式子内親王と慈円の恋  —追加—

尾張の局への哀傷歌 -後鳥羽院と慈円—

後鳥羽院と慈円の贈答歌、復元の試み

源家長日記に残された贈答歌の存在

 源家長は、建仁元年(1201)、勅撰和歌集の撰進のために後鳥羽院が二条御所に設けた和歌所(わかどころ)の開闔(かいこう、書類・文書の出し入れや照合・調査を行う)として、新古今和歌集編纂(へんさん)事業の事務方の中心的役割を担(にな)った人物です。著書に「源家長日記」があり、時系列で書かれた日記ではありませんが、後鳥羽院と新古今歌人との関係、当時の出来事や様子などが記録されていて、貴重な史料となっています。
 この「源家長日記」に、尾張局の死と、後鳥羽院と慈円が交わした贈答歌が記されています。和歌の贈答は3回にわたっていて合計六十一首に及ぶものです。初回の二十首は完全な形ですが、残念なことに2回目と3回目は、順序と作者名が乱れていて、日付も一周忌前後の贈答とその翌年の春の贈答が混在している状態です。さらに、そのうちの一首は上句が消えています。この一首を外(はず)して残りの六十首で再現を試みました。
 参照したのは、「續々群書類従 第十五巻 源家長日記」と「新編国歌大観 第五巻 源家長日記」です。和歌の引用は、新編国歌大観からさせていただきました。
 特に、元久3年(1206)2月(推定)3回目の贈答の和歌の解釈が大変難しく、もしかしたらより適切な解釈があるかもしれません。読者の皆様のご教示をお願いいたします。
 青で表記してある部分が後鳥羽院の和歌とその解釈、緑で表記してある部分が慈円の和歌とその解釈になっています。先ほども申し上げましたが、2回目と3回目の贈答に関しては、贈答の和歌数と順序、そして作者名が混乱、紛糾しているように思われましたので、浅学ながら熟考の上、組み替えております。従いまして、以下の贈答歌群は私的な復元の試みとなりますのでご了承ください。
 

元久(げんきゅう)元年11月30日 源家長日記より

 尾張局が亡くなったのは、明月記によると元久元年(1204)10月19日のことです。この贈答歌は源家長日記の11月30日の条に記されています。

①なにとなくなぐさむやとてきたれども しぐれぞまさるふゆのやまざと
 なんとなく心が慰められるかもしれないとやって来た冬の山里ですが、降り続ける時雨のように私の涙もとどまることなく、尾張局を失った悲しみが増すばかりです。
 とにかくになぐさまでしもいかがせん むなしきそらのふゆのやまざと
 (突然の訃報ですから)何はともあれ、心が慰められなくても仕方がありません。時雨の空をあおいで尾張局がどこにもいないことを思い知らされる寂しい冬の山里であることでしょう。

②おほぞらにおほふばかりのそでなれや ぬるればつきのぬるるかほなる
 大空を覆(おお)うほど大きな袖だろうか。いや、そんなことはないのに涙で袖が濡れてしまったら、月もまた曇って濡れている顔のようだよ。
 つひになほうれしさつつめぬるるそで おほはんそらのつきもさやけく
 尾張局は、ついに浄土に往生したのですから、やはり嬉しさをつつんだ涙で袖を濡らしてほしいのではないでしょうか。そうすれば、大空をめぐる月も曇ることなく清(さや)かに、あなたの袖の涙に照り添って光ってくれることでしょう。

③これはよなさぞならひぞとおもへども なげくこころぞむすぼほれつつ
 これはもう、誰もがたどる決まりきった道なのだなとは思いながらも、(愛する人の死を)嘆く心というのは、あれこれ考えて気持ちが塞(ふさ)いでしまうものです。
 むすぼるるきみがこころのとくばかり さぞなならひをここにてぞしる
 もつれてほどけない自分の心が自分でわかるくらいに、愛する人が亡くなった悲しみを今、本当に知り尽くしてしまったのですね。

