただく。お渡しするのは、宮内少輔(しょうすけ)能光(よしみつ)である。

*想像図を作成するにあたって、溝口正人氏の「大炊御門殿の殿舎構成とその特質」から「図-1 建久6年頃における大炊御門殿寝殿を中心とした殿舎構成の復元案」を参考にいたしました。

 (式子内親王が)御車から降りられて御殿にお入りになった後、人々が昇殿する。右大将、民部卿は公卿の座にお着きになる。次に、五菓(ごか)*を(式子内親王に)献上する。これは、北面よりそっと献上される。
*桃、李(すもも)、杏(あんず)、栗、棗(なつめ)などと推測されるが、真冬なので干し栗、干し柿、干し棗のような保存食や柑子(こうじ、みかん)の類(たぐい)ではないか。

 次、頭亮(とうのりょう)定経朝臣が、障子上(しょうじかみ)の座に着席する。次、庁年預(ちょうねんよ、院庁の事務執行を監督する責任者、後鳥羽天皇の後院庁か)の宗遠(むねとお)が衣冠(いかん)姿で持参した吉書(兼実の大炊御門殿の返却状か)を、頭亮(とうのりょう)定経朝臣に差し上げる。頭亮がこれを受け取り、吉書の文面を確認してから元のように巻き、覧筥(らんばこ、貴人に見せる文書などを入れる箱)に戻し入れる。覧筥を脇に挟(はさ)んだまま公卿の座の前に進み出て、右大将に献上する。右大将これを取りご覧になった後、頭亮にお返しになる。頭亮が、二棟廊(ふたむねろう)*並びに寝殿東面の簀子(すのこ)を経て、寝殿南面の階間(はしのま)の簀子(すのこ)に跪(ひざまづ)き、簾中(れんちゅう、貴人や神仏が用いる高級なすだれ)に吉書の入った覧筥(らんばこ)を差し入れる。(すだれの向こう側には式子内親王がおられる。)(お仕えしている)女房には、頭亮がここに吉書を持って来ることを前もって告げてある。(式子内親王が)吉書を開いてご覧になられた後、また元来た道を通って、再び右大将に差し上げる。右大将は今度は中身を見ずに直ちに頭亮にお渡しする。頭亮これを持ち帰り、自分の席で書下書(かきくだししょ、身分の高い者が自らの権限で署名、判をして発給する文書)を宗遠にお渡しなさる。宗遠は受取証を作りすぐにこれを差し上げる。頭亮、また判を加えてお渡しなさる。
 
*二棟廊は、寝殿造りにおいて、寝殿の北側に位置する建物で、母屋(もや)、庇(ひさし)に加え南面に弘庇(ひろびさし)を持つ。鎌倉時代には、「二棟御所」とも呼ばれ、寝殿に次いで重要な建物だった。 

丑の刻(うしのこく、午前1時から午前3時)の頃、人々が分散して帰る。予(よ、自分)もまた退出する。今夜の出車(いだしぐるま、送迎車)は三両である。馬で先駆けの侍(天皇、上級貴族の警護をする官人)は衣冠姿である。

 公卿が殿上(てんじょう)の座に着かれた後、酒杯を交わす前に、蔵人(くろうど)木工頭(もくのかみ)兼定が参上して殿上奥座に進み寄り、権中納言隆房卿に
勧賞(けんじょう、功労を賞して位階や物品を与えること)の仰(おお)せの事を申し上げたそうだ。隆房卿はすぐさま跪(ひざまづ)いて立ち上がり、陣座(じんざ、公卿の座)に参ってこれを宣下したということだ。
  従三位 藤原隆保 造園を司(つかさど)る役の賞
  能登守 源具親(ともちか) 隆保と同様


 この記録によると、式子内親王の大炊御門殿への移御は、深夜零時から始まり午前3時頃に終わっています。
当時の慣習として、貴人の儀式、行列などを伴う旅立ちや引っ越しなどは、真夜中に行われることが多かったようです。その理由は、陰陽道(おんみょうどう)による方角、時刻などの吉凶の判断を重視した、古代より神事が真夜中に執(と)り行われる例にならった、または、昼の光の中であからさまに見せたくないものもあるので、松明(たいまつ)の下で美しく厳(おごそ)かに見せるための演出だった、など、いろいろな説があるようです。
 記録を書いた平経高は日記「平戸記」の著者で、藤原経房の妻の甥(おい)にあたり、幼少期は経房の猶子(ゆうし)でした。
 公卿の座に着いたとして名前が特筆されているのは、民部卿と右大将ですが、民部卿は式子内親王の後見人である経房のことです。右大将は、藤原頼実(よりざね)で、大炊御門殿の元々の所有者だった藤原経宗の長男です。大炊御門殿を後白河院が取得したとはいえ、やはり経宗の息子である頼実側が何らかの権利は持っていて、九条兼実の明け渡しと式子内親王の移御については、現状の確認と書類上の整備についての最終的な責任者ということで、移御の儀式においても重要な役割を果たしていたと考えられます。 

●高階栄子の協力があった

 平戸記によると、御車副(おくるまぞえ、牛車の左右に従って供をする従者)6人と供奉(ぐぶ、付き従う)する召次(めしつぎ、召使い)等は、宣陽門院の御方(おんかた)から献じられたということです。これは、式子内親王側から申し入れたようなので、式子内親王と、宣陽門院覲子(きんし)内親王の母である高階栄子との間に何らかの交流関係があったのではないかということを想像させます。当ブログの8章2-1で、式子内親王33歳の時に20代後半の高階栄子と法住寺殿で出会いがあったのではないかという推測を述べているのでご覧ください。

 実の姉の殷富門院(いんぷもんいん)亮子(りょうし)内親王や、実弟の守覚法親王とは、八条院暲子という共通の交際範囲がありながら、あるいは守覚法親王についていえば歌人という共通点がありながら、交流の形跡がまったく見られません。この近くて遠い関係を見るとき、式子内親王と、これらの兄弟姉妹には、長い動乱の年月の間に何か埋めることのできない立場の違いのようなものが形成されてしまったのではないか、という想像を禁じえません。
 その点、おそらく開放的な性格で人当たりが良かったであろう高階栄子とは、友人として15年に及ぶ交際が続いたのかもしれません。

大炊御門殿は、式子内親王没後に後鳥羽上皇の御所となった

 建久7年(1196)11月に兼実が失脚して1ヶ月後、式子内親王が大炊御門殿に移御しました。それから4年余り、式子内親王は穏やかな日々を送ることができました。後鳥羽院が勅撰和歌集を企画して歌人達に提出することを求めた百首和歌の創作に、晩年の情熱を傾けました。そして、何よりも懐かしい慈円に再会することができたと、私は考えています。このことについては、次の章で述べるつもりです。
 
 建仁元年(1201)1月25日に式子内親王が亡くなると、大炊御門殿は、頼実邸として史料に登場し、建仁3年(1203)10月には上皇となった後鳥羽院が蹴鞠(けまり)をするために御幸したという記事が見られます。大炊御門殿は蹴鞠(けまり)をするのにふさわしい庭の造りだったので、元久2年(1205)には4回ほど後鳥羽院が蹴鞠のために御幸しています。
 承元(じょうげん)2年(1208)からは、一時的に土御門天皇の御所にもなりました。
 その後、建保(けんぽう)2年(1214)、頼実がこの地に後鳥羽院のために御所を新造したので、大炊御門殿は正式に後鳥羽院御所となりました。