④なげかじとおもひとりにしこころにも かはらずながらぬるるそでかな
 嘆くまいと思い納得したはずなのに、涙の方は変わらずこぼれて袖を濡らしてしまいます。 
 おもはじとおもふおもひはそれながら ぬるらんそでよわれいかがせん
 嘆くまいと思う気持ちがあるというのに、涙で濡れてしまう袖を、私はどうにも助けてあげられないのですよ。

⑤わすれなん なかなかいまはとおもひつつ すぐるつきひのうらめしのよや
 もう忘れてしまおう、いや、今はとても無理だ、とあれこれ思いながら過ぎてゆく月日のなんとつらいこの世であることか。
 これまでもこふるわがみをたのまなん きみはわすれよわれはわすれじ
 これまでずっとあなたをお慕いしてきた私を頼ってほしいものです。あなたは(尾張局のことを)忘れてください。私が覚えていますからあとのことはお任(まか)せください。

⑥せきかへししらずがほにてすぐるみを なさけなしとやひとのみるらん
 涙を抑(おさ)え何食わぬ顔をして過ごしている身(私)を、人情がない、冷たいと傍目(はため)で見る人は思っているのだろうなあ。 
 なさけなしとみるひともあらじ みなせがわせゝにもれゆくそでのけしきを
 人情がないと思う人などおりません。水無瀬川のあちらこちらの瀬(せ、浅瀬)に、あなたの袖から涙のしずくが落ちるのを、皆気づいているのですよ。 

⑦いつまでかしぐるるやまのみねのくも そでよりほかにうちながめけん
 いつまで降り続くのか、時雨(しぐ)れている山の峰には雲がかかっている。私の袖の時雨(涙)ではないが、山の時雨をぼんやり物思いにふけって眺めていたよ。
 きみがそでいまもぬるべきしぐれかは とおもふからにはれぬおほぞら
 あなたの袖を、今も降り続く山の時雨と同じくずっと濡らしておいてよいものでしょうか、いや、そんなはずはない、と思ったそばから、大空もあなたの気持ちも晴れてくるかもしれませんよ。

⑧おほぞらをうらみてもよのかひなきに いかにかすべきありあけのつき
 (時雨を降らせる)大空を恨んでみても、浦には貝も見つからないのと同じで、夜通し雨が降り続けてどうにもならない、いったいどうしたらいいというのか、(とうとう夜が明けて)有明の月になってしまった。 
 さやけしなうらみはつべきそらならば くもりこそせめありあけのつき
 もし夜が明けるまで空が曇ったままであるなら、空を恨んでもよいでしょう。しかし、(雨が上がって夜明けの空に浮かんでいる)月の光はさぞかし穏やかに澄んでいるのではありませんか。(有明の月は静かに悟りの境地を教えてくれているのです。)

⑨そでのうへにぬるればつきのやどるかと しほくむうらのあまにとはばや
 袖が濡れれば、そこに月の光が宿るものかと、汐(しお)を汲(く)む海女(あま)に聞いてみたいものです。(なぜ私の涙で濡れた袖には、月が宿らないのでしょうか。)
 かわかなん しぐれにぬるるよはのつき しほくむあまのそでにゆづりて
 (あなたの袖が早く)乾いてほしいものです。時雨に濡れている夜半の月は、汐を汲む海女の袖に任せてしまいましょう。

⑩なにとまたわすれてすぐるそでのうへに ぬれてしぐれのおどろかすらん
 なんとまた、(悲しみの)涙を忘れて過ごしていた袖の上に時雨が降りかかったのを、自分の涙が落ちたかと思ってまた悲しみが蘇(よみがえ)ってしまいました。 
 おどろかすそでのしぐれのゆめのよを さむるこころにおもひあはせめ
 (突然の)時雨にはっと驚いて、愛する人を失った悲しみに袖を濡らした夜を思い出したのですね。その夢から覚めたような今の気持ちを、迷いからの目覚め(悟り、煩悩から離れ真実に気づくこと)に当てはめて、思い合わせてください。
 

元久2年10月27日 源家長日記より

 2回目の贈答は、尾張局の没後一年が経過した、元久2年(1205)10月27日の水無瀬殿御堂(みどう)供養の日です。後鳥羽院は尾張局のために、水無瀬離宮(みなせりきゅう、大阪府三島郡島本町に存在した)に御願寺である蓮華寿院(れんげじゅいん)を建立し、尾張局の供養を行いました。この日、後鳥羽院が慈円の許(もと)に御歌(八首)をつかわしたと源家長日記に記されています。

⑪このはちるおくやまざとにすまゐして こころにものをおもふころかな
 木の葉が散る奥山の里に滞在して、心に物思いをかかえながら過ごす毎日です。
 ながむらんおなじそらよりしぐれきて やまざとならぬそでもぬれけり
 あなたが物思いにふけって眺めているであろう同じ空から、ここにも時雨(しぐれ)がやってきて、山里ではありませんが私の袖も時雨(涙)に濡れてしまいました。

⑫きみならでたれにかつげのこまくらも かゝるなみだのよるのおもひを
 あなたでなくていったい誰に、それを告げることのできる黄楊(つげ)の小枕ではないが、打ち明けることができるだろうか。こんなにも涙にくれている夜の思いを。 
 いかばかりきみしのばずはうからまし なきあとまでもこれぞうれしき
 もし、あなたが(尾張局のことを)懐かしく思い出さなかったなら、どんなにか私は憂鬱(ゆううつ)な気分だったことでしょう。(尾張局を生前、愛しただけでなく)亡きあとまでも偲んでもらえるのですから、こんなに嬉しいことはありません。

⑬かたみとてしぐるるそらをながめても はかなのくものあとのあはれや
 (亡き人の)形見として、時雨の空を眺めて物思いにふけっていたのに、あっけなく雲までも消えてしまいました。後に残ったのはただ寂しさだけです。
 こころあれやかたみよしなきくものあと はかなきいろをはらふあらしは
 形見として見ていた雲も消えてしまって、見上げていた空に残ったのは、ただ寂しさ、空(むな)しさだけですか。嵐が雲を吹き払ってくれたのですよ。それは、すべてのものは生滅(しょうめつ)変化し、不変なものは何一つないのだから、執着しないようにという仏の教えです。嵐にも、思いやる心があるのですよ。
*参考歌*こゑたてぬあらしもふかきこころあれや みやまのもみぢみゆきまちけり(藤原定家 熊野御幸二首)

⑭いかがせんこぞはきのうとしのばれて なみだにくもるやまおろしのかぜ
 どうしたらいいというのか、去年のことがまるできのうのことのように思い出されて、涙で前が曇ったまま山から吹きおろしてくる強風にあおられているように心が乱れています。
 やまおろしのそらになりぬるこころかな こはいかにせんよそのあさじに
 山おろしの激しい風にあおられて、心がうつろになってしまったのですね。よその浅茅(あさじ、チガヤ、イネ科の植物、群生して絹毛のような白い穂がなびく光景が美しい)があなたとはあまり関係のない場所の草むらに過ぎないように、(尾張局は)更衣(こうい、女御より身分が低く私的な寵愛の対象と見なされる)に過ぎないのですから、いくら愛していたとしても、これ以上どうすることもできません。(ご自分の立場を見失わないでください。)
*参考歌*浅茅生(あさじふ)の小野の篠原(しのはら)しのぶとも 人しるらめや いふ人なしに(古今集 詠み人知らず) 

⑮やまざとにすむかひあらばひとしれぬ なげきをはらへみねのこがらし
 山里に住む甲斐(かい、値うち)があるならば、また峡(かい、谷あい)もあるだろう、そこに生(は)えている嘆きという名の木を吹き払っておくれ、峰に吹く木枯らしよ。
 かぜもいなきみがやまかげしげれども もとよりなきはなげきなりけり
 いいえ、木を吹き払う風もいりません。あなたの山かげはあなたの恵みを受けて木が繁(しげ)る豊かな場所です。そこにはもともと嘆きという名の木は生えていないのですよ。

⑯まよはれしやまのおがわのうすごほり いまはかきながすのりのみずなみ
 思い悩んだために、山の小川の薄氷のようにさまよいましたが、今は法(のり、仏の教え)の水が、波のように煩悩をかき流して、私の心を洗い清めてくれました。
 みなせがわときながすらむのりのみず やまのひじりのさとりなりけり
 水無瀬川が、法の水を溶き(説き)流してくれたのでしょう。山の聖(ひじり、寺を離れ草庵に住んだり諸国を遍歴したりしながら修行を続ける僧)の悟りの境地ですね。

⑰おもひいづるおりたくしばのゆうけぶり むせぶもうれしわすれがたみに
 ふと(亡き人を)思い出す折に、柴を折っては焚(た)きして夕煙りが立つのを眺めています。時に煙りにむせぶのも(尾張局に逢ったようで)、忘れ形見としてまた嬉しいものです。
 おもひいづるおりたくしばときくからに たぐひしられぬゆうけぶりかな
 (亡き人を)思い出す折りに柴を折っては焚く火と聞いただけでも、なかなか聞かないほど心ひかれる夕煙りですね。

⑱なはくちぬこけのしたにもうれしとや とぶらふかねのおとをきくらむ
 もう誰であるかもわからなくなる苔(こけ)の下に葬(ほうむ)られても、安らかにと祈る鐘の音を、嬉しいですよと思って聞いてくれているのだろうか。
 きくひとのこころはそらになりぬなり のでらのかねのおとぞかしこき
 鐘の音を聞く人の心は、大抵(たいてい)は煩悩や執着を捨てた状態になってしまうと言われています。野中にある寺(官寺ではなく民間の寺)の鐘の音というものは、尊いものです。

元久3年2月19日(推定)源家長日記より

 3回目の贈答のテーマは、慈円の遁世(とんせい)です。引退して遠所に赴(おもむ)こうとする慈円を、後鳥羽院が思いとどまるように説得しています。季節は⑳だけが秋で、㉒、㉔、㉖、㉚が春となっています。
 旧暦で春は1月から3月ですが、元久3年(1206)3月7日に大きな事件が起こりました。摂政九条良経の急死です。良経は38歳で、土御門天皇の摂政、九条家の2代当主、歌人としては新古今和歌集の仮名序を書いた人物です。良経の突然の死はその死因が不審な状況であったこともあいまって、後鳥羽院、慈円(良経の叔父)を始め、政界、貴族社会に大きな衝撃を与えました。尾張局の哀傷歌の贈答は、急遽(きゅうきょ)良経の哀傷歌の贈答へと変わっていきます。
 したがって、尾張局の哀傷歌の3回目の贈答の時期は、元久3年(1206)1月1日から3月6日までの間と考えられます。そのなかで一番可能性が高いのは、2月12日に後鳥羽院が水無瀬殿に御幸し、2月20日に五辻(いつつじ)殿に還御(かんぎょ、お帰りになる)した期間です。19日が尾張局の月命日にあたるので2月19日を贈答の時期として推定しました。

 ⑲きみかくてやまのはふかきすまゐせば ひとりうきよにものやおもはむ
 あなたがそうして余生を山の端(山の稜線)近くの奥深い所に隠遁(いんとん、世俗を離れて生活すること)して送ろうとするならば、私は一人うき世に取り残されて、あれこれと思い悩むことだろう。
*後鳥羽院御集には詞書として、「前大僧正慈鎮遁世(とんせい)の暇(いとま)申しけるに仰せつかはされける」 とある。
 
 なほてらせひとりこのよにきみをおきて やまのはおもふこころふかさを
 ひとりこの俗世にあなたをおいて、私は山の端深く隠遁して余生を送ろうとしています。その私を慕(した)ってくれるあなたの思慮深さを、月よ、なおいっそう照らして守ってください。 

⑳さてもなほやまのはおもふみちはよな きみぞしるべのかぎりなりける
 さてどうしても山の端を思う道(隠遁すること)をあきらめられないのですね。あなただけが私を導いてくれる道しるべだったというのに。 
 やすからぬみとぞなりぬる あひがたきのりにあふみのやまだもるころ
 心が穏やかでない身になってしまったのです。仏の教えに出会って比叡山の僧侶となり、近江(あふみ、逢ふ身をかけている)の山田を守る(僧侶としての勤めをはたしている)今になって。 

㉑うきことはいづくもおなじそらのつき みやこのやまにしばしやすらへ
 空の月がどこから見ても同じであるように、つらいのはどこにいても同じです。そうであれば、都の山に、しばらくとどまってください。
 けふまでもうきをみるべきわがみかは こともおろかにきみをたのまば
 今日に至ってもまだ、つらい思いをしなければならない我が身なのでしょうか。よりにもよってあなたを頼みに思ってしまったら、そうなるかもしれません。

㉒これもさぞなぐさめかねし このはるは いまさらしなのつきやすみけむ
 今年の春は、山の端の奥深い草庵に向かおうとしていたのですか。(古来、月の名所である)更科の月のようにその山の端の月もさぞかし澄んでいるのでしょう。残念な思いをさせてしまうのですね。
*本歌*わが心慰めかねつ更科や 姨捨山に照る月を見て(詠み人知らず 古今集)
 きみがためみやこのやまにやすらひて なぐさめかねつはるのよのゆめ
 あなたのことを思って都の山にとどまりながら、春の夜の夢を見ても私の心を慰めることはとうていできません。

㉓いにしへのいはでのもりのつゆはしらず きのうはそでのいろにいでにき
 磐手の杜(いわでのもり、言わないで秘めておくを掛けた歌枕、大阪市高槻市安満の森)ではないが、昔のことは露知らずに(何も知らないで)いたけれども、昨日は、(あなたの話を聞いて)涙で袖を濡らしてしまいました。
*本歌*人知れず思ふ心はいはでのもり こやただならぬ物にぞありける(源 兼昌 詞花和歌集)
 たれにかはいまはいはでのもりのつゆ むかしのそではきのふなりけり
 いったい誰に、今まで言わずに隠していた磐手の杜(いわでのもり)の露(涙)を打ち明けようと思ったでしょう。(あなたにお話してしまいました。)昔、濡らした私の袖は、きのうのあなたの袖と同じことでした。

㉔いにしへのなみにかへりしうらかぜを いまはむかしにきくぞかなしき
 いにしえの波に返っていった和歌の浦(和歌山県和歌山市にある景勝地)の浦風(昔の人によって詠まれて、親しまれ伝えられた歌)を、今は遠い昔のこととして聞くのは悲しいことですね。
 みちしめていづちむなしくゆきにけむ いまはむかしのわかのうらかぜ
 その当時は今のこととして誰もがその歌に感動したはずなのに、時が経つにつれて古い出来事として忘れられ由来もわからなくなってしまうのでしょう。同じように私たちが今詠んだ和歌もいつか今は昔となって、和歌の浦に吹く浦風となるのでしょう。

㉕めぐみゆへはるのひかげになれなれて きえせぬつゆをあはれとぞおもふ
 恵まれて春の日差しを受けるのに慣れてしまって(なまじ身分や地位があるばかりに守られて)、どこかに消えることもできない露のような不自由な身であることを気の毒に思います。 
 もろともにのべのつゆとやきえなまし きみがめぐみのはるにあはずは
 (尾張局と)一緒に野辺の露となって消えてしまえたものを。あなたの春の恵みのような恩恵に会わなければ。

㉖ことのはにかかれるつゆぞあはれなる いかでかみましふかきいろをば
 あなたの言葉の端々(はしばし)にかかっている露(嘆きの涙)はとても悲しいのですが、どうにかしてもっと心の奥の深い思いも見せてほしいのです。
 きみがとふそのことのはにかかりてぞ うきみのつゆはきえのこりぬる
 あなたが尋ねてくれるその言葉に寄りかかって、思うようにならない境遇の我が身(露)も(かろうじて)消えずに残っています。

㉗たのむともこはかなはじとおもひしも ふかきこころのいろやみえけむ
 あなたを頼みに思って都に引き止めたが、この願いは叶(かな)うまいと内心思っていました。しかし今、あなたの心の中の深い思いが見えたような気がします。
 きみがよをさしもおもはぬみなりせば すこしもよそにおもはざらまし
 あなたの御代(みよ)をそれほど大切に思わない私であったならば、自分には関係ないとして(都にとどまることなど)少しも考えなかったことでしょう。

㉘おくそでのつゆもひかりになるべくは くらきにまよふみちはあらじな
 (尾張局の死を嘆く)涙も我が袖に落ちて光となったにちがいありませんから、私はもう(仏の救いを知らないまま)思い悩むことはないと思います。
 かけまくもかしこきそでにおくつゆは きえにしたまのひかりなりけり
 口に出して言うのも畏(おそ)れ多いあなたの袖に落ちた涙の露は、亡くなった(尾張局の)魂が光となって(あなたを導く)ものなのでしょう。

㉙ゆふぐれのくももこころのありあけに こゑだになくてかりのゆきぬる
 私の心の中の有明の月には、(春の)夕暮れの雲に声もなく雁が北の国へ帰っていく光景が重なっていますよ。
 はるのかぜこはいつよりぞ あきのこゑなにはのゆめはあしのかれはに
 いつからでしょう、また春の風が吹いていますね。雁が声を上げながらやって来た秋に、難波の夢は芦の枯葉に吹く風と共に消えたはずなのに。
*本歌*津の国のなにはの春は夢なれや あしのかれはに風渡るなり( 西行 山家集)

㉚もよおすもなぐさむもなほきみゆへに うきよのなかをさとりいくかな
 悲しみがこみ上げるのも心が癒(いや)されて慰められるのも、やはりあなたがいてくれるからこそです。浮き世(憂き世)を生きる中で、悟りの境地というものがどういうものかわかってきました。
 さりともとまつこそとはるよなりけり さとるかどでのはるのあけぼの
 もうこれで終わりだと思わずに、もしかしたらと待っていれば向こうから訪ねてくることもあるのが、世の中というものです。(道に迷ってもいつか答えがわかるかもしれません。)悟りの道の門出(かどで)となった春の曙(あけぼの)ですね。
*本歌*さりともとたのむ心は神さびて ひさしくなりぬかものみづがき(式子内親王 千載集) 
*本歌*桐の葉もふみ分けがたく成(なり)にけり かならず人をまつとなけれど(式子内親王 新古今集)
 

贈答歌の内容から想像されるストーリー

 まず、⑫の慈円の返歌をご覧ください。
 いかばかりきみしのばずはうからまし なきあとまでもこれぞうれしき
 愛する人が亡くなった時に悲しんで懐かしく思い出すことは、人として当然のことです。慈円が後鳥羽院の心情に寄り添ってこの和歌を詠んでいるなら何も問題はありません。しかし、しのばずは憂し、しのべば嬉し、という表現は一般的なものではありません。これが父親としての表現だったならどうでしょうか。我が娘に対するひととおりでない上皇の寵愛を知って感謝の気持ちが湧いてきたということで、決して短絡(たんらく)的(思慮深くない、早計)な表現ではないように思います。

 次に⑭のやまおろしのそらになりぬるこころかな こはいかにせんよそのあさじに という慈円の返歌です。
 よその浅茅は、あなた(後鳥羽院)とは関係ない場所の草むら、という意味です。家柄や素性(すじょう)が高くないというたとえとして私は受け取りましたが、そうだとすればこれも臣下が上皇の愛妾について言うには、少し高圧的な表現ではないでしょうか。しかし、尾張局出生(しゅっしょう)の真相を知っている人間、この場合は父親である慈円が「尾張局は、表向きはよその浅茅なのですよ」と言うなら、後鳥羽院を説得する言葉になるはずです。

 ⑳の慈円の返歌は、やすからぬみとぞなりぬる あひがたきのりにあふみのやまだもるころです。会いがたき法(のり、仏の教え)に会い、僧となって比叡山を守る身だったはずなのに、安からぬ身となったのはなぜでしょうか。
 安からぬ、とは心が落ち着かない、不安である、という意味合いですが、尾張局の死をきっかけに、出家者としての自分をもう一度見つめ直したい、現在の立場、環境から離れて孤独に自分と向き合いたいという、慈円がもともと望んでいる一求道者(ぐどうしゃ、真理を求めて探究し続ける人)としての在り方を実践(じっせん)したかったのではなかったかと思われます。西行に憧れ、隠遁(いんとん)生活を求めていた慈円にとっては、式子内親王と尾張局を失った今こそ、山の端近い草庵に住まいを移す最後の機会だったのでしょう。

 ㉑、㉒では、慈円の遁世(とんせい)の意志は固く、後鳥羽院の慰留(いりゅう、思いとどまるように引き止めること)を拒んでいます。

 ㉓は、いはでのもり(言わずに心に秘めておく)という歌枕を使って、後鳥羽院が過去の出来事に言及しています。
 いにしへのいはでのもりのつゆはしらず きのうはそでのいろにいでにき
 これは、尾張局の出生の秘密に関することではないでしょうか。
 尾張局が、後鳥羽天皇が5歳前後の頃から七条院殖子(しょくし、後鳥羽天皇母)に仕えていた最古参の女房の一人ではないかということは、第10章1-1で述べました。彼女は後鳥羽天皇より6歳年上で、元久元年(1204)7月に朝仁親王を出産した後、31歳で亡くなりました。当時としては、かなり年齢がいってから後鳥羽院の寵愛を得たことになります。
 後鳥羽院は建久8年(1197)の春に式子内親王の後見人である吉田経房から、尾張局の出生の秘密を聞いている可能性があります(第20章1-1をご覧ください)。尾張局が更衣として後宮に入ったのは、建久8年(1197)の春以降、後鳥羽院が尾張局の出自(しゅつじ、家柄・血統)を知ってからではないでしょうか。尾張局はこの時すでに24歳(数え年)になっています。しかし、式子内親王と慈円の娘という彼女の出自は、後鳥羽院にとって何ものにも代えがたい大きな意味を持っていたはずです。
 尾張局が年齢がいってから後宮に入ったこと、そしてその死が後鳥羽院にとっては大変残念だったこと、後年、朝仁親王(後の道覚法親王)が5歳で慈円の青蓮院に入室したことにはこうした経緯があるからではないかと思います。

 ㉕ めぐみゆへはるのひかげになれなれて きえせぬつゆをあはれとぞおもふ
   もろともにのべのつゆとやきえなまし きみがめぐみのはるにあはずは
 後鳥羽院は、慈円に対して寛容な姿勢を見せていますが、慈円は恐縮しています。彼ら二人には絶対的主従関係があり、慈円には過去の過(あやま)ちへの自責の念がありますから、後鳥羽院の信頼を失ってもやむを得ないと覚悟していたのでしょう。宗教上の隠遁(いんとん)の道に加えて、護持僧の引退の道があり、二重の意味で慈円は後鳥羽院との別れを考えていました。

㉖、㉗は後鳥羽院が一歩踏み込んで、慈円の隠遁を引きとどめようと説得していて、慈円はとうとう後鳥羽院の誠意ある説得に、隠遁をあきらめるとの答えを出しました。

㉘では、後鳥羽院が、尾張局の死を乗り越えて今後も自分の護持僧として仕えるように慈円に念を押しています。

㉙、㉚は、後鳥羽院と慈円の合意と再出発の祝意の感じられる贈答で締めくくられます